10.
”牧野光” と言う後輩のフォローに当たった彼女の顔に少し疲れの色が滲んでいる。ユニセックスな名前を持ったその人物のお陰で今の俺と彼女が有る訳だが、時々その後輩の事を罵りたくなる衝動に駆られる。『又、尻拭いさせてんのかボケ』と。けれど彼女が牧野の事を悪く言う事は無い。自分が若村達に育てて貰った様に、牧野の事を育てたいと思っているのかもしれない。
会社の出入口が見えるコーヒーショップで彼女が出てくる迄俺達は待つ事にして、向かい合わせで窓際の小さなテーブルに座る。
「まっず」
虎がアイスコーヒーを一口口にするなり、そう言い捨てた。
「デカイ声で言うなて、思うても心の中で言えや」
俺は笑いながら、汗を掻いたグラスを手に取ってストローから黒い液体を啜る。お約束とばかりに「マズ」と言うと、虎は笑った。
「久し振りに虎が作うたパスタ、食いたいなぁ」
「今日作うたろか? ちゃちゃっと出来んで」
「あーえーわ、今日は早よ飯食わせて帰したいけ」
「…何や腹立つわー何そのしょーもない顔っ」
「すんまへんなぁ」
彼女と合流し、駅に近い居酒屋に向かった。ビジネス街の此処に在る店の集客はウィークデイが最もピークとなる。土曜日で時間も早い事から未だ、客の入りは疎らだった。
暑かったせいもあってか俺等三人、飲みのペースが速かった様には思う。
「仕事はおもろないし、ユキもおらんし、ちょっと大阪離れてみよかなて」
虎は何て事の無い様に、会社を辞めた事を告げた。虎の常を知っているだけに、俺はコイツのそんな物言いも然して気にならなかったが彼女は違った様だ。
「望む様なものって、何なんですか?」
「大きな契約取るんとか? 役職上げる、とか?」
彼女の質問に又も緩い考えを零した虎。俺は、左横に座る彼女のテーブルに置かれていた指がぎゅっと拳を握られたのを見て、あぁ…彼女にはこの虎の発言は許し難いものなのだなと思った。すると虎も何かを覚ったらしく
「…んや何か言いたい事あるんなら言えや」
と目付きを険しくし、彼女を見て言った。虎の気に障ったらしく、気まずい空気が流れる。このままだと虎が直ぐにキレ、彼女に当たり散らすのが目に見えていた。
「虎、もうええやん。果歩も酔うてるようやし。それに自分かて解っとんのやろ? 果歩が何て言うかぐらい」
「解らへん。早よ言うてみい芳野、サン」
彼女がその何かを言う前、今既に虎は怒りを露わにし彼女に突っ掛かっていった。早くコイツを宥めてしまわなければと俺は思い、彼女が引く様に説得しようと左に顔を向ける。すると、彼女は意を決した様にしっかりと顔を上げ、虎を真っ直ぐに見つめこう言った。
「大きな契約取るのも、昇進するのも、努力に努力を重ねた一握りの人間だけです」
虎の態度に屈しまいとする彼女の横顔。そして、きっぱりと言い切る彼女の正しくあろうとする姿勢。心臓を鷲掴みにされる思いだった。
その彼女を綺麗だと思い、誰も虎に言う事が無かった其れを彼女が言い放った事への焦りが胸の内に生じる。正論をぶつけて虎が折れるなんて事をしないのを俺は知っている。案の定虎は彼女を鼻で笑い飛ばした。
「そら正論や」と。
それでも彼女は背筋を伸ばし、虎に訴えかける。
「甘えてます、貴方は」
『言うた』俺は顔を顰めた。虎は、きっと彼女を傷付ける。
「っ自分、女の癖に一端の口聞きよって何やねんっ」
もし彼女が男だったら、コイツは容赦なくその手を振り下ろしただろう。彼女の言い分は正しい、そして綺麗事だ。理解はするが相手が悪い。俺は彼女の肩に手を置き、わざと力を込めた。
「虎っ。果歩も、もう止めえや。自分酔っとんで?」
けれど、彼女の俺のその手を勢い良く取っ払った。俺を非難する様な瞳で見上げてくる。
「っ」
眉根を寄せ、目の縁を赤くした彼女の瞳は俺を責めていた。
其れを見ていた虎が今度は、俺の肩を持つ様に彼女を非難した。虎の荒げた声に彼女が怯えていない訳が無い。其れでも彼女は俺から目を逸らそうとはしなかった。彼女は自分の意見を絶対に取り下げない事をその目で語っている。
虎の脆い自制心等、彼女の意思の前では簡単に崩壊し彼女を罵倒し続けた。
「虎っ」
「何やほんまの事やないけ。男に盾突くわ、頑固やわ…止めろやこない女」
先に引いた…折れたのではない、引いたのは彼女だった。
「今日は帰ります」と、彼女は髪で顔を決して晒さない角度でそう言う。
俺は、この時判断を誤ったのだと思った。
虎の性格は良く知っている。知っているだけに虎を治めるよりも、彼女に冷静に対応して貰った方が早いと考えたのだ。けれど俺は誰よりも、彼女に寄り添わなければならなかった。
正しい事を毅然とした態度で言う彼女の背を押すべきだった。
電車に乗り込んで俺達は吊革に掴まった。俺が見つめる先の彼女は俯いたままで、俺はさっきから彼女の旋毛ばかりを見ている。少しずつ話している内に彼女も冷静さを取り戻し、やっと顔を上げてくれた。俺は酷く安堵し、彼女に詫びる。
「嫌な思い、したやろ。ごめん」
握った彼女の手は細くて、こんな華奢な身体の何処に虎に立ち向かう強さを秘めていたのかと思う。そんな彼女を守りたいと思った。囲い込むのではなく、後ろ盾になる様な男で在りたいと思った。
どう考えても虎や俺の態度に問題有りだったのに、彼女は自分も虎に嫌な思いをさせたと苦しげな表情をして見せる。きっと自分が出しゃばった真似をしたと思ってる。そんな風に思う必要は一つも無いのに…。
彼女が愛おしい。知り合って間も無い俺の友人に真剣に怒り、その事を気に病んでしまう彼女への想いが更に募った。
◇
営業部が使用する販売管理ソフトの研修日。開始時刻前に俺達は指定のミーティングルームへ向かう。産休に入る城田さんの代わりに業務を行う派遣社員の朝見、と言う女性が資料を小脇に抱えながら俺の前を歩いていたのだが、その彼女がちらりと俺を振り返る。目が合うと彼女は笑みを零した。
俺はポケットから携帯を取り出し、其処へ視線を落とす。隣を歩いていた神崎君が小さく笑ったが、俺は気付かない振りをして携帯を操作した。
ミーティングルームには彼女と牧野、そしてINCの若村ともう一人若い男がおり準備を進めている様だった。プロジェクターが前方に下げてありダウンライトされている。俺は彼女を意識している事をひた隠しにし、最後部へと腰を下ろした。すると一課の人間が俺を起点に周囲へと座り始める。神崎君も俺の隣に座り、配付されていた資料を開き出した。さりげなく前方に視線を向ける。彼女と若村は身体を寄せ、何かを話している。彼の下で働き、彼を尊敬し、彼を兄の様に慕っているとは聞いている。
若村が笑い、彼女が其れに釣られる様に微笑ったその時だった。俺よりも前に座っていた男共の内の誰かが「笑った」と感嘆の息を洩らし、手にしていた携帯を彼女に向けていた。
「…大変ですねぇ」
そう言ったのは隣に居る神崎君だ。俺は「んー?」と曖昧に笑って胸ポケットに挿していたペンを取り出し、目を伏せた。
ソフトの説明をする彼女の姿は贔屓目でなく、見惚れる程の恰好良さだった。ただ突っ立って、手元の資料を読み上げるだけでは無いその手腕。聴衆の表情や姿勢を機微に感じ取り、口調を変え身振りを加え、長机の合間を歩き目を配る。最早、説明会ではなくプレゼンテーションさながらのパフォーマンス。
惚れ直す…けど、気が気じゃないのも事実で俺は手で口元を隠しながら苦く笑った。