11.
「ただいま戻りました」
「お疲れ様でーす」
帰社の挨拶に労いの声が返ってくる。俺が自席へと座るか座らないかと言う所で朝見はやって来た。
「主任、設計さんから図面届いてますよって、PDFに落とし済みです」
「…有難う。フォルダ確認します」
「明日の会議で用意するものとか有るんやったら、お手伝いします」
うちの営業部で、特に誰の下に就いて事務作業をするとかそういった慣例は無い。一日の内に処理しなければならない物を事務員で割り振り業務に従事すれば良いだけの話だ。だが、朝見は仕事の処理能力が早いのか其の割り振られた仕事を済ませると直ぐに俺の元へ手伝える事は有るかと声を掛けて来る。
能力の有る奴、やる気の有る奴は好きだ。
仕事が円滑に進むのだから其れに越した事は無い。けれど、彼女が俺にばかり仕事を求めてくる事にはうんざりしていた。見え見えだからだ。
「特にありません。伊藤君、来月の社外研修の事だけれど…」
俺は真横に立っていた朝見を遮り、他に目を向けた。
事務員は既に退社し、男ばかりが残った一課で伊藤君が急に「主任っ」と声を上げた。俺は電卓を叩いていた手を止め、上体を起こす。
「今度、花火大会が有るんで主任も行きませんか?」
「…僕を誘う理由は何? 伊藤君」
俺が問うなり彼は目に見えて狼狽した。
「うっ…マジ鋭いっスよね主任って」
彼の奔放振りは、呆れると言うよりはもう尊敬に値する気がする。そのポジティブさが早く仕事に生かされる事を祈るばかりだ。
「朝見さん達誘ったら、一課の皆さんで行きましょうって言われちゃったんですよねー。まぁー朝見さんが主任狙いなのは解ってるんスけど、俺的には朝見さんと仲良くなってその先の人脈を広げたいと言いますか」
「…人脈…ね。物は言い様だよね伊藤君」
「人脈は大事っスよねー一課の親睦も深めるってのもお誘いする理由っス」
三十代後半になる妻帯者の夏八木さんが堪え切れず笑いを漏らした。
「伊藤は、仕事以外にアグレッシブだな」
「んなっ夏さん、何言ってんスか、俺仕事にも結構行きますよ!」
夏八木さんと俺は笑い、「考えとくよ」と無難に答えた。
その翌日には一課内で、花火大会観覧の参加者が募られていて俺も既に頭数に入れられていた。当日にキャンセルして、彼女と別の場所から見ても良いかな等と黒い計画を立てていた俺だったが、更に翌日、彼女も巻き込む事を決めていた。
神崎君も神崎君だ。自分の女とのいざこざに彼女を引っ張り込むなんて。
「おはようございます」
そう声を掛けられたのは、エントランスを潜った時だった。掛けられた声に振り返ると、柴田さんがにっこりと笑って其処に立っていた。同じ様に挨拶を返し、俺は柴田さんと二人ゆっくりとした足取りでエレベーターホールへと向かう。
「明日の花火大会、部外者が行っても大丈夫なんですか?」
「…部外者って、同じ会社の人じゃないですか、大丈夫でしょう?」
「部外者が来る事を快く思わない人もいらっしゃるんじゃないかなっと思って」
彼女と柴田さんは大学時代からの友人だと言うが、類は友を呼ぶの部類ではないのだなと俺は頭の片隅で思った。
「僕は柴田さんと彼女が来てくれるの嬉しいんですけどね?」
「…和田専属がいらっしゃる様で」
朝見が俺の仕事ばかり手伝っている事は周知の事実となっている。俺が抱える売上先が多いのに加えて、俺は今、新規の案件に掛かりっきりになっているのが原因だった。気を利かせたらしい課長が『主任のサポートをしてあげてくれ』等と朝見に言ったらしい。真に受けて、と言うのは言い方が悪いが彼女は其の指示に律儀に応えてると言う訳だ。
「僕は割と仕事は一人で出来る方なんですけどね?」
俺がそう答えた矢先、柴田さんは盛大に溜め息を吐いた。嫌悪感さえ含ませていて其れを隠す事もしない。
「果歩を不安にさせる様な事はしないで下さい」
彼女は良い友人を持ったものだ。
「果歩はああ見えて恋愛五級位のレベルなんですよ?」
「…五級ですかぁ…柴田さんは有段者ですか?」
「主任と同じ位かと思いますけど?」
この子は、見た目よりも頭の回転の速い女性なのだな。俺は立ち止まり、彼女へと身体を向ける。彼女も又、足を止めると俺を見上げた。
「その恋愛五級の彼女に、恋愛相談をするって言うのはよっぽど切羽詰まっていたって事ですか?」
柴田さんの顔が一瞬、曇る。
「…果歩から、聞いたんですか?」
俺は頭を振って
「花火大会、彼女は別ルートで誘われたみたいですよ?」
と答えた。柴田さんは失態を晒した、そんな表情になり俺から視線を逸らした。自分の男が自分の友達に迄、相談を持ち掛けているなんて思いもしなかったのだな。
「柴田さん、僕は彼女を不安にさせたりしたくない。貴方も、大切な人を不安にさせるべきではないのでは?」
柴田さんは息を飲み、肩に掛けていたバッグのショルダー部分をぎりっと握る。彼女曰く、柴田さんは恋愛に熱し易いタイプだと言う。この愛くるしい容姿を持つ女性は愛される事が常で、自分が愛されていると感じていないと情緒不安定になるのだろうか。だから元カノの事実に、神崎君の気持ちを疑うのだろうか。
「彼女と僕の事、噂になってる筈なのに、営業には未だ根強い彼女のファンが居るんで僕も気が気じゃないんですよね」
話を此処で打ち切ろうとした俺に柴田さんは言った。
「和田主任って、ただの『王子』じゃなさそうですね」
『やっと気付いたん?』 俺はそんな表情で彼女に笑顔を向けた。
◇
「お前は来んでええやろ、何で付いてきよんねん」
「俺一人置いてく方が可笑しいやろ阿保か自分っ」
社内の集まりだとあれ程言ったのに、この虎は言う事を聞かずにのこのこと花火大会の会場にやって来た。
「お前あんま俺に関西弁で話し掛けんなや? 俺あんま東京で使うてへんから」
「厭らしいのう自分」
「異動早々感じ悪いのも嫌やろが」
「芳野には関西弁やん」
虎は半目で俺に視線を寄こす。何か面倒臭いなこの虎。
「果歩には最初から素やもん」
「はっ? そーなん?」
「もうええ黙れ。あそこの塊が営業部の面々やから。猫被っとれ」
俺は待ち合わせの相手達を見つけ、其方に視線を遣った。元来視力の良い虎が「何や目、キラッキラさせとる女等がおるわ」と目敏く言う。俺は微苦笑して
「その中の関西弁喋る女は、要注意人物や」
と呟いた。
彼等に合流し、朝見は早速「主任、私服めっちゃ恰好良い」と傍に寄って来た。曖昧に笑って俺は虎を突然連れて来た事の侘びと、彼の紹介をする。伊藤君は何時もの順応力の高さで、俺達二人を見比べて
「クオリティ高いっスね!」
と言った。もう脱力モノだよね、伊藤君。それから数分後に俺の待ち人はやって来た。
浴衣姿の彼女には、正に「艶やか」と言う言葉がぴったりと当て嵌まった。
和装の彼女を想像していなかっただけに、俺は鼓動が速まるのを抑え切れないでいる。伊藤君を含む若手が言葉を失っていた。
彼女と柴田さんが俺達へと距離を縮めてやって来て、彼女と視線が絡む。照れた様に笑う彼女に愛おしさが込み上げた。
「よお似合いよん」
一番最初に彼女を褒めたのは、虎だった。この前やり合った二人だから、今日の対面はどうなるものかと危惧していたが虎の方もちゃんと冷静になれていた様だ。
虎と彼女が何やら喋っている傍に朝見が近寄り、俺にもはっきりと聞こえる声で「こんばんわ」と彼女に向かって言った。彼女が返した声が僅かに硬い。彼女も、朝見が『和田専属』等と言われている事を耳にしているのだろうか。
微妙な空気を読んだらしい神崎君が虎に続いて彼女の浴衣を褒めた。傍に居る柴田さんも同感とばかりに頷いている。彼等のほんの少し歪だった時間は修正されたに違いない。
「うちも着てくれば良かったぁ。主任? うちの浴衣、芦屋で作ってもろたんですよ?」
「そうなん?」
どうでも良い主張に、適当に返答をしたら思わず関西弁で俺は内心焦った。彼女の顔色も一瞬変わった。神崎君がすかさず
「朝見さんにつられるみたいで、最近主任、関西弁をちょこちょこ口にしてるんだよね」
と説明している。すると彼女は少しだけ表情を緩ませた。
その後虎が腹が減ったと言い出し、彼女や神崎君達を連れ立って食料の調達に行ってしまった。あれ程、朝見が要注意人物だと言ったのに何故、俺を此処に残したんだあの虎は!