16.
夏に彼女と行った水族館を思ったよりも楽しんだ自分が居た。元々レジャースポットに行くのは好きな方だったけれど、水族館だけは何が面白いのか解らない部類の物だった。けれど彼女と行ったら楽しかった。魚を見て、と言うよりは、無邪気に魚を見る彼女を見て楽しんでいたと言った方が正しいのかもしれない。
だからこそ涼しくなったら遊園地に行こうと決めていた。
約束は果たされたが、要らぬおまけ付きだ。
虎の手で強引に列の外へと押し出された俺は、彼女と虎が乗車位置迄歩くのを見る事が出来る場所へと立った。さっきまで三人でふざけ合っていたせいか、一人になった事で余計に疎外感を感じる。
虎は園のマップを見ながら何やら彼女に話し掛けていて、彼女は虎を見上げ何か返事をしている様だった。
虎は、言うのだろうか彼女に。
――― 好き、なのだと。
「……」
虎が彼女に満開の笑顔を見せる。其れを見て彼女も笑う。
虎は、多忙な両親の元で親に愛される事を知らないまま大人になった。幼少時代の愛情不足はその後の虎の形成に絶大な影響を与えたに違い無い。そして詳しく聞いた事はないが、自分が愛情を持った誰かに裏切られた事があるのだと思う。恐らく高校一年の夏休み。俺が話し掛けても冷酷な瞳を向ける時が有った、多分あの時だ。
あれ以来虎は、確実に人と付き合う事に境界線を引いた。
とけ込んでいる様で、実質何も理解し合っていない関係を幾つも幾つも築いていた。俺だけが虎に受け入れられている唯一無二だと自負も有る。俺には虎に対して『構え』が無かったから、こういう関係に至ったのだろう。
虎の両親は、大阪で有名な会社の社長で周りは虎を特別視していた。『山本を怒らすと親父のクビが撥ねる』なんてくだらない噂話も出回っていたし、アイツの俺様な性格も手伝っていたのかもしれない。
そんな虎が、彼女に心を許している。元々、理想の女だと阿保みたいに繰り返し俺に訴えていた位だ。理想の女が思いがけず近くに居て、自分を叱る程には親しくなった。
彼女が虎を異性として好きだとは思わない。そして虎も流石に、俺の女を奪おうなんて考えてはいない筈だ。
だからこそ、怖い。
今の今まで我慢と言う我慢をしてこなかった男が初めて『我慢』をするのだ。己の思い通りにならなかった事なんて、数えるほどしか無い男が己の感情を押し殺すのだ。
虎と彼女が乗り込んだ象の形を模した乗り物が動き始め、随分と高い位置でぐるりと回り出す。虎の頭と、彼女の額が僅かに見える程だ。今頃二人は何を話しているのだろう。
告白して、完膚無きまでに叩き潰されれば良いと思う。二度と、彼女に愛おしそうな眼差しを向けない様に。
俺はそんな事を思って「心せまっ…」と自嘲的な笑みを零した。遊びの女の趣味ですら被った事なんてないのにな。
アトラクションが終わりの合図を告げゆっくりと機械が停止する。俺は出口へと向かい、彼女等が出てくるのを待った。幾人かの家族が俺の前を過ぎて行く。その少し奥に長身の虎が見えた。
「…」
人の合間から覗く繋がれていた手が解け、虎は彼女の頬を親指と人差し指でぎゅっと挟む。
「オイコルラァどの口が俺を笑うとった? あっ?」
彼女は痛いと訴えたが、虎は容赦はしない。
「…止めろや恥ずかしい…ガキかっ」
俺は虎の手首を掴み、その手をゆっくりと放した。一瞬だったけれど虎と視線が交わる。其処にある表情は、”困った” 様なものだった。
その後別のアトラクションを楽しんだ後、彼女が手洗いへと中座した。
「言ったんか」
「何をよ」
虎は遠慮もせずに、俺等に背を向けて歩いて行く彼女を見つめたまま答える。
「言わへんのかいな、もう暫く会えへんねんで?」
「だから何をよ」
「果歩の事好きなんやろ」
「あー、すっきやで? 自分と同じにな」
彼女が角を曲がった所で、俺が虎の方へと身体を向けると虎も又俺の方へと顔を向けた。
「アレは麻美とは違うな。認めたるよアイツが自分の大事な女やて」
「虎」
「俺なぁ自分には感謝しとんねや。自分がおらんかったら俺暗黒の帝王ぐらいにはなってたんちゃうやろか」
「…暗黒て」
虎が羽織っていたジャケットのポケットに両手を突っ込み、俺から目を逸らし俯く。そして、くつくつと肩を揺らして笑い
「帝王にはならんと、ただの俺様で済んだ訳や」
と言った。虎の言わんとする事は何となくだが理解出来た。
「王様に王子が意見出来る時代で良かったな、虎」
「ほんまや」
自分で言うのも何だが、虎の暴走を止める事が出来たのは彼の両親でも教師でもなく、俺だった。街で憂さ晴らしに喧嘩をする事も、女遊びが度を超えている時も、俺は巧く虎を懐柔出来た。
「…アイツが自分の女で良かった」
心からそう言っている様に聞こえた。無理をしてるでもなく、俺の為に嘘を吐いてるでもなく、本当の心境に聞こえた。だから俺は「だから言うたやん心配せんでええて」と言った。
”有難う” なんて言葉は照れ臭過ぎる。
夕暮れ、虎が大阪に帰ると知った彼女は寂しいと涙を流した。
俺のダチが離れてしまう事を同じ様に寂しく思ってくれる彼女に愛おしさが込み上げるだけで、妬いたりはしなかった。
「何や自分泣いとんのかい。お前は涙もやっすいのぅ」
虎はそんな事を言って彼女をからかったけれど、彼女を見つめる彼の瞳は優しいものだった―――――。
◇
「和田主任ーっ!」
「おぅ何や草野、何でどら焼き片手に仕事しとんのや」
半年振りに大阪支社に戻った俺を、かつての仲間達は満面の笑みで迎えてくれた。
「今日はアーバンさんとこの創立祭行かはるんです?」
「そうや、その為にこっち来とんのや。あー井原、木梨工務店さん最近どうなん? 社長に会えたらええかな思うてんやけど」
俺が担当していた客を受け継いだ部下達に声を掛けていくと、彼等は一様に嬉しそうな顔をする。俺が担当していた客は割かし個性が強くて、部下達が苦労しているのが手に取る様に解るだけに俺は微苦笑した。
第一の売上先だったアーバン・クリエイトが創立五十年と言う節目の年を迎え、今夜パーティが催される。其れに参加する為に俺は、佐野営業部長から直々に呼び戻された。其れが今回の大阪出張の名目である。
「何や佐野さんは重役出勤かいな」
俺は空席の部長席を見遣ってそう言った。
「昨日は接待やったみたいで、出てくんのは午後からやと思いますよ」
どら焼きをデスクの空いているスペースに置いた草野は険呑な表情で言い放つ。
部長の佐野さんは、やり手で癖のある上司だ。飲む打つ買うをやる男、其れが原因で二度も離婚をしたせいか我が社の女性事務員からはすこぶる評判が悪い。強引過ぎる所もあるが、勝負事に強いこの男は多少なりとも野心を抱く営業マンには魅力的な男だ。其れは俺も例外ではない。
この男の下で働けた事で、客の落とし所を知り知識を身に付けた俺は佐野の秘蔵っ子等と言われていたものだ。
「佐野さん、もう五十も過ぎたんやろ? 身体大丈夫なんかいな」
「部長の身体心配しはるなんて奇特な人、主任しかあらしまへんよ」
明け透けな物言いをする草野は、高卒からこの会社に居る八年のキャリアを持つ営業事務員だ。佐野さんをこき下ろす事が出来るのは彼女だけに違いない。
「佐野さんおらんやったら、売上落ちんで」
「…あー残念ながら反論出来まへんわー」
草野はそう言いながら周囲に座る営業達を見回した。発破を掛けられた男共はデスクに視線を落とし、彼女からの圧力をかわしている。
俺本来の『持ち場』だなと思い、懐かしい雰囲気に俺は相好を崩した。半年も会っていなかったのに、テンポの良い会話が出来るのは関西人ならではか、培ってきた信頼関係の賜物か。