傷んだトマト。
ひとつだけ、世界は傷む。
夜明けの街は、まだ闇と光の狭間に溶けていた。人影も少なく、空気だけがひんやりと澄んでいる。
普段ならまだベッドの中にいる時間だ。だがその朝、私は理由もなく外へ出た。
靴音だけが石畳に小さく響く。神社の鳥居をくぐったとき、境内に薄い朝靄が漂っていた。
そこに、小さな朝市がひっそりと開かれていた。木の台に並ぶ野菜や果物。値段は町の店の半分近く。
私はトマトの箱売りの安さに目を止めた。赤く熟した実が、ぎっしりと詰まっている。ただ、ひとつだけ。
表面が黒ずんで、柔らかく潰れていた。周囲に人の気配はない。料金は木箱に入れるだけの、半ば信用に任せた仕組みだ。
いけないことだと知りながら、私は隣の箱から無傷のトマトを抜き、傷んだものと入れ替えた。
そして、箱に金を入れ、境内を出た。それから、奇妙なことが続いた。何を買っても、必ずひとつだけがおかしい。
柿を買えば、一個だけが腐りかけている。
刺身を頼めば、一切れだけが生臭く、唐揚げを買えば、一つだけが異常に塩辛くて喉を通らない。
まるで、誰かが「ひとつ」を選んで、私に押しつけているかのようだった。
そんな日がしばらく続いたある朝、再び徹夜のあとで、私は同じ道を歩いた。
境内に入ると、朝市はまた開いていた。箱をひとつ、またひとつと覗く。
トマト。椎茸。胡瓜。どの箱にも、必ずひとつだけ、傷んだものが紛れ込んでいる。
先日、私が入れ替えたトマトのことを、ふと思い出した。
私は自分の箱から、まだ健全なトマトをひとつ取り出し、隣の箱へ移した。
代わりに、その箱の傷んだ実を、自分の箱に戻した。それ以来、奇妙なことは起こらなくなった。
ただ、たまに思う。あの朝、私が入れ替えた「ひとつ」は、本当に消えたのだろうか。
それとも、まだどこかの箱の中で、誰かの心に悪心が芽生えるのを、静かに待ち続けているのだろうか、と。
読んで頂き有り難う御座います




