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『貴方に嫌われたかった。最後に、貴方が幸せになれるように』

作者: 悪役令嬢
掲載日:2026/09/17

「リリアーナ・フォン・アーデルハイトとの婚約を破棄する」


その言葉が、静まり返った大広間に響いた。


王太子アルベルトの隣には、聖女エレナが立っている。


エレナは涙を浮かべながら、私を見つめていた。


「リリアーナ様に、何度も嫌がらせをされました……」


「私はしていません」


「私のドレスを破いたのも、階段から突き落としたのも君だと証言がある」


「それも、私ではありません」


アルベルトは冷たい目を向けた。


「言い訳はもういい」


その瞬間。


胸の奥が、音を立てて崩れた。


「……そうですか」


私は笑った。


「では、婚約破棄をお受けします」


「……リリアーナ?」


「これまでありがとうございました、殿下」


私は深く頭を下げた。


そして、誰にも見えないように手を握りしめた。


爪が掌に食い込むほど。


泣いてはいけない。


ここで泣いてはいけない。


だって――


「殿下」


私は最後に彼を見つめた。


「どうか、お幸せに」


アルベルトの顔が一瞬だけ曇った。


けれど、私は気づかないふりをした。


その夜。


私は屋敷に戻ると、一枚の紙を暖炉へ放り込んだ。


それは、王太子との婚約を結んだ日に書いた手紙だった。


『いつか殿下と結婚したら、毎朝おはようと言いたい』


『子どもができたら、一緒に名前を考えたい』


『ずっと、隣にいたい』


燃えていく文字を眺めながら、私は呟いた。


「……ごめんなさい」


誰もいない部屋で。


「約束、守れなかったね」


***


それから三年。


私は王都から遠く離れた小さな領地で暮らしていた。


社交界では、私は今も「悪女」のままだった。


王太子を騙し、聖女を虐め、婚約者の座から追い落とされた女。


それでいい。


そう思っていた。


ある冬の日。


王都から一通の手紙が届いた。


差出人は、アルベルトだった。


震える手で封を開ける。


そこには短い言葉だけが書かれていた。


『君に聞きたいことがある』


その一文を見た瞬間。


私は泣いた。


三年間、一度も泣かなかったのに。


「……今さら、何を聞くの?」


***


アルベルトが私の領地を訪れたのは、それから一週間後だった。


馬車から降りた彼を見て、私は息を呑んだ。


三年前より痩せていた。


「久しぶりだな」


「……はい」


「元気だったか?」


「ええ」


嘘だった。


でも、彼には関係ない。


「今日は何のご用でしょうか」


アルベルトは黙った。


そして、一冊の古びた本を取り出した。


「これを見つけた」


私は顔を強張らせた。


それは――私の日記だった。


「どうして……」


「君の屋敷を整理していた者から渡された」


彼は震える手でページを開いた。


そこには、三年前の私の文字が並んでいた。


『今日も殿下はお疲れのようだった。声をかけたかったけれど、邪魔をしたくなくてやめた』


『エレナ様が寒そうだったので、私のショールを渡した。本人には私からだと言わないでほしいと侍女に頼んだ』


『殿下がエレナ様を心配している。よかった。聖女である彼女を守ることが、殿下の役目だから』


アルベルトの手が止まった。


「……これは、本当なのか?」


「……はい」


「じゃあ、君は……」


私は笑った。


「ずっと誤解されていたんですね」


「なぜ言わなかった!」


突然、彼が声を荒らげた。


「なぜ何も言わなかったんだ!」


「言って、何が変わったんですか?」


「変わった!」


「いいえ」


私は首を横に振った。


「変わらなかったんです」


アルベルトが黙る。


私は窓の外を見た。


雪が降っていた。


「三年前、殿下の命を狙っている者がいると知りました」


「……何?」


「犯人は、殿下の側近の中にいました」


私は静かに続けた。


「でも、私がそれを殿下に伝えれば、犯人は私を警戒する。だから私は、わざと殿下に嫌われるようにしました」


「……だから、冷たくしたのか?」


「はい」


「エレナへの嫌がらせも?」


「していません」


「君を悪女に仕立てたのも……」


「私です」


アルベルトが目を見開く。


「全部、私が仕組みました」


「なぜ……」


私は笑った。


「殿下を守りたかったからです」


その言葉を聞いた瞬間。


彼の目から、涙が落ちた。


「……馬鹿だ」


「はい」


「どうして……俺に言わなかった……」


「言ったら、殿下は私を守ろうとしたでしょう?」


「当たり前だ!」


「だからです」


私は微笑んだ。


「私は、殿下に生きていてほしかった」


***


アルベルトはその場から動けなかった。


やがて彼は、日記の最後のページを開いた。


そこには一行だけ。


『もし私がいなくなったら、殿下が私を探しませんように』


アルベルトは震える声で読んだ。


「……いなくなったら?」


私は答えなかった。


彼は私を見た。


「リリアーナ」


「はい」


「君は……何を隠している?」


私は微笑んだ。


「何も」


「嘘だ」


初めてだった。


彼が私の嘘を見抜いたのは。


「君は昔から、嘘をつくと左手を握る」


私は反射的に左手を握った。


アルベルトの顔が崩れる。


「……やっぱり」


彼は私の手を掴んだ。


「もう一度、俺に嘘をつくな」


「……殿下」


「俺はもう、お前を手放さない」


その言葉に。


私は泣きそうになった。


でも――


「遅いです」


「え?」


「もう、遅いんです」


私はそっと彼の手を離した。


「私、長くないんです」


アルベルトの顔から血の気が引いた。


「……何を言っている?」


「三年前から病気を患っています」


「嘘だ」


「本当です」


「嘘だ!」


彼が叫んだ。


「嘘だと言ってくれ……」


私は首を横に振った。


「だから、あのとき婚約破棄を受け入れたんです」


「……」


「殿下が私を嫌いになれば、私が死んでも、殿下は前を向いて生きていけると思ったから」


アルベルトはその場に膝をついた。


「そんなの……」


涙が床に落ちる。


「そんなの、俺は望んでない……」


「私は望みました」


「俺は君と生きたかった!」


「……」


「子どもだって欲しかった!」


私は唇を噛んだ。


「……私もです」


その一言で。


もう耐えられなかった。


「私も……ずっと、殿下と生きたかった……」


三年間。


ずっと我慢していた涙が、止まらなくなった。


「朝、おはようって言いたかった……」


「……」


「夜、おやすみって言いたかった……」


「……リリアーナ」


「子どもができたら……殿下に似た子がいいって……ずっと思ってた……」


アルベルトが泣きながら私を抱きしめた。


「だったら、これからだ」


「……もう、時間がありません」


「ある!」


「ありません」


「ある!」


彼は何度も繰り返した。


まるで、自分に言い聞かせるように。


「絶対にある……」


***


その冬。


私は日に日に弱っていった。


アルベルトは王太子の仕事をすべて調整し、何度も私のもとへ通った。


雪の日も。


雨の日も。


夜中でも。


「今日は何が食べたい?」


「……りんご」


「わかった」


「殿下」


「なんだ?」


「王太子なのに、そんなに簡単に領地へ来ていいんですか?」


「いい」


「でも……」


「お前の夫になる男のほうが大事だ」


私は笑った。


「まだ夫じゃありませんよ」


「なら、今からなる」


「……ふふ」


こんな時間が、ずっと続けばいい。


そう思った。


けれど。


春が来る前に。


私はベッドから起き上がれなくなった。


アルベルトはずっと手を握っていた。


「リリアーナ」


「はい」


「目を開けて」


「開けています」


「……そうだったな」


彼は泣きながら笑った。


私は彼の頬に手を伸ばした。


「殿下」


「なんだ?」


「最後に、一つお願いがあります」


「何でも言ってくれ」


「私のことを……忘れてください」


「嫌だ」


即答だった。


「忘れられるわけない」


「でも……」


「絶対に忘れない」


「殿下……」


「君を悪女だと思っていた三年間も、君を愛していた三年間も、全部覚えている」


私は泣いた。


「……幸せになってください」


「君がいないのに?」


「私の分まで」


「無理だ」


「お願いです」


「……わかった」


彼は私の手を強く握った。


「君が望むなら、幸せになる」


「はい」


「でも一つだけ約束してくれ」


「何ですか?」


「俺が死ぬまで、俺の心の中にいてくれ」


私は笑った。


「……はい」


そして。


最後の瞬間。


私は彼の手を握ったまま、目を閉じた。


「殿下」


「うん」


「大好きでした」


「……俺も」


「……ありがとう」


それが、私の最後の言葉だった。


***


十年後。


王都の大聖堂には、一人の王が立っていた。


アルベルト王。


彼の隣には、王妃も子どもたちもいない。


彼は生涯、再婚しなかった。


そして毎年、春になると一人で遠い領地を訪れた。


そこには、小さな花畑がある。


リリアーナが好きだった花を植えた場所。


アルベルトは花の前に座った。


「今年も来たぞ」


返事はない。


それでも彼は笑う。


「王太子じゃなくなった」


「ちゃんと王になった」


「国も平和だ」


そして少しだけ間を置いて。


「……幸せになれって言っただろ?」


風が吹く。


花びらが舞った。


アルベルトは目を閉じた。


「なったよ」


「君がいなくても、ちゃんと生きてる」


そして胸元から、一枚の紙を取り出す。


三年前に燃えずに残っていた、あの日記の最後のページ。


そこには――


『あなたに嫌われたかった。最後に、あなたが幸せになれるように』


と書かれていた。


アルベルトはその文字を指でなぞった。


「馬鹿だな、リリアーナ」


涙が一粒落ちる。


「俺は君に嫌われたかったんじゃない」


「君に――」


彼は笑いながら泣いた。


「ずっと、愛してほしかったんだ」


春の風が吹く。


花びらが彼の肩に落ちる。


まるで誰かが、そっと抱きしめてくれたようだった。


アルベルトは空を見上げる。


「……おはよう、リリアーナ」


十年経って初めて。


彼は、あの日言えなかった言葉を口にした。


「今日も、君を愛してる」


そして。


彼は一人で立ち上がった。


約束したから。


彼女の分まで。


最後まで、生きると。


――Fin.

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