濡れ衣です。その権を伺い、鍵を置いて出ます。本が開きません
「勝手に本を持ち出したのは、あなたですね。モイラ・フェンウィック」
よく通る声だった。モイラは返事をせず、右の手のひらを広間の壁へ当てた。石は冷たく、その冷たさの奥に、昨日までなかった湿りがあった。
長卓の向こうには、招かれた客が二十人ほど並んでいる。昼食の皿は下げられ、卓布に残る葡萄酒の輪だけが、アーチボルド・スローンの宣告を聞いていた。
「今朝、書庫の冊数を改めさせました。三冊が不足しております。鍵をお持ちなのは、あなた一人だ」
スローンは一枚の紙を持ち上げた。数を声にするときだけ、彼の敬語はよく磨かれた磨いた匙のようになった。
「昨夕、東の通用口から包みを運び出したところも見られております。伯爵家の蔵書を許しなく持ち出すなど、遠縁の方であろうと見過ごすわけにはまいりません」
腰の鍵へ、モイラの左手が移った。親指の腹で歯をなぞると、長く使った角だけが丸い。先代から渡された朝には、まだ指へ食い込むほど尖っていた。
壁から離した右手には、薄く白い粉がついていた。モイラはそれを外出着の脇で払わず、指を閉じた。
「包みを運び出したことは、認めますか」
「はい」
客の一人が椅子をわずかに引いた。木の脚が床を擦り、そこで止まった。
「では、お認めになるのですね」
「三家からお預かりしていた三冊です。雨の前にお返ししました」
「書庫にあった以上、持ち出しには家令の許しが要る」
広間の上座では、ルイーザ・ヘイワードが扇を開いたまま座っていた。閉じようとした親指が骨を一本押し違え、扇は半端に折れた形のまま膝へ下りた。
モイラは朝から何も口にしていなかった。冷えた台所で立ったまま食べた、昨夜の豆のスープの塩気だけが舌の端に残っている。椀を置く場所さえ惜しく、鍋の横で三口に分けたものだった。
「返した先の名を挙げなさい。こちらから照会します」
「その前に、一つだけよろしいでしょうか」
スローンは紙を長卓へ置いた。客へ見せる顔のまま、指先で紙の角を揃えた。
「申してみなさい」
モイラは鍵から手を離さなかった。
* * *
「書庫の本を出し入れする許しは、先代様からわたくしに預けられております」
「それは昔の取り決めでしょう。現在、屋敷の管理は私が——」
「その権を、いつからお持ちのおつもりでしたか」
声を張る必要はなかった。長卓の端で葡萄酒の輪が乾き、縁だけを濃く残していた。
スローンの指が紙の角から外れた。
「家令として任じられた日からです。当然のことではありませんか」
「奥様」
モイラは上座へ顔を向けた。半端に閉じた扇の向こうで、ルイーザの唇が一度結ばれた。
「先代様がお亡くなりになったあと、書庫の出し入れをスローン家令へ預け替えるとのお言葉を、わたくしは頂戴しておりません。奥様は、お預け替えになりましたか」
扇の骨が、乾いた音を一つ立てた。
「いいえ」
ルイーザは扇を膝へ置いた。
「書庫の出し入れは、先代からモイラに任せたままです。わたくしは変更しておりません」
「しかし奥様、家令が屋敷全体を管理する以上、個々の鍵についても——」
「変更しておりません」
二度目は短かった。
最初に顔を動かしたのは、長卓の端にいた白髪の客だった。スローンを見ていた目が、ルイーザへ移る。隣の商人も続き、その向かいの婦人はモイラの腰の鍵を見た。
一人ずつ、スローンから視線が外れていった。助け舟を出す者はいない。紙を掲げた彼の前だけが、広間の中でひどく広くなった。
「帳簿上の不足を確認するのは、家令の務めです」
スローンは長卓へ手をついた。先ほどまで客へ向けていた顎が、紙の上へ少し下がっている。
「不足ではございません。お預かりしていた二冊を、お返しした数です。返却の日付も控えにございます」
「では、その控えを提出しなさい」
「いつも書庫の机に置いております」
スローンの右手が腰へ動いた。鍵を探すように上着の脇を撫で、何もないまま指が止まった。
客たちはその手を見た。誰も咳払いをしなかった。
「本日のところは、確認の行き違いということにいたしましょう」
スローンは紙を二つ折りにした。折り目は斜めになった。
「いいえ、スローン家令」
ルイーザの手が、膝の扇を押さえた。
「あなたは客を招きました。モイラをここへ立たせました。行き違いは、もう済みません」
椅子が引かれた。白髪の客が立ち、続いて二人が立った。彼らはスローンの横を通らず、モイラの前に細い道を空けて広間を出た。
モイラはその道を使わなかった。壁へついた白い指先を開き、いつもの扉から書庫へ戻った。
* * *
翌朝、書庫の柱から虫干し順の紙が剥がされた。スローンは上端を二本の指で摘み、古い糊の跡まで一息に引き下ろした。
「北側、東側、窓下。棚ごとに日を分ける理由はないでしょう」
「同じ日には風が通りません」
「人手を増やします。あなた一人で抱えるから、面倒な順が必要になる」
紙は折られず、机の端へ放られた。墨で引いた棚の線が、昨夜からの湿りを吸って少し滲んでいる。
若い書庫係たちは、ネヴィル・ケンプを先頭に入ってきた。ネヴィルは新しい冊数表を柱へ貼り、掌で二度叩いた。
「棚の番号、段の番号、冊数。ほら、これなら俺にもできます」
語尾を伸ばして笑うと、後ろの二人へ顎を振った。
「一番から並べろ。抜いたら印をつけろよ。難しい顔は要らないってさ」
モイラは剥がされた紙を拾った。丸めず、十四年分の控えのいちばん上へ重ねる。
「今年は南風が重うございます。雨が三日続いたあと、北側を先に開けてくださいませ」
「そのような加減は表にありません」
「ですから、今申し上げております」
スローンは新しい冊数表を見上げた。縦横に引かれた罫線の中へ、すべての本が数字として収まっている。
本は番号どおりに戻せば片づく。彼の目には、剥がした紙より新しい表のほうが、ずっと書庫らしく見えていた。
「今後は私の定めた手順で進めます。書庫係は四人いる。特定の者の勘に頼る管理は、伯爵家にふさわしくありません」
「承知しました」
モイラは控えの角を揃えた。
「数を合わせてから、出てまいります」
その日の夕方、三家の使いが返却の受け取りを持ってきた。モイラは署名を受け、使いたちを戸口で呼び止めた。
「今年は壁一枚ぶん、雨が近うございます。棚を壁へつけず、晴れ間が一日あっても、すぐには本を大きく開かないようお伝えくださいませ」
「ヘイワード家の書庫でも、そうなさるのでしょう」
モイラは返却証を控えへ挟んだ。
「こちらでは、新しい順が決まりました」
三人の使いは、それぞれ言伝を確かめながら雨の匂いのする庭へ出た。
柱には冊数表が残った。剥がされた虫干し順の糊だけが、その下から薄黄色く覗いていた。
* * *
出ていく朝、モイラは一番の外出着を着た。襟は高く、袖口は十四年前と同じ幅だったが、肘の内側だけ布が柔らかくなっていた。
書庫の机へ、十四年分の虫干しと配架の控えを積んだ。年ごとに紐の色を変え、いちばん新しい束には、三家からの返却証も挟んである。
刷毛は毛先を傷めないよう、ぬるい湯で埃を落とした。布で根元の水を吸い、柄の染みに乾いた指を一度置いてから、窓下の箱へ戻した。
ネヴィルが扉にもたれて、その様子を見ていた。
「そこまでしなくても、新しいのを買いますよ」
「これは、まだ使えます」
「じゃあ、置いといてください。俺たちで使うんで」
「そのつもりで拭いております」
ネヴィルは口の端を上げかけ、柱の冊数表へ顔を向けた。モイラは箱の蓋を閉め、机の引き出しが空であることを確かめた。
窓の留め金には細い錆が出ていた。油を一滴だけ差し、余りを布で拭う。明日から誰が開けても、指へ赤い粉はつかない。
「モイラ」
戸口にルイーザが立っていた。供もつけず、室内用の靴のままである。
「奥様。控えはこちらにございます。北側の棚は、雨のあと二日置いてからお開けくださいませ。窓は朝に西を、昼前に東を——」
「あなたが言うのではなく、あなたがしてくれればよいのです」
「スローン家令は、四人でなさると決められました」
「あの場で止めるべきでした。昨日ではなく、もっと前に」
モイラは机の上の紐を一本、積み直した。結び目が正面を向いた。
「鍵を」
ルイーザの声が細くなった。
モイラは腰から鍵を外した。机の右端、いつも控え帳を開く場所へ、歯を扉側に向けて置く。
指が離れなかった。
窓の外で、荷車が石を踏んだ。軋みが庭を横切り、門の向こうへ遠ざかるまで、鍵は指の下にあった。
やがてモイラは、擦れた歯を親指で一度なぞった。声を一段落とした。
「わたくしはこの一本を、十四年、わたくしの書だと思うて預かっておりました」
指を上げた。
鍵は机に残った。
ルイーザは何も取らなかった。モイラは彼女の横を通り、廊下へ出た。
台所の前では、朝の鍋から豆の匂いがしていた。立ち止まらず、一番の外出着の裾を持ち上げて裏口の段を下りる。
門番が重い門を開けた。モイラが敷居を越えたあとも、門はしばらく閉じなかった。
* * *
一月目、何も起きなかった。
新しい冊数表には印が増え、抜かれた本は番号どおりに戻った。棚に空きはなく、スローンは昼食の客へ、書庫は以前と変わらず動いていると話した。
二月目も、数は合った。
ネヴィルは柱の表を新しい紙へ書き写した。書庫係は四人から三人になったが、一人あたりの列を長くすれば、表の下端まで数字はきれいに続いた。
そのころモイラは、近郊の修道院で西窓の一棚を任されていた。コーマック・ビセットが古い祈祷書を抱えて現れ、棚へ入れる前の本をモイラの机に積んだ。
「これはヘイワード家へ納める品ではございませんか」
「行き先を変えた」
老人は留め具を外し、表紙をモイラへ向けた。革の隅に薄い染みがある。
「こちらは、まだ乾かしてからでなければ置けません」
「なら待つ」
「商いがおありでしょう」
コーマックは本を閉じた。
「おれたちはあの家に売ってたんじゃない。あんたの目に売ってたんだ」
それだけ言うと、老人は椅子を自分で引き、モイラが染みを見るあいだ座っていた。
三月目、ヘイワード家の棚は変わらず埋まっていた。
スローンは新たな客を招く日を決め、書庫係には閲覧机を磨かせた。柱の冊数表は端から剥がれかけ、ネヴィルが新しい糊を上塗りした。
修道院では、近隣の女たちが週に一度、本を読む講を始めた。モイラも端の椅子へ座らされ、膝の上に自分の分の本を置いた。
「読む人が立っていては、こちらの首が疲れます」
そう言った女が、太い指で隣の椅子を叩いた。別の女は鍋から豆のスープをよそい、木の匙を椀へ突っ込んだままモイラへ渡した。
椀は両手で包める大きさだった。窓から入る光が湯気を白くし、開いた本の上へ流れていく。
モイラが半分まで飲むと、向かいの女が講の続きを読み始めた。誰も椀を持ったまま聞くことを咎めず、頁をめくる音の間へ、匙が器に当たる音が混じった。
* * *
梅雨に入り、七日続けて雨が降った。
八日目の朝、北側の棚で本の背が波打っていた。革は中央から盛り上がり、隣の本を押し、棚一段が歯を食いしばるように詰まっている。
「引け。番号を確かめる」
スローンの声に、ネヴィルは両手を使った。一本を抜こうとすると、その両側まで動き、三冊の背が同時に軋んだ。
「もっとまっすぐ引きなさい」
ネヴィルは足を棚板へかけかけ、やめた。両手で本を掴んだまま、語尾を伸ばすこともなく口を閉じた。
開いた本も、頁が互いに貼りついていた。端だけを持ち上げると紙の表面が薄く剥がれ、文字の一部が向かいの頁へ移った。
柱の表と棚の冊数は、きちんと合っていた。
モイラを迎えに、屋敷の馬車が出された。修道院の戸口へ来た使いは帽子から水を落とし、奥様が一度だけ見てほしいと仰せだ、と伝えた。
モイラはその日の仕事を終えてから馬車へ乗った。ヘイワード家の書庫へ入り、北側の棚の前まで歩く。
いつものように、右手が壁へ伸びた。
波打った背の前で、その手は止まった。指先から壁までは、半歩もなかった。
「開けようとしました」
ネヴィルの両手には、革の色が移っていた。
「これ以上は、お開けになりませんよう」
モイラは手を下ろした。
「直せますか」
ルイーザが尋ねた。モイラは背の浮いた一冊を横から見た。
「戻らぬ頁がございます」
窓の雨垂れが、同じ間隔で石を打っていた。スローンは柱の表を外し、机へ伏せた。
「この長雨は例外です。過去の順を守ったところで、すべて防げたとは限りません」
「あなたは、その順を剥がしましたね」
ルイーザは外出着を着ていた。手袋も帽子も整えられ、足元には泥除けの革靴が置かれている。
「判断したのは、私です。しかし四人で管理できるとの報告は、その時点では合理的で——」
「家令室の鍵を置きなさい」
「奥様」
「置きなさい」
スローンは上着の内側から鍵束を出した。大きな鍵、小さな鍵、札のついた鍵が銀盆の上へ一つずつ落ちた。
最後の一本が跳ね、盆の縁に当たった。ルイーザはそれが止まるのを待った。
「本日限りです。控え帳はわたくしが預かります」
「書庫だけのことで、家令を退けると仰るのですか」
ルイーザは返さなかった。銀盆を従者へ渡し、帽子をかぶった。
その日の午後、伯爵夫人の馬車は三家を回った。ルイーザは自ら玄関へ立ち、預かり本の扱いと、モイラを客前へ立たせた経緯を一軒ずつ話した。
翌週から、ヘイワード家の招きへ届く返事が減った。食卓の席札は余り、書庫の閲覧机には磨いた跡だけが残った。
コーマックは新しい本を一冊も納めなかった。荷車はヘイワード家の門を曲がらず、修道院の西窓へ向かった。
モイラが旧い書庫へ入ったのは、その一度だけだった。帰りの馬車では両手を膝へ重ね、壁へ届かなかった右手を左手で包んだ。
* * *
梅雨が明ける前に、修道院から一通、近隣三家から三通の依頼が届いた。
どの手紙にも、同じ書庫へ勤めてほしいとは書かれていなかった。預ける本をモイラ・フェンウィックの名で受け、置く棚と開く日を彼女に決めてほしいと記されていた。
修道院は朝日の入る一室を空けた。三家は棚と机の費用を分け、コーマックは壁から指二本ぶん離して棚を組ませた。
最初に運ばれた本を、モイラは窓辺の机で一冊ずつ開いた。湿りの残るものには布を挟み、乾いたものだけを棚へ移す。
ヘイワード家では書庫の錠が替えられ、役目を終えた古い鍵が小包で届いた。添えられていたのはルイーザの筆で、「処分はお任せします」と記した紙一枚だけだった。
モイラは歯の擦れた鍵を洗わなかった。十四年の黒ずみを残したまま、朝日の当たる窓辺へまっすぐ立てた。
その午後、戸口にスローンが現れた。家令の上着ではなく、襟の柔らかい外套を着ていた。
「少し話せますか」
モイラは机の本を閉じず、布を挟んだ頁へ手を置いた。
「何でございましょう、スローン家令」
「その呼び方は、もう皮肉でしょう」
彼は椅子を勧められるのを待った。モイラは立ったまま、乾き具合の違う本を机の左右へ分けた。
「書庫は人手が足りない。奥様も、あなたが戻れば修復を進めやすいはずです」
「奥様からは、そのようなお話を頂戴しておりません」
「奥様が言えることではない。だから私が来たのです。一度戻って形を整えればよい。家のためだ」
スローンの目が窓辺の鍵へ移った。
「鍵まで持ってきているのなら、まだ無関係というわけでもないでしょう」
モイラは布を一枚取り、本の頁へ挟んだ。窓からの風で紙の端が上がり、指の下へ戻る。
「その権を、いつからお持ちのおつもりでしたか」
スローンの脇へ、右手が動いた。外套の上から空の腰を撫で、戸口へ落ちた。
彼は本の名を一冊も尋ねずに帰った。
夕方、講の女たちが鍋と椀を持って入ってきた。棚の前へ車座になり、今日届いた本から、いちばん字の大きいものを選ぶ。
「こちらでは、戻す棚もわたくしが決めてよろしいのですね」
「決めてくれなきゃ、わたしたちが好きなところへ突っ込みますよ」
「それは困ります」
「なら座って見張ってなさい。立って働くのは禁止」
モイラは窓辺の鍵の向きを整え、輪の中へ座った。温かな椀を両手で包み、本を膝の上に開く。
読み手が一頁目を終える前に、モイラの椀は空になった。隣の女が何も言わず、豆のスープをなみなみと足した。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




