「羽音のうるさい女は要らない」と婚約破棄されたので、巣箱四十八箱は仰せのとおり一箱残らず連れて出ます
「羽音のうるさい女は要らない」
レオンハルト様がそう仰ったのは、林檎の丘の南の斜面で、わたくしが三十七箱目の巣箱に砂糖水を注いでいる最中でした。
越冬明けの給餌は、砂糖一に湯一。一箱につき柄杓に一杯きり。多ければ巣の中が湿り、少なければ花の前に蜂が痩せます。注いでいる間は、手も目も離せません。
手のふさがっている時をお選びになるあたり、殿方なりにお考えにはなったのでしょう。伯爵様が冬から王都のお屋敷においでで、お留守だということも含めて。
お隣では、薄桃色の日傘の令嬢がレオンハルト様の袖にすがっておいでです。ビアンカ・ロッシュ子爵令嬢、十九歳。この冬の夜会からお連れになっている方で、巣箱から二十歩も離れた所で、もう肩をすくめていらっしゃいました。
「だって怖いんですもの。ぶんぶん、ぶんぶんって、お部屋まで聞こえますのよ。刺されたら痕が残りますわ」
「聞いただろう。ビアンカが怖がる。婚約は今日で破棄だ。虫けらの箱は一箱残らず持って出ろ」
お部屋まで、でございますか。お屋敷からこの斜面まで、林檎の木が三百本は挟まっておりますのに。たいそう良いお耳です。
そもそも今日はまだ風が冷たく、巣門を出入りする蜂は、百を数える間に十匹もおりません。羽音がうるさくなるのは、花が咲いてからでございます。
わたくしは柄杓の最後の一滴を給餌皿に落とし、蓋を閉め、石を載せ直してから振り向きました。
「かしこまりました。婚約の破棄、承りました」
「……それだけか」
「はい。巣箱はもとより、わたくしの持参財でございますので」
三年前の春、十八のわたくしは、母から継いだ巣箱十二箱と一緒にこの丘へ参りました。婚約契約書の第六条に、こうございます。――巣箱およびそこから殖えた一切は、メリッサ・ハルデンの持参財とする。
その前の冬、丘に昔からあった古い巣箱は寒さで残らず空になっておりました。だからこそ伯爵様はハルデンの十二箱をお望みになったのですが、ご子息はそのあたりを一度もお尋ねになりません。
毎年、分蜂の時期を見て箱を割りました。新しい女王の房ができた箱を選び、巣板を半分ずつに分け、片方を新しい箱へ。割るのが早ければ群れが弱り、遅ければ蜂は半分、勝手に空へ出て行きます。その見極めを三年。十二箱は、いま四十八箱です。
「三年も虫けらの数ばかり数えて、何が楽しいのだか。枝に袋を被せて回る、あの気味の悪い遊びもだ。使用人どもが噂しているぞ、ハルデンの娘は花に袋を着せて拝んでいると」
拝んではおりません。数えております。
花の前に、枝を選んで目の細かい麻の袋を掛けます。蜂が入れない枝と、蜂が来る枝。花が散ったら袋を外し、花の数と、止まった実の数を帳面に並べます。去年の頁は、こうです。
蜂が来た枝、百花に実三十一。
袋を掛けた枝、百花に実三。
「それに、メリッサ様のお手。蜜蝋と煤の匂いがいたしますわ。伯爵家の奥方のお手ではございませんわね」
煤は燻煙器のものでございます。蜂を落ち着かせる煙の。お褒めにあずかり光栄です、とは申しませんでした。
「秋には王都の林檎酒組合へ二千籠を納める約束だ。前金の金貨五百枚はもう受け取って、ビアンカとの婚礼支度に回した。この丘の次の女主人はビアンカだ。お前と虫けらの居場所はないだろう」
二千四百籠穫れる丘で、二千籠のお約束。四百籠の余りがあるうちは、たしかに楽なお約束でございます。あるうちは。
申し上げるのは、一度きりにいたしましょう。二度申し上げても、お耳の良さは羽音にしか働かないようですから。
「レオンハルト様。花の頃に蜂がおりませんと、実は十に一つでございます」
「馬鹿を言え。花は風で実る。この丘は千二百本、毎年二千四百籠だ。一本に二籠、祖父の代からそう決まっている。虫けらの手柄であるものか」
「まあ、蜂が林檎を作るんですの? おかしい」
ビアンカ様は日傘の陰で、ころころとお笑いになりました。
決まっている、のだそうです。林檎のほうにも、そうお伝えくださいませ。
「七日やる。七日以内に出て行け。それで文句はないだろう」
「かしこまりました。では、一つお願いがございます。巣箱は夜のうちに荷車で運びます。門番に止められては困りますので、書き付けを頂けますでしょうか」
「面倒な女だな。おい、紙だ」
従僕が書類挟みと携帯の墨壺を差し出しました。レオンハルト様は巣箱の蓋を机の代わりに――蜂が入っていると申し上げる間もなく――早口のままの勢いで羽根ペンを走らせます。
――メリッサ・ハルデンは七日以内に林檎の丘を退去すること。巣箱は一箱残らず持ち去ること。レオンハルト・グラーツ。
「これでいいだろう。黙って従え」
自筆で、署名入り。日付は、わたくしがお願いする前にご自分で入れてくださいました。こういうところだけは几帳面な方です。
従僕と、斜面の下で剪定をしていた果樹番が二人、こちらを見ておりました。証人をお願いしたわけではございません。ただ、そこに居合わせただけです。
墨が乾くのを待って二つに折り、帳面の、袋掛けの頁の間に挟みました。
「かしこまりました。一箱残らず、たしかに」
お二人が斜面を下りていかれるのを見送ってから、わたくしは三十八箱目の蓋を開けました。残りは十一箱。給餌は、日が傾く前に終えなければなりません。
◇
三日目の昼、巣箱の斜面に馬が一頭上がってきました。
降りたのは、隣領『梨の谷』のユリウス・ヴァイデン男爵。二十七歳。境の柵の修繕で二度ほどご挨拶しただけの方です。外套の裾に、乾いた泥が付いていました。三里の道を、ご自分で来られたのでしょう。
「突然ですまない。噂を聞いた。婚約のことと、巣箱のことを」
「お早いことで。噂は蜂より速うございますね」
「一日目に来れば弱みにつけ込むことになる。七日目では間に合わない。それで今日にした。――あなたは蜂をどこに置きたいか。それを聞きに来た」
わたくしは巣枠を持ったまま、少し手を止めました。
置いてくれ、ではないのです。いくら払う、でもない。
「うちの谷に、という話をしに来たのは本当だ。だが、あなたに行き先の当てがあるなら、それでいい。実家へ戻すのでも、他所へ貸すのでも。断ってくれて構わない」
「……ヴァイデン様は、蜂が梨にとって何であるか、ご存じなのですか」
「知らない。だから、知っている人に聞きに来た。うちの老果樹番は、谷の奥の、野の蜂が巣を掛けた崖の近くだけ実の付きがいいと言う。理由は分からないとも言う」
分からない、と仰る殿方に、この丘で初めてお会いしました。三年おりましたのに。
「では、数えてみましょう。条件を申し上げてもよろしいですか」
「聞かせてほしい」
「一つ。巣箱は四十八箱すべて、わたくしの名義のままといたします。二つ。谷のどこに何箱置くかは、わたくしが歩いて決めます。三つ。置き賃は一箱につき、ひと花の季節で銀貨八枚」
「四十八箱で、銀貨三百八十四枚」
「はい。金貨に直せば十九枚と、銀貨が四枚でございます」
「安くはないか」
「高いか安いかは、秋に籠を数えてからお決めくださいませ」
ユリウス様は頷き、懐から紙を出されるのかと思えば、何もお出しになりません。
「契約書は、あなたが書いてくれ。あなたの条件だ。私は読んで、署名する」
その晩、わたくしは置き賃の契約書を二部清書いたしました。翌朝、ユリウス様は最後の行まで声に出さずに読み、二部ともに署名なさいました。読むのに、茶が一杯冷めるほどかかりました。
◇
五日目の夕暮れ。
蜂は日が沈むと巣へ戻ります。最後の一匹が入るのを待って、巣門に目の細かい網を当て、木釘で留めます。板で塞いではいけません。息が詰まります。それから箱と底板を縄で十字に縛り、荷車の藁の上へ。一台に六箱、四台で二十四箱。
車輪には布を巻きました。揺れると巣板が落ち、蜂が潰れます。御者には、並足より速くしないようお願いしました。
「一晩で全部は運ばないのか」
荷車を出してくださったユリウス様が、縄の結び目を見ながらお尋ねになります。
「夜明け前に置き場へ据えて、巣門を開けねばなりません。箱の中は蜂の熱でこもりますので。三里の道と据える手間を数えますと、一晩に二十四箱が限りでございます」
「近くの、たとえば境の柵の向こうでは駄目なのか。一里もない」
「二里離さねば、蜂は元の丘へ戻ってしまいますので。蜂は巣の場所を、周りの景色で覚えております。近くへ動かすと、朝に飛び立った蜂は古い場所へ帰り、箱のない地面の上を回り続けます」
「三里なら」
「景色がすっかり変わりますから、巣門を出たところで覚え直します。念のため、巣門の前に小枝を一本立て掛けておきます。いつもと違う、と蜂に気づかせるためです」
ユリウス様は「小枝」と小さく繰り返し、翌朝、二十四箱すべての巣門の前に、ご自分で枝を立てて回られました。
六日目の夜に、残りの二十四箱。門番には書き付けを見せました。門番は灯りを近づけて署名を確かめ、黙って門を開けました。
七日目の朝、林檎の丘の南の斜面には、石を載せていた跡が四十八、四角く残っているだけになりました。一箱残らず。仰せのとおりです。
◇
梨の谷で待っていたのは、六十を越えた果樹番のゲルトでした。腕組みをして、据えたばかりの巣箱を端から端まで睨んでいます。
「ほう。これが蜂の箱のお嬢さんか。旦那は銀貨三百八十四枚を虫に払うそうだな」
「虫にではなく、止まる実にでございます」
「花は風で実る。わしは四十年そう聞いてきた」
「わたくしの帳面では、蜂が来た枝は百花に実三十一、袋を掛けた枝は百花に実三でございました。ですが、それは林檎の丘の、わたくしの数です。ゲルトさんの梨で、ゲルトさんの手で、数えてみてはいかがでしょう」
麻の袋を十枚、お渡ししました。蕾のうちに掛けること。口は紐で縛り、蜂が潜れぬようにすること。
「枝は日当たりで選ぶのか」
「いいえ。隣り合った、同じ太さの枝を二本ずつ。片方に袋、片方に印の紐。どちらも花の数を先に数えておきます。違うのは、蜂が来るか来ないかだけになるように」
「袋の中で花が蒸れただけだと言われんようにな。風は通るが蜂は通らん。ふん、目の粗さはちょうどこれか」
ゲルトは袋を陽に透かし、自分で梯子を担いで行きました。梨の枝十本。どの木のどの枝にするかは、わたくしには選ばせませんでした。
それでよいのです。わたくしが選んだ枝では、わたくしの数にしかなりませんもの。
◇
破棄から十二日後、林檎の丘は千二百本が満開になったそうです。
梨の谷へ卵を売りに来た丘の下働きの娘が、聞かれもしないのに教えてくれました。丘は白と薄紅で埋まり、そして、たいそう静かだと。
「ビアンカ様が、静かで素敵とお喜びで。花の下に卓を出して、お茶会を三度もなさいました。蜂がいないと、お菓子に蓋をしなくて済むんですって。レオンハルト様も、今年は花が良い、二千籠どころか三千籠だと」
お菓子に蓋。なるほど、それは便利でございましょう。
花の数と実の数は、別の帳面でございますが。
「果樹番の爺さまたちは、妙に虫がいないって首をひねってましたけど。口を出すと叱られますから」
花の盛りは九日間です。九日のうちに蜂が来なければ、花は花のまま終わります。やり直しは、来年までございません。
同じ九日間、梨の谷は羽音で満ちておりました。
わたくしは朝ごとに巣箱を回り、巣門の出入りを数えます。百を数える間に何匹戻るか。脚に黄色い粉の団子を付けている蜂が何匹か。少ない箱は蓋を開け、女王が卵を産んでいるかを巣板の底で確かめます。
ユリウス様は、その隣に黙って立っておられました。手を出さず、口も挟まず、わたくしが帳面を閉じるのを待ってから、一つだけお尋ねになります。
「いまのは、何を見ていた」
「蜂の脚でございます。黄色い団子を付けて戻る蜂が多い箱は、花へよく通っている箱です」
「では、あの端の箱は」
「団子が少のうございました。風の通り道でしたので、今日のうちに北側へ風除けの板を一枚立てます」
「立てていいか、と私に聞かないのだな」
「契約の二つ目でございます」
「そうだった。……それでいい。それがいい」
翌日は一つ、その次の日も一つ。ユリウス様の問いは一日に一つきりで、前の日にお答えしたことは、二度お尋ねになりませんでした。
◇
花が散りました。
ゲルトは梯子を掛け、十本の枝から袋を外しました。わたくしは手を出しません。帳面も、ゲルトが自分の物を持ってきました。表紙に接ぎ木の日付が書いてある、古い帳面です。
「袋ありの十本、花は合わせて千と二十。止まった実が、四十一」
「百花に直しますと」
「四だ。袋なしは花が九百八十、実が二百九十四。百花に、三十」
ゲルトは鉛筆の尻で帳面を二度叩き、それからわたくしの帳面を覗きました。三十一と三。三十と四。
「木も違う、年も違う、数えた手も違う。それでこうだ。ほう。……数は嘘をつかん」
「はい。嘘をつくのは、数えない方でございます」
「わしのことか」
「いいえ。ゲルトさんは数えましたもの」
老果樹番は鼻を鳴らし、その日のうちに谷じゅうの梨番を集めて、自分の帳面を回して見せたそうです。わたくしの帳面ではなく。
その夜、わたくしは自分の帳面の余白で、一つだけ計算をいたしました。
林檎の丘は例年二千四百籠。蜂が来て百花に三十一止まる実が、蜂なしでは三。二千四百に三を掛けて、三十一で割る。
二百三十二籠。
端数は切り捨てました。秋の約束は二千籠ですから、足りないのは千七百六十八籠。
誰にも見せず、頁を閉じました。お知らせする義理も、お知らせして聞いていただける耳も、あの丘にはございません。
◇
林檎の丘では、花殻ばかりが落ちたそうです。
例年なら花のあとに青い粒が膨らむはずの枝先で、軸ごと黄ばんで、ぽろぽろと。果樹番たちが木を揺すっても、落ちてくるのは実にならなかった花の跡だけ。
レオンハルト様が梨の谷へ馬で乗り込んで来られたのは、その頃です。
「メリッサ! 蜂を返せ。あれは丘のものだろう!」
巣箱の前で、わたくしは継ぎ箱を重ねている最中でした。蜜の流れる季節は、蜂に部屋を足してやらねばなりません。手が離せない時にいらっしゃるのは、もう癖でいらっしゃるのでしょう。
「ごきげんよう、レオンハルト様。丘のもの、と仰いますと」
「丘の花で育った蜂だ。丘の蜜を三年吸った。なら丘のものだろう。黙って従え、今夜のうちに四十八箱、元の斜面へ戻せ」
わたくしは帳面を開き、挟んであった紙を二枚、巣箱の蓋の上に並べました。
一枚は婚約契約書の写し。第六条、巣箱およびそこから殖えた一切は、メリッサ・ハルデンの持参財とする。
もう一枚は、二つ折りの書き付け。巣箱は一箱残らず持ち去ること。レオンハルト・グラーツ。
それだけです。何も足しませんでした。足すことがございませんので。
「そんな紙切れ――」
「あなたの字だ、グラーツ殿」
ユリウス様の声は、わたくしの前からではなく、右隣からいたしました。一歩も前へ出ておられません。わたくしと巣箱の間にも、わたくしとレオンハルト様の間にも、お立ちにならない。ただ肩の並ぶ位置に。
「巣箱は彼女の持ち物で、置き場所は彼女が決める。私は置き賃を払っている側だ。話す相手は私ではない」
「男爵風情が。お前がそそのかしたのだろう!」
「わたくしが決めました」
それも、足したうちには入りませんでしょう。事実ですので。
レオンハルト様は、巣箱を蹴ろうとして足を上げ、巣門から出入りする蜂の数をご覧になって、下ろされました。虫けらと仰るわりに、よくご存じです。
「覚えていろ。秋に泣くのはお前だ」
秋に籠を数えるのは、わたくしではなく組合でございますが。
◇
夏は、蜜を搾り、継ぎ箱を外し、雀蜂の罠を掛けているうちに過ぎました。梨は枝がしなるほど太り、ゲルトは支えの杭を三度買い足しに町へ下りました。
破棄から百八十日後。王都林檎酒組合の検品場は、街道の辻の石畳の広場です。組合は梨酒も造りますので、梨の谷の荷車も同じ日に並びます。
「来るか来ないかは、あなたが決めていい。会いたくない顔もあるだろう」
前の晩、ユリウス様はそう仰いました。わたくしは参ることにいたしました。蜂が止めた実の数を、最後まで数えたかったからです。
「契約どおりに。数えます」
検品頭のオットー・ブレナーは、五十がらみの、帳面と同じくらい表情の動かない方でした。籠を一つずつ台に載せ、縁まで入っているかを確かめ、白墨で印を付けていきます。
「ヴァイデン家、梨。二千百籠。例年の千五百籠に対し、六百籠の増。品質、上」
ゲルトが、鼻の下をこすりました。
「グラーツ家、林檎」
荷車は、三台しかありませんでした。その脇に、レオンハルト様と、前金で仕立てたらしい新しい絹のビアンカ様。
オットーは数え、数え直しはせず、帳面に書きました。
「二百三十二籠」
検品場が、しんとしました。グラーツ家の荷運びたち、御者、付いて来た使用人たち。皆が籠の山と、レオンハルト様の顔を見比べています。
「契約書、第三条。納品は二千籠。本日の納品は二百三十二籠。不足、千七百六十八籠」
「待て、今年は花が、天候が」
「三里先の梨の谷は豊作です。天災には当たりません。第八条。不履行の場合、前金の金貨五百枚を返還し、加えて違約金として金貨三百枚を支払う。計、金貨八百枚。第九条。王室御用達の看板は、組合を通じ納品を全うする家にのみ掲げることを許す。グラーツ家が四十一年掲げた看板は、本日をもって返上いただきます」
「前金は……あれはもう、ビアンカの婚礼支度に」
「使途は条項にございません。期日は年の瀬です」
レオンハルト様の指が、こちらを指しました。
「あの女だ! あの女が丘を呪った。蜂を盗んで行ったんだ。盗まれたのだから、こちらに責はないだろう!」
「盗難であれば、第十条により違約金は免じられます。証はございますか」
オットーの目がわたくしへ向きました。わたくしは帳面から紙を二枚出し、何も言わずにお渡ししました。
「婚約契約書、第六条。巣箱およびそこから殖えた一切は、メリッサ・ハルデンの持参財とする。――退去命令書。メリッサ・ハルデンは七日以内に林檎の丘を退去すること。巣箱は一箱残らず持ち去ること。署名、レオンハルト・グラーツ。筆跡は、当組合の契約書の署名と一致します」
読み上げる声は、籠を数える時とまったく同じ調子でした。
「持ち主が、あなたの命令で、あなたの期日どおりに持ち出した。盗難には当たりません。第十条は適用外です」
「わ、わたくしは何も知りませんわ。蜂のことなんて、わたくし、何も」
ビアンカ様が後ずさりなさいました。その背が、グラーツ家の荷車に当たります。
「ビアンカ様が仰ったんじゃありませんか」
荷運びの一人でした。丘の南の斜面で、三年、巣箱の石を一緒に載せてくれた男です。
「羽音がうるさい、怖いから追い出してくれって。お茶会のたびに、静かで素敵だって。わしら、みんな聞いてます」
頷く首が、一つ、二つ、荷車の列の端まで続きました。ビアンカ様の日傘が、石畳に落ちました。
「違う、わたくしは怖いと言っただけで、追い出せなんて、レオンハルト様がお決めに」
「お前が言い出したんだろう!」
どちらが先に仰ったかは、使用人の皆さまが数えておいでのようです。
レオンハルト様が、今度こそわたくしの方へ足を踏み出されました。ユリウス様は動かれません。隣におられるだけです。それで足りました。
「返せ。来年は蜂を戻せ。お前のせいで――」
「一箱残らず持って出ろと仰ったのは、あなた様です。羽音がうるさいと仰いましたので」
わたくしは帳面を閉じました。
「――今年のお庭は、さぞお静かでしたでしょう」
◇
その後のことは、数字で届きました。
金貨八百枚。グラーツ家の金庫に、それはございませんでした。前金の五百枚は、絹と銀器と、王都の仕立て屋への払いに姿を変えております。
林檎の丘の東の区画、四百本。日当たりのいちばん良い斜面が、金貨六百枚で組合の手に渡りました。残る二百枚は借財です。証文には伯爵様の印が要り、伯爵様は王都から戻られました。
その場に居合わせた荷運びの話では、伯爵様は息子の言い分を最後までお聞きになったそうです。あの女が、男爵が、組合が、天候が、ビアンカが。ひととおり済むのを待って、仰ったのは一言。
「跡取りは甥に替える。お前はもう嫡男ではない」
庇う言葉は、一つもなかったと聞きます。十二箱を望んだのは伯爵様ご自身でしたから、何を失くしたのかは、数えずともお分かりだったのでしょう。もっとも、三年のあいだ息子に何も教えなかった方でもございます。丘の千二百本は八百本になり、門の上には、四十一年掛かっていた看板の跡だけが、四角く白く残っているそうです。
跡取りとなった従弟の方からは、ほどなく梨の谷へ使いが参りました。巣箱を丘へ、というお話です。お断りいたしました。置き場所は、わたくしが決めることでございますので。
ロッシュ子爵家は、月が替わる前に婚約を解消しました。ビアンカ様の持参金として話が進んでいた金貨六百枚は、話ごと消えました。借財のある、嫡男でもない方へ出す金はない、と。
ビアンカ様ご本人には、別の数字が残りました。季節に十四通届いていた夜会の招待が、この秋は零通。羽音が怖くて婚約者の家を傾けた方を卓に招くと、庭の蜂まで追い出されかねない、と奥方たちは笑っておいでだそうです。
レオンハルト様は、いまも会う人ごとに仰るそうです。あの女が呪った、盗んだ、と。署名の読み上げを聞いた者が検品場に何十人もおりましたので、頷く方はおられません。
わたくしは、どなたにも何もいたしませんでした。蜂を貸しもせず、手紙も書かず、丘の方角を振り返ることも。
越冬の支度がございましたので。
◇
晩秋の梨の谷。
巣箱の継ぎ箱を外し、蜜の残りを確かめます。一箱ずつ後ろを持ち上げて、重さを手で量る。軽い箱には、砂糖二に湯一の濃い砂糖水を足します。春の給餌とは分量が違います。冬の前は、濃く。
藁の囲いを巻き終えた四十八箱目の前で、ユリウス様が立ち止まられました。
「話が二つある。並べて出すから、別々に考えてほしい」
「伺います」
「一つ目。来年の置き賃の契約だ。条件は今年と同じでいい。上げたいなら上げてくれ。六百籠増えた。銀貨三百八十四枚は、安すぎた」
「秋に籠を数えてから、と申しましたのはわたくしでございますね」
「二つ目。あなたに、求婚したい」
手に持っていた藁縄を、わたくしは落としませんでした。落とさなかったことを、少し誇りに思います。
「この半年、毎日一つずつ尋ねた。蜂のことを尋ねていたつもりで、途中から、あなたのことを尋ねていた。――だが、二つは別の話だ。どちらも断っていい。片方だけ受けてもいい。蜂の箱は、どちらを選んでもあなたのものだ。求婚を断られても、置き賃は払う。契約を断られても、私はあなたを追わない」
「お返事は、いつまでに」
「期日はない。春でも、来年の秋でも」
期日のないお申し出を、わたくしは初めて頂きました。七日以内に出て行け、と書かれたことはございますが。
数えてみましょう。
この谷で、わたくしは一度も、手のふさがっている時に話を切り出されたことがありません。問いは一日に一つ。答えは最後まで聞かれ、同じことは二度問われない。契約書は、わたくしが書いたものを、茶が冷めるまで読んでくださった。あの方が怒鳴り込んで来た日も、検品場でも、前ではなく隣に。
数は、嘘をつきません。
「お返事は、いま申し上げます」
ユリウス様の肩が、わずかに強張りました。
「一つ目。置き賃の契約は、お受けいたします。巣箱はわたくしの名義のまま。置き場所は、この谷に。値は、一箱につき銀貨八枚のままで結構でございます」
「上げないのか」
「妻が夫から値上げを取るのは、帳面が面倒でございますので」
ユリウス様は、言葉の意味を一度で取り損ねたお顔をなさいました。この方が聞き返すところを、初めて見ます。
「……二つ目も、ということだろうか」
「はい。ただし、頼まれたからでも、行き場がないからでもございません。行き場でしたら、四十八箱を連れてどこへでも参れます」
巣箱の蓋に手を置きました。藁の下で、蜂が固まって冬の熱を作っています。
「わたくしが、ここに居たいのです」
ユリウス様は長いこと黙って、それから「ありがとう」と、蜂を起こさないほどの声で仰いました。手を取ってよいかとお尋ねになったので、どうぞ、とお答えしました。尋ねてくださる方です。最後まで。
「それで、来春は何箱に割る」
「数えてみましょう。割れるだけ強い群れが、いま幾つあるか」
わたくしは一箱目から、ユリウス様は四十八箱目から、蓋の上の石を指で叩いて歩きました。重い箱、蜂の多い箱。半年のあいだ一日に一つずつお尋ねになった方は、もう見分けがお付きになります。
「こちらは九つ」
「こちらは七つでございます。合わせて十六。来春、谷の巣箱は六十四箱になります」
「置き賃が上がるな」
「六十四箱で銀貨五百十二枚。金貨二十五枚と、銀貨が十二枚でございます」
「払おう。喜んで」
来年の春、この谷は、さぞ賑やかでございましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。メリッサと四十八箱の蜂たちの行く先を少しでも楽しんでいただけましたら、下の★★★★★で評価をいただけると次の一本を書く力になります。作者ページには完結済みの長編もございますので、よろしければそちらもお立ち寄りください。
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