15.
2013/12/15 誤字訂正しました。。。
ふざけやがって…伊藤の奴。
俺は心中、部下を罵りながら手元の見積書を見て電卓を叩いていた。どうして明朝一番で発注かけないと間に合わない商品の見積書が前日の夕刻に俺の手に在るんだ!
俺のチェックが終わると今度は、課長決裁が待っている。課長決裁の後、正式な見積書として取引先に提示され其処から本発注だ。俺の隣に位置する課長は目を瞑り腕を組んで終始黙しているが、結んだ唇は時折歪み、デスクの下で足が小刻みに揺れていた。
「…オッケーです」
俺はそう言って押印した後、目の前で叱られた子犬宜しく縮こまっていた伊藤君は「あざすっ」と書類を受け取って、直ぐ様課長に頭を下げた。
俺はデスクの上を片付けながら、腕時計を見る。今日は、虎が料理を作り彼女も呼んで三人で家飲みをする予定になっていた。彼女は既に帰社済みで先程、家に到着したとメールが有った。
虎と彼女が二人きりなんて、面白い訳が無い。
ろくに見もしないで判を押した課長が「お先」と席を立ち、携帯片手にフロアを出て行くのを見送った伊藤君が『はぁー』と大きく息を吐いた。俺は痛む頭を抱えながら「メーカーには押さえてあるんだよね、伊藤君?」と冷静を装って聞いた。
「ハイっ朝見さんが、在庫だけでも押さえて置いた方が良いって教えてくれたんで仮発注済ませてます!」
気の効いた朝見を褒めるべきか、派遣に尻叩かれてる伊藤を叱咤するべきか。どちらも正直面倒だ。
俺は伊藤君が先方にメールを送り、発注書をメーカーに送信する迄見届けて、やっと腰を上げた。
「お疲れっしたっ」
悪い奴じゃない。大卒の二年目…二年か…二年で此れはどうかと思う。
「伊藤君、もうちょっと頑張って」
「…ハイっあざーすっ!」
お礼言っちゃうとか、最早駄目かも、コイツ。
伊藤君の事で無駄に疲れて帰宅した俺の気分を一気に上げたのは他でもない彼女だった。
玄関まで俺を迎えにやって来た彼女が発した『おかえりなさい、お疲れ様です』。
衝撃的だった。
俺って単純だな、と口元を緩めていると俺の左手からブリーフケースが彼女に奪われる。其れは一連の流れの様にさえ思えた。
「山本さんが、又美味しいパスタ作ってやるから千円持って来いって。マンション、リストランテになっちゃいますよ?」
彼女がにこにこした顔をこちらに向けながら、リビングへと歩いて行く。
『おかえり』が凄く嬉しくて、彼女の自然な行動に胸がいっぱいになった。あ、コレめっちゃ良いって思えた瞬間だった。疲れて帰って来て、彼女が笑って出迎えてくれたら明日も頑張れる気がした。
俺は、彼女とこういう未来を思い描いてるのかもしれない。
◇
大阪で一度一緒に仕事をした事のある設計士の大間さんから連絡が有った。
「和田さん、御社のあのシミュレーションの中に、大間工房の作品を幾つか載せて貰えないだろうか」というものだった。
元々、大間さんの事務所ディデザインは東京本社との付き合いがあり、大間さんがたまたま大阪で受けた仕事の担当が俺で知り合いになったと言う間柄だ。クオリティの高い仕事をする人だが気さくで、付き合い易い人。又一緒に仕事をしたいねと言葉を交わしていながらもなかなか其れが叶う事は無かったが、東京に異動になった際も、今回ホームページがリニューアルした旨もメールをしていた。そして、レスが例の企画だった。
彼女の手掛けたものがこうして誰かに認められたのは嬉しい。だが、ホームページがどの様な過程で作られているのか解らない俺にしてみれば、彼女の負担を危惧するのは当然の事だった。
課長も自分が直接手を下す訳では無いからか、彼女達情報システム部に丸投げで「このアイディアを活かせ」と安易に言う。権藤部長も快諾と言う程の顔はしていなかったが、会社の稼ぎ頭、営業部を無視は出来ない様だった。
そして案の定彼女は、到底気軽に受けたイレギュラーな仕事とは思えないフットワークを見せたのだ。
大間さんが手掛けたお店に何店舗か行き、他の材質のデスクやツールの撮影に各メーカーのショールームに赴く。所謂、内勤である彼女が外出過多で同僚の牧野が奔走している様に見えた。
イントラで彼女のスケジュールを確認すれば、イントラをログアウトすると打刻される退勤時間は平気で二十二時を回っている。
今日も残業をしているであろう彼女の元を俺は訪ねた。
「お疲れ」
「…ユキ、さん」
俺が掛けた声に彼女は酷く驚いて辺りを見回した。心配する事は無い、此処の部署はおろか隣の総務部、はたまた俺が居る営業部だって誰一人として残っている者は居ないのだ。其れほどの時間なのだ。
「なぁ其れ、大間さんの奴やんなぁ?」
彼女のデスクに浅く腰掛け、斜め後方のパソコンの画面を見下ろす。
「一人でやっとんの? 彼には頼まへんの?」
「…牧野は新しいイントラの最終調整に入ってるし…ホームページはあたしが担当してるから…」
「こんなん根詰める必要あんのん? 俺、年内で良いて言うたやんな? 大間さんにも其れは約束取り付けてんで」
彼女が仕事に誇りを持って取り組んでいる事を好ましく思う。けれど彼女の無茶を承知する訳にはいかなかった。大間工房には確かにうちが撮影の為に足を伸ばす必要が有る。だが、メーカーからは適当に幾つかの写真をデータで受け取れば良かったんだ。何も彼女が全てを引き受ける必要は無かった。
「金にはならんねんよコレ! ただうちが大間さんとこに恩売りたいだけの事やねんで? 解っとるやろ?」
俺がはっきりとそう言うと彼女は視線を逸らし、キーボードに掲げていた両の手をぎゅっと握る。
「…解ってます…でも、ちゃんとやりたいんです。中途半端は、したくない」
俺はただ彼女に無理をさせたくなかっただけだ。
彼女のプライドを手折るつもりはない。
「好きにせい」
俺は手にしていた甘いカフェオレの缶をデスクに乱暴に置いて、エレベーターホールへと向かった。乗り込んだエレベーターの壁に背を預け、俺は硬く目を瞑る。
「解っとらんから言うてんのやないか…くっそ…」
大間工房に到着し、彼女がファインダーを覗く姿を俺は暫く黙って見ていた。当たり前だが、彼女の瞳は真剣そのものだった。妥協を許さない彼女の仕事に対する姿勢だ。
頭では解っている。此れは彼女に与えられた『仕事』だ。例え金にならない物だとしても『仕事』なのだ。
俺だって仕事なら、きっちりと百パーセントの力を出し切ってやる。だけどさ、心配で心配で堪んないんだよ。全力で動いてしまう彼女が何時かの様にぶっ倒れてしまうんじゃないかって思うと気が気じゃないんだ。
「…何だか…彼女の熱意が凄く伝わってくるね」
ぽつりと零された声に俺は思考を戻す。スツールの脚に鑢を掛けていた大間里利子さんが手を止め、ギャラリーの方へと目を向けていた。笑みさえ浮かべたその顔は、とても嬉しそうだ。
「里利子さんの魅力を、閲覧者に伝えたい、ただ其れだけを考えてるんですよ」
「…伝わりゃ良いけど」
彼女のそっけない言い草は、照れ隠しの様に思えた。
結局、俺は見守るって選択肢しか与えられてないのか。
そう、だよな。
今は其れしか出来ないんだよな。
◇
「虎、何しとん」
風呂上がりに水を飲もうとキッチンへ向かえば、虎が鼻歌を歌いながら何やら料理をしていた。
「弁当の準備」
「…自分まさかと思うけど」
「明日俺も一緒に行くで? 安心せぇしっかり三人前準備しとる」
開けようとしていた冷蔵庫の前に棒立ちになった俺を押し退け、虎は扉を開き中から必要な食材を取り出す。
「…誘っとらん」
虎は俺の話を聞くつもりはないらしく、手際良く一品一品を仕上げていく。この男がこうと決めたら譲らないのは何時もの事で、俺はミネラルウォーターのペットボトルを手にして、ソファーに座ると彼女に虎も参加になったとメールした。
「ユキー?」
「何や」
「俺なぁ、芳野の社交辞令言わへんとこ、好きやねんよ」
口に流し込もうと傾けたペットボトルを持つ手を止め、俺は虎の声に耳を澄ませる。
「食うか? 言うたら”食う食う” 言うて行こか? 言うたら”行く行く” 言うやんか。俺アレが好っきやねん」
フライパンで何かを炒めてるらしく、ジューと音が立つ合間の虎の言葉。
”好っきやねん” か…。
俺が知る限り、虎にはっきりと物が言える異性はお姉さんしか居なかった。虎にとって異性はセックスの相手でしかなかった筈だ。
「…玉砕しろや自分」
俺ははっきりと大きな声でそう言ったのに、虎は相変わらずフライパンを振るだけで何も答えなかった。