『貴方に嫌われたかった。最後に、貴方が幸せになれるように』
「リリアーナ・フォン・アーデルハイトとの婚約を破棄する」
その言葉が、静まり返った大広間に響いた。
王太子アルベルトの隣には、聖女エレナが立っている。
エレナは涙を浮かべながら、私を見つめていた。
「リリアーナ様に、何度も嫌がらせをされました……」
「私はしていません」
「私のドレスを破いたのも、階段から突き落としたのも君だと証言がある」
「それも、私ではありません」
アルベルトは冷たい目を向けた。
「言い訳はもういい」
その瞬間。
胸の奥が、音を立てて崩れた。
「……そうですか」
私は笑った。
「では、婚約破棄をお受けします」
「……リリアーナ?」
「これまでありがとうございました、殿下」
私は深く頭を下げた。
そして、誰にも見えないように手を握りしめた。
爪が掌に食い込むほど。
泣いてはいけない。
ここで泣いてはいけない。
だって――
「殿下」
私は最後に彼を見つめた。
「どうか、お幸せに」
アルベルトの顔が一瞬だけ曇った。
けれど、私は気づかないふりをした。
その夜。
私は屋敷に戻ると、一枚の紙を暖炉へ放り込んだ。
それは、王太子との婚約を結んだ日に書いた手紙だった。
『いつか殿下と結婚したら、毎朝おはようと言いたい』
『子どもができたら、一緒に名前を考えたい』
『ずっと、隣にいたい』
燃えていく文字を眺めながら、私は呟いた。
「……ごめんなさい」
誰もいない部屋で。
「約束、守れなかったね」
***
それから三年。
私は王都から遠く離れた小さな領地で暮らしていた。
社交界では、私は今も「悪女」のままだった。
王太子を騙し、聖女を虐め、婚約者の座から追い落とされた女。
それでいい。
そう思っていた。
ある冬の日。
王都から一通の手紙が届いた。
差出人は、アルベルトだった。
震える手で封を開ける。
そこには短い言葉だけが書かれていた。
『君に聞きたいことがある』
その一文を見た瞬間。
私は泣いた。
三年間、一度も泣かなかったのに。
「……今さら、何を聞くの?」
***
アルベルトが私の領地を訪れたのは、それから一週間後だった。
馬車から降りた彼を見て、私は息を呑んだ。
三年前より痩せていた。
「久しぶりだな」
「……はい」
「元気だったか?」
「ええ」
嘘だった。
でも、彼には関係ない。
「今日は何のご用でしょうか」
アルベルトは黙った。
そして、一冊の古びた本を取り出した。
「これを見つけた」
私は顔を強張らせた。
それは――私の日記だった。
「どうして……」
「君の屋敷を整理していた者から渡された」
彼は震える手でページを開いた。
そこには、三年前の私の文字が並んでいた。
『今日も殿下はお疲れのようだった。声をかけたかったけれど、邪魔をしたくなくてやめた』
『エレナ様が寒そうだったので、私のショールを渡した。本人には私からだと言わないでほしいと侍女に頼んだ』
『殿下がエレナ様を心配している。よかった。聖女である彼女を守ることが、殿下の役目だから』
アルベルトの手が止まった。
「……これは、本当なのか?」
「……はい」
「じゃあ、君は……」
私は笑った。
「ずっと誤解されていたんですね」
「なぜ言わなかった!」
突然、彼が声を荒らげた。
「なぜ何も言わなかったんだ!」
「言って、何が変わったんですか?」
「変わった!」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「変わらなかったんです」
アルベルトが黙る。
私は窓の外を見た。
雪が降っていた。
「三年前、殿下の命を狙っている者がいると知りました」
「……何?」
「犯人は、殿下の側近の中にいました」
私は静かに続けた。
「でも、私がそれを殿下に伝えれば、犯人は私を警戒する。だから私は、わざと殿下に嫌われるようにしました」
「……だから、冷たくしたのか?」
「はい」
「エレナへの嫌がらせも?」
「していません」
「君を悪女に仕立てたのも……」
「私です」
アルベルトが目を見開く。
「全部、私が仕組みました」
「なぜ……」
私は笑った。
「殿下を守りたかったからです」
その言葉を聞いた瞬間。
彼の目から、涙が落ちた。
「……馬鹿だ」
「はい」
「どうして……俺に言わなかった……」
「言ったら、殿下は私を守ろうとしたでしょう?」
「当たり前だ!」
「だからです」
私は微笑んだ。
「私は、殿下に生きていてほしかった」
***
アルベルトはその場から動けなかった。
やがて彼は、日記の最後のページを開いた。
そこには一行だけ。
『もし私がいなくなったら、殿下が私を探しませんように』
アルベルトは震える声で読んだ。
「……いなくなったら?」
私は答えなかった。
彼は私を見た。
「リリアーナ」
「はい」
「君は……何を隠している?」
私は微笑んだ。
「何も」
「嘘だ」
初めてだった。
彼が私の嘘を見抜いたのは。
「君は昔から、嘘をつくと左手を握る」
私は反射的に左手を握った。
アルベルトの顔が崩れる。
「……やっぱり」
彼は私の手を掴んだ。
「もう一度、俺に嘘をつくな」
「……殿下」
「俺はもう、お前を手放さない」
その言葉に。
私は泣きそうになった。
でも――
「遅いです」
「え?」
「もう、遅いんです」
私はそっと彼の手を離した。
「私、長くないんです」
アルベルトの顔から血の気が引いた。
「……何を言っている?」
「三年前から病気を患っています」
「嘘だ」
「本当です」
「嘘だ!」
彼が叫んだ。
「嘘だと言ってくれ……」
私は首を横に振った。
「だから、あのとき婚約破棄を受け入れたんです」
「……」
「殿下が私を嫌いになれば、私が死んでも、殿下は前を向いて生きていけると思ったから」
アルベルトはその場に膝をついた。
「そんなの……」
涙が床に落ちる。
「そんなの、俺は望んでない……」
「私は望みました」
「俺は君と生きたかった!」
「……」
「子どもだって欲しかった!」
私は唇を噛んだ。
「……私もです」
その一言で。
もう耐えられなかった。
「私も……ずっと、殿下と生きたかった……」
三年間。
ずっと我慢していた涙が、止まらなくなった。
「朝、おはようって言いたかった……」
「……」
「夜、おやすみって言いたかった……」
「……リリアーナ」
「子どもができたら……殿下に似た子がいいって……ずっと思ってた……」
アルベルトが泣きながら私を抱きしめた。
「だったら、これからだ」
「……もう、時間がありません」
「ある!」
「ありません」
「ある!」
彼は何度も繰り返した。
まるで、自分に言い聞かせるように。
「絶対にある……」
***
その冬。
私は日に日に弱っていった。
アルベルトは王太子の仕事をすべて調整し、何度も私のもとへ通った。
雪の日も。
雨の日も。
夜中でも。
「今日は何が食べたい?」
「……りんご」
「わかった」
「殿下」
「なんだ?」
「王太子なのに、そんなに簡単に領地へ来ていいんですか?」
「いい」
「でも……」
「お前の夫になる男のほうが大事だ」
私は笑った。
「まだ夫じゃありませんよ」
「なら、今からなる」
「……ふふ」
こんな時間が、ずっと続けばいい。
そう思った。
けれど。
春が来る前に。
私はベッドから起き上がれなくなった。
アルベルトはずっと手を握っていた。
「リリアーナ」
「はい」
「目を開けて」
「開けています」
「……そうだったな」
彼は泣きながら笑った。
私は彼の頬に手を伸ばした。
「殿下」
「なんだ?」
「最後に、一つお願いがあります」
「何でも言ってくれ」
「私のことを……忘れてください」
「嫌だ」
即答だった。
「忘れられるわけない」
「でも……」
「絶対に忘れない」
「殿下……」
「君を悪女だと思っていた三年間も、君を愛していた三年間も、全部覚えている」
私は泣いた。
「……幸せになってください」
「君がいないのに?」
「私の分まで」
「無理だ」
「お願いです」
「……わかった」
彼は私の手を強く握った。
「君が望むなら、幸せになる」
「はい」
「でも一つだけ約束してくれ」
「何ですか?」
「俺が死ぬまで、俺の心の中にいてくれ」
私は笑った。
「……はい」
そして。
最後の瞬間。
私は彼の手を握ったまま、目を閉じた。
「殿下」
「うん」
「大好きでした」
「……俺も」
「……ありがとう」
それが、私の最後の言葉だった。
***
十年後。
王都の大聖堂には、一人の王が立っていた。
アルベルト王。
彼の隣には、王妃も子どもたちもいない。
彼は生涯、再婚しなかった。
そして毎年、春になると一人で遠い領地を訪れた。
そこには、小さな花畑がある。
リリアーナが好きだった花を植えた場所。
アルベルトは花の前に座った。
「今年も来たぞ」
返事はない。
それでも彼は笑う。
「王太子じゃなくなった」
「ちゃんと王になった」
「国も平和だ」
そして少しだけ間を置いて。
「……幸せになれって言っただろ?」
風が吹く。
花びらが舞った。
アルベルトは目を閉じた。
「なったよ」
「君がいなくても、ちゃんと生きてる」
そして胸元から、一枚の紙を取り出す。
三年前に燃えずに残っていた、あの日記の最後のページ。
そこには――
『あなたに嫌われたかった。最後に、あなたが幸せになれるように』
と書かれていた。
アルベルトはその文字を指でなぞった。
「馬鹿だな、リリアーナ」
涙が一粒落ちる。
「俺は君に嫌われたかったんじゃない」
「君に――」
彼は笑いながら泣いた。
「ずっと、愛してほしかったんだ」
春の風が吹く。
花びらが彼の肩に落ちる。
まるで誰かが、そっと抱きしめてくれたようだった。
アルベルトは空を見上げる。
「……おはよう、リリアーナ」
十年経って初めて。
彼は、あの日言えなかった言葉を口にした。
「今日も、君を愛してる」
そして。
彼は一人で立ち上がった。
約束したから。
彼女の分まで。
最後まで、生きると。
――Fin.




