14.
未だ二十時前だが涼しい風が吹いていた。ビルを出た途端、若村が伸びをして大きく深呼吸する。
「煙草、だろ?」
すっかり砕けた若村の口調に、今は、会社関係無しと言う意味なのだろうと俺は思った。俺は若村の後を追ってコンビニに入った。もう既に煙草を買う気は失せていたので、俺は雑誌を手に取った若村の横に並び立つ。
「…何してんの、煙草買いに来たんだろ?」
若村が怪訝な表情で俺を見上げる。「貴方こそ」と言うと「俺、煙草吸わねーから」と悪びれもせず答え、若村は手の中の雑誌をパラパラと捲った。
「…アイツ、器用じゃないからさ、アンタがどういう男か知んねーけど、色々大目に見てやってよ」
「随分…彼女の事解ってるんですね」
厭味のつもりだったが、若村の方は全く意に介さない。寧ろ笑っている。
「三年だ、俺の下で三年働いた。一年三百六十五日顔を合わせてたって言っても過言じゃない位、密にね」
意味深とも取れる発言に俺は眉根を寄せる。だが又、若村が笑ったので俺をからかったのだと知れた。
「真関はね、渡米の際アイツを連れて行きたいと思ってた。でも未だ仕事にも慣れない状態のアイツをそんな刺激的過ぎる場所に連れて行く事は、可哀想だと判断したんだ。真関の勝手で、アイツ等は別れた。エゴだろ、好きなら連れてきゃ良かったんだ。アイツの気持ちはアイツのもんだ」
若村は雑誌を閉じるとラックに戻し、チノパンのポケットに手を突っ込んだ。
「あー俺、他人に口出しすんの大っ嫌いなんだけどな……真関が気にするからよ。アイツが幸せじゃないとさ」
君は、一体何人の味方が居るんだ?
ご両親も然ることながら、柴田さんに、若村、真関、そして虎。どれだけの人間が、君の魅力に参っている?
「さて煙草も買った事だし、そろそろ行くか。女の抗争も終わったか」
そう若村は笑った。
俺の掌に煙草は無い。俺が手にしたのは、真関から託された想いだ、恐らく。
案の定、彼女は朝見に何かを言われたらしく普段の酒量を超えて杯を空けていた。疲れ切った身体に染み込んだアルコールは彼女を簡単に酔わせてしまう。
「よっしー、何血迷った訳?」
「…んー…と、美味しそう? だったから?」
潤んだ瞳に、とろりとした話し方の彼女はほろ酔い状態の様だ。若村は自分が送るのが妥当とばかりに彼女の腕を掴み、無理に立ち上がらせる。急な行動に彼女の身体は追い付けずに若村に傾れかかった。若村は持ち前らしい悪態を吐きながら、彼女と共にふら付いている。とても適任者とは思えずに俺は若村を制止した。だが、彼女自身が俺を拒んだ。
「大丈夫っ」
彼女は俺の目をしっかりと見て俺を拒絶した。”遠慮” だとかそういう類では無い。俺の顔を見て彼女が取り繕う様に「酔っ払っちゃって」と等と言う。
今君が、俺と一緒に居る事を望んでいないんだとしたら、君の意見を尊重するのも大事だとは思う。君の酩酊状態に付き合ってやっても良い。だけど、俺はさっき若村に言われたんだ。偽善なんぞするなと。
「俺が大丈夫やないんや。一歩も動くんやないぞ?」
俺はそう言った後、釘を刺す様に若村を睨み付ける。若村はやっぱり笑っていた。
一課のテーブルへと戻った俺は其処に上がる事をしないで自分のブリーフケースを手繰り寄せる。スラックスのケツポケットから財布を取り出すと其処から万札を二枚取り出し、近くに座っていた夏八木さんに押し付ける様に渡した。
「不足分は夏八木さんが何とかして下さい。僕は此れで」
「主任っ!」
朝見の訴える様な声が聞こえる。視線を向けた先の朝見は納得いかないと言う様な顔をしている。
その表情に、俺はやっと合点がいった。
そうか…朝見は、俺が彼女の我が儘に付き合ってると思ってるのだ。高飛車な彼女に、俺が振り回されてるとでも思っているのか。そうか。
でも残念ながら俺は彼女の我が儘に付き合ってるんじゃない。彼女を好き過ぎて空回りしてる、色々余裕がないだけの男だ。
ビルを出るべく乗り込んだエレベーターで、その余裕の無さを露呈する様に俺は彼女に噛み付く様なキスをした。俺に抗おうとする腕を乱暴に壁に押し付ける。
酒のせいか、彼女の口腔も絡め取った舌も熱い。吸い付き甘噛みをして理性を解かして、この熱を誰にも渡したくないと、彼女は俺の物だと全身で訴えた。
キスを終えたばかりの彼女の薄く開いた口からは赤い舌が見え、吐息が漏れる。その赤も、甘い声も俺だけが知ればいい。
このまま今日を終わらせる訳にはいかず俺は街を徘徊する様に歩く。
本当は彼女が吐き出してくれる迄、待つつもりだった。けれど彼女を良く知る人物達からの助言で、其れは名案とは思えなかった。そして俺ももう、彼女が不安に思う事をはっきりと知りたいと思った。彼女の不安を取り除く事が出来るのは俺だけしか居ない、そんな自負も有る。
そして、彼女がぽつりと切り出した。
「…彼女達と、花火に行かないで」
「貴方に気のある人と、飲みに行かないで」
「関西弁を、会社で使わないで」
其れを聞いた俺は、「やっと言うた」その一言に尽きた。彼女の奥底に在る弱い部分を、彼女は俺に見せてくれた。恐らく初めての『嫉妬』と『執着』を俺に見せてくれた。
だが、その後俺と別れたいと言い出した彼女には流石に呆れた。
「其れは許さへんよ」
”解った” なんて承知するとでも思っていたのか、彼女が明らかに狼狽する。幾ら不器用で実直だからって嫉妬から別れ話に直結とか、あんまりだろう。
俺は向かい合い握った彼女の手をじっと見つめ、何度も親指で撫でた。愛おしい手、愛おしい体温、愛おしい人―――――。
「果歩が好きやねんよ? 多分これから先、自分の言う”嫌な所” 見せて貰ても俺は其れひっくるめて好きやよ」
だから一人で怖がらないで、自分をちゃんと俺に見せて欲しい。
彼女を抱き寄せると、ゆっくりと俺の背に腕が回される。
「ユキさんが、好き、なの」
ねぇ俺は君のこんな所が愛おしくて仕方ない。だから、躊躇わずに俺を好きでいてよ。
◇
あの飲み会があった翌週、朝見はほんの少しだけ今迄の勢いを潜め控えめに俺に接してきた。
「主任っ! 新規取りましたーっ!」
伊藤君は今日も無駄に元気だ。
「祝いの宴をしましょーっ!」
右手で拳を作って天井に突き出した伊藤君。うん、そろそろ空気読もうか等と心の中で突っ込んでみる。神崎君が「伊藤、お前の奢りでな」と言うと、伊藤君は直ぐに拳を引っ込めて「お」「う」「あ」としどろもどろになった。俺はこの馬鹿馬鹿しい程のやり取りを眺めるのが最近のお気に入りだ。
「祝台風一過!」
訳の解らない祝いの宴を何が何でも催そうと必死な伊藤君に付き合って、今日は一課全員で飲む事になった。これから飲み会だとはしゃぐ男共。俺の傍を確保しようとしているのか、朝見は他の女性事務員と距離を取っている様だ。本人にしてみれば自然なつもりかもしれないが、全くもって不自然極まりない。神崎君と目が合い、同じ様に肩を竦めた。
伊藤君の話が盛り上がって立ち止まった輪の中で、神崎君が思わぬ名を呼んだので俺は其方に顔を向けた。
滅多に社内ではお目に掛かる事の無い彼女。会えると思っていなかった場所で出逢えた事に口元が緩む。すると俺と目が合った彼女もふわりと微笑う。
その笑顔に、少し前迄滲んでいた迷いや不安を感じ取る事はない。俺の想いがしっかりと伝わったのだと、俺は思う。勿論此れで万事解決とは言い難い。けれど、今後は彼女が急な別れ話をする事は無い様に思う。
悩んだら迷ったら不安になったら、何でも良いから俺に言って欲しいと懇願したから。
「じゃぁお先です」
柴田さんがそう言って彼女と二人、屋外へと出て行く。その後に続く様に俺達営業一課も歩みをリスタートした。会話が途切れ少し静まったその中で、伊藤君はやはりテンション高くこう言った。
「うわーっっ主任と芳野さんって、めっちゃくちゃ想い合ってるって感じっスねーっ!」
俺は其れが堪らなく嬉しくて、照れ臭さも通り越して笑った―――――。