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中神小夜子は壊したい 後編

――小夜子(さよこ)の呼吸がふっと乱れる。

喉の奥で息が詰まり、次に吸い込む空気が重くなる。


優一郎の唇の端がゆっくりと上がる。

「……やっぱりね」


「何が?」

「君、隠すのが下手だ」



小夜子の瞳が、わずかに細くなる。

「相馬くん、楽しい?」


「楽しいよ」

優一郎は即答した。

椅子の背に体を預け、ゆっくり回す。

金属が擦れる音が、まるで時計の針みたいに規則的に響く。


「君の目、さっきまで俺を見てたのに、今は自分の中を見てる」

「ただ、俺が見たいのは、君の脆さが出る瞬間だけだ」


「……どうして?」


「強い奴が揺れるときって、綺麗だから……わかるだろ? 君もそれ、よく知ってるはず」


小夜子の喉がわずかに震えた。

それは否定の前触れのようでいて、言葉が出ない。


優一郎は続ける。

「今度は君の番だったら、おもしろいね」


静かな声だった。

淡々としているのに、逃げ場を塞ぐような音の重さがある。


小夜子は唇を噛んだ。

「……そうやって、相手を締め上げてくのが楽しいの?」


「そういう君も、同じだろ。ただ、君は綺麗な理由をつけたがる」


小夜子が顔を上げた。

優一郎の笑みは穏やかだったが、目だけが笑っていなかった。


「君みたいな人間が一番タチ悪いよ。愛とか綺麗とか言葉を使って、自分を人間の側に置いておく」


「……」


「違うか?」

彼は声を低く落とす。

「君の中にあるのは美学だろ。愛じゃない。誰かを救いたかったんじゃない。ただ、壊れる瞬間の表情を、自分の中に飾りたかっただけ」


その言葉が、彼女の胸を正確に撃ち抜く。

小夜子は缶を強く握りすぎて、金属がわずかに歪む音を立てた。


優一郎は、満足そうに息を吐いた。

「いい顔になった」


小夜子は睨み返した。

だが、その目には怒りよりも、奇妙な熱が宿っていた。


「……本当に人の心、虐めるの上手だね」


「いや、君が自分でそうしたんだよ」


優一郎は、音もなく立ち上がった。

照明の白が、彼の輪郭を細く切り取る。

そのまま、小夜子の背後に立った。


「君、強いって言われるのが好きだろ」

声は低く、静か。

背後から、耳の近くで淡々と落とされる。


「でもさ、強いって言われる人間ほど、誰かの前で手放す瞬間を探してる」


小夜子の肩がわずかに動く。

笑うような、息を呑むような、曖昧な動き。


「君もそうだろ?」


彼の言葉は、命令でも誘いでもなく、確信として置かれていく。


小夜子は、振り向かなかった。

ただ、窓の向こうに映るふたりの影を見つめた。


「……それで?私に手放させて、どうするの?」


「確かめる」

優一郎の声が近い。

「君がどこまで、自分を曝け出せるのか」


沈黙。

それは一瞬、支配の完成にも似ていた。


だが――小夜子は、ゆっくりと息を吸い込むとそのまま振り返った。


目と目が合う。

距離は、もうわずか。


「ねぇ、相馬くん」

声が低く、しかし、しなやかに響く。

「君、自分が上に立ってると思ってるよね?」


優一郎の眉が、ほんのわずかに動いた。


「でも、本当に支配してる人間って、手放させる側じゃないよ」


「自分から手放したいと思わせるの」


優一郎はじっと小夜子の目を見る。


「ふぅん、そう」

優一郎の笑い方は静かだった。

感情の波がほとんどない分、その冷たさだけが空気を刺した。


彼は上着を取り、立ち上がる。

「このまま帰るの、もったいないだろ」


小夜子は少しだけ顔を上げる。

「……どういう意味?」


「試してみようよ」


言葉は淡々としていた。

だがその声に宿るものは、命令でも誘いでもない。

ただ提案の形をした支配。


「君が言ったじゃないか。『待てる』って」

「全部曝け出すか、耐えるか、俺が試してやるよ」


小夜子の呼吸が一瞬だけ止まる。

「いいよ」

その声には諦めでも従順でもない、単純な肯定。


外に出ると、夜風が頬を撫でた。

街灯の下、二人の影が並ぶ。


優一郎はポケットに手を突っ込みながら歩く。

小夜子はその横顔を見て、ふっと笑った。


「相馬くんってほんとに変な人」


「君に言われたくない」


「だって普通、こんな誘い方しないでしょ」


「俺たち、普通じゃないだろ」


その言葉に、小夜子は何も返さなかった。

ただ夜の光の中で、彼を見ていた。


彼が自分を壊すのか、

それとも自分が彼を壊すのか。 


――あぁ……楽しみ。


……


繁華街のホテルに入る。

外のざわめきは遠く、ここだけが異様に静かだった。


小夜子はベッドの端に腰を下ろす。

姿勢は崩さず、まるで舞台の幕が上がるのを待つように。


優一郎は、ドアのそばに立ったまま、部屋の中をゆっくりと見回していた。


「……シャワー、浴びる?」

軽い調子で言ったつもりだったが、言葉の端にかすかな緊張が混じる。


小夜子は視線だけを上げて、彼を見る。

そのまま、首を傾ける。


「ねぇ、相馬くん。どうして私を、組み伏せるつもりになってるの?」


その声は冷ややかで、柔らかかった。

怒っているわけでも、試しているわけでもない。

ただ、彼の意図を測っているだけ。


優一郎は答えず、笑みを作った。

「そう見える?」


「うん。あなた、背が高くて立ってると強く見えるから」

そう言って、彼女はゆっくりと足を組み替え、

指先で床を指した。


「まずは、そこに座るんじゃない?」


優一郎の視線が、彼女の指先から床へと落ちる。

一瞬、空気が動かなくなった。


彼女のその言葉には、挑発でも、命令でもなく、明確な位置づけがあった。


優一郎は少しだけ口角を上げ、その指された場所を見つめたまま、答えた。


「……いいね」


そして静かに歩き出す。

足音が、絨毯に吸い込まれていく。


ゆっくりと膝を折った。

床に座るが、余裕は崩さない。

まるで命令ではなく、自分の意志で座ったかのように。


目線を上げれば、小夜子の足元。

しかし、彼の視線は見上げるというより観察する角度にある。


小夜子は少しだけ息を吐いた。

安堵ではない。――支配の再構築のための、呼吸の調整。


彼女の視線が、上から落ちる。

その視線は重く、しかしどこか慈悲に似ていた。


「あなた、人が壊れるのを『待てる人』が社会からどう見えるか知ってる?」


「……どう見える?」


「壊す人より、ずっと怖いよ」

――そう。あなたがいくら攻めても、私は壊れない。

壊さずに見続ける方が、ずっと残酷で、支配的なんだよ。


彼はゆっくりと笑った。

「だから、面白いんだ」


――君みたいに壊れない人間にぶつかるのは初めてだ。

自分がどこまで試されるか――その未知が、面白い。


小夜子の唇がかすかに動く。

「――ほんと、危ない人」


けれどその声には、

拒絶よりも、わずかな共鳴があった。



小夜子は、優一郎を見下ろしたまま微笑んだ。

「ねぇ、相馬くん。ちょっと遊ばない?」


「遊ぶ?」


「うん。――お互い、同じだけ脱いでいくの」



彼女はゆっくりと指先で胸元を押さえながら言う。

「先にひとつ、あなたが見せて。そしたら、私も同じだけ見せる」


優一郎は肩をすくめ、笑った。

「じゃあ、最初に一枚だけ」


声は軽いが、目の奥はまるで刃のように冷たい。

優一郎はスーツの上着を脱いで床に捨てる。


小夜子を見据えたまま、言葉を落とす。


「俺ね、だいたいわかるんだ」

「そいつの痛みの許容値を。泣く直前の顔って、綺麗だろ?」


小夜子はまばたきを忘れる。

その声の調子は日常の延長みたいに淡々としているのに、言葉の端だけが、刃物みたいに冷たい。


「君も、そういう顔するのかなって思って」


「そうだ、あと三枚、一気に脱ごうか?」

優一郎は笑顔で言うとなんの抵抗もなしに下着以外を脱ぎ捨てる。


彼は距離を詰める。

それは肉体的な近さではなく――視線の焦点を一段深く沈めるような近さ。


「君みたいな人、初めてだ」

「待てるくせに、壊れる瞬間を知ってる」


言葉が熱を帯びていく。

それは理屈ではなく、興奮に近い“知的な衝動”。

獲物を追う快感と、自分が追われているかもしれないという陶酔が混じる。


「君はきっと、自分がおかしくなるのを見せたいんだ。

 でも誰にもできなかった。――だから俺に言ったんだろ?」


小夜子の唇が、かすかに動く。

「出し抜いたつもり?」


「違う。今、同じ高さにいるだけ」



小夜子の沈黙を破ったのは、優一郎の声だった。


「……君も、脱げよ」


その言葉には、挑発と支配が入り混じっている。

まるで自分の理性を守るための最後の鎧のように。


小夜子は、ほんの少しだけ首を傾げた。


「もう、脱いでるじゃない」


「は?」


彼女の声は柔らかく、それでいて無慈悲だった。


「あなたが対等を口にした時点で、もう私に追いつけないの」


優一郎は一瞬、息を止めた。

理解が、ほんの少し遅れて追いつく。


「私ね、最初から“上”も“下”も要らなかったの。ただ、あなたがどこまで落ちてくるかを見たかっただけ」


彼女はゆっくりと歩み寄り、裸の彼の前で止まる。

視線を落としながら、囁くように言った。


「ほら、見て。あなた、今――どちらの立場で見てる?」


優一郎の瞳に、かすかな動揺が走る。

その瞬間、すべてがひっくり返る。


「あなたが脱げと言った時、私のほうが、もう先に裸だったのに」


沈黙。

その言葉の重みで、部屋の空気がわずかに揺れる。

優一郎の中で何かが音もなく崩れる。


彼はようやく気づいた。

自分が支配していたと思っていた間、ずっと小夜子に観察されていたことに。


小夜子は笑う。

優しい声で、残酷な真実を置いていく。


「あなたね、脱がせるのは上手いけど――自分が裸になる音には、気づかないのね」



小夜子は、ふと静かに立ち上がった。

「ねえ、相馬くん」

その声は穏やかだったけれど、どこか切り裂くような冷たさを含んでいた。


優一郎が顔を上げる。

次の瞬間、乾いた音が室内に響いた。


頬が熱を帯びる。

あの日――弟の友人に殴られた場所と同じ。

身体の奥が、一瞬で覚醒する。


彼は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。

それは痛みではなく、生の実感だった。


……そうだ、これだ


唇の端が、かすかに震える。

痛みのなかで、彼はようやく――“生きている”と思えた。


小夜子は彼を見下ろしながら、静かに言う。


「相馬くんが求めていたのは、壊すことじゃない。壊されることでしか、生きられない感覚なの」



ふたりの間にはもう、支配も対等もなかった。

ただ、同じ熱の中で――

“壊れること”が“満たされること”に変わっていた。


優一郎は小夜子を見上げる。

唇が微かに震える。


小夜子は「約束ね」と言って同じ数だけ服を脱いだ。


「優一郎くん、次は……どうする?」


分厚いカーテンの隙間から、街の明かりが淡く差し込む。


その光の中で、優一郎は静かに微笑んだ。


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