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中神小夜子は壊したい 前編

夜十時を過ぎたオフィスの人はまばらだった。

優一郎はパソコンの画面の光の先を見つめる。


「今日も遅いね」

中神(なかがみ) 小夜子(さよこ)……

長い黒髪が揺れ、切れ長の目がこちらを射抜くように見る。


優一郎はいつもの顔を作る。

「うん…この案件、今月、経伺だろ?」


「へぇ、いよいよか。相馬くんも調整頑張ってたもんね」


「俺なんてまだまだ。先輩の指示通り動いてただけだしな」


「……」


「ところで、何か用?」


「……うん」

「実は相馬(そうま)くんに話したいこと、あって。休憩がてら、どうでしょう?」

そう言って、小夜子は缶コーヒーを二本、両手に持って微笑んだ。


誰もいない休憩スペース。

窓に面したカウンターで、背の高いスツールに隣り合って座る。


中神小夜子は同期入社ではあるが、大学も違うし、特別親しいわけでもない。ただおなじ配属先の数人のうちの一人だ。


「…で、話って?」

缶コーヒーを開ける。


「……うん。相馬くんってさ、みんなと違うよなぁって」

小夜子が笑いながら優一郎を下から見る。

けれどその目は……冷たく笑っていない。


「何だよ、どういうこと?」

冗談めかして言う。


「午後にさ、奥村のこと、投資先に俺より優秀なんで…なんて紹介してさ。思ってもないくせに」

小夜子はニヤリと笑う。


「なに?奥村のファンなの?」

「いや?あの子、ちょっと変わってるもんね。私たちに無いものを持ってる…」


「君が『みんなと違う』って言う俺と、それがなんか関係あるの?」


「相馬くんって、結構『そういう』物言いするじゃん?

こっそり相手を痛めつけるの」


「そう?」

「うん………すごく、ね」


――何が言いたいんだ、こいつ


「ああ……良くないよな、気をつけるよ」


「へぇ」

「相馬くんって、本当に普通の振り上手だね?」


その言葉に、優一郎は満面の笑みを作る。

「何の話だよ」

「……ううん、ただの感想」


小夜子は濡れるような黒髪を指先で巻きながら、視線を窓の外に逃がした。


外は真っ暗で、ガラスに映るのは自分たちの姿だけ。

それがまるで、鏡のように嘘をつかない。


「普通って、努力がいるじゃない?わたし、昔はできなかったなぁ」


「……昔?」


「うん。誰かのことを理解したいって思うたび、つい、私のやり方で確かめちゃうの。どこまでが本音で、どこからが嘘か、知りたくなって」


優一郎は、缶を置いた。

金属がカウンターに触れる乾いた音。


「……それ、俺と関係ある話?」


小夜子はゆっくりと笑う。

「あなたも人を観察するの、得意そうだから」


沈黙が落ちる。

それは不快ではなく、むしろ濃密だった。

お互いの心を嗅ぎ合うような、捕食者の沈黙。


小夜子はカウンターに肘をつき、指先で空になった缶の縁をなぞった。

金属の冷たさが爪の下に伝わる。


「観察って、楽しいよね」


「楽しい?」


「うん。人間ってみんな、どこかで自分を演じてる。

 だから本音を見つけた瞬間って、すごく綺麗なんだ」


優一郎は小さく笑った。

「へぇ。そういう君は、誰を演じてるんだ?」


「私?」

彼女は軽く首を傾けた。

「たぶん、優しい人かな」


「でも、ほんとは違うよ」

小夜子は空の缶の形を指でなぞりながら微笑む。

「この子いいなって思うと、ついやり過ぎて、ダメにしちゃうの。

 たぶん私、その瞬間を見るのが好きなんだと思う」


優一郎は少しだけ目を細めた。

その仕草は笑みにも見えるし、警戒にも見える。

「君、面白いこと言うな」

「そう? あなたもそうでしょ?」


「どうしてそう思う?」


小夜子は目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。

ガラスに映る優一郎の顔を見つめる。


これまで、誰かに興味を持たれるたびに彼は笑ってかわしてきた。

「普通の人」を演じれば、人はそれ以上を覗こうとしない。

けれど中神小夜子は違った。

彼女の視線は、皮膚ではなく肉を貫き骨に届く。


「……そんなに俺の目、気になる?」

優一郎が低く笑う。


「うん。奥村を見る相馬くん、すごく生きてるみたいだったから」


小夜子はそう言って、また缶を置いた。

金属が軽く鳴る。


彼女の指先がわずかに震えている。

それは恐れではなく……静かな興奮。


優一郎は、ゆっくりとその手元を見た。

「俺が、生きてる?」


「そう。普段は死んでるみたいじゃない」


優一郎は、思わず笑ってしまう。

けれどその笑いの裏には、どこか刺さるような痛みがあった。


――死んでる。

この女は、ほんとうに人の核心を言葉にする。


「君、そうやって人を観察して楽しんでるんだろ」

「楽しむ、とはちょっと違うかも。私、知りたいだけ。人がどんなふうに壊れるのか」


「……壊すのが好きなんだ?」


小夜子は答えず、彼をまっすぐ見た。

その視線に、ほんのわずかな慈しみのようなものが混じる。


「ねぇ相馬くん。あなた、自分が壊されること、想像したこと、ある?」


沈黙が落ちた。

優一郎の中で、長く眠っていた何かが目を覚ます音がした。

それは恐怖でも、興奮でもない――

理解されることへの拒絶と渇望が同時に立ち上がる感覚。


小夜子の唇がゆるく曲がる。

「ねえ、当てっこしない?

当たっていたら話して。違っていたら、逆に相手に話させるの」


優一郎は一瞬だけ目を細めて、それから肩をすくめた。

「遊びか?」と笑う。だが笑いの端は、挑発を含んでいる。


「もっと知りたいだけ」

小夜子は空き缶を指で弾いた。金属音が、ふたりの間で小さく跳ねた。


「いいよ。どっちから始める?」

「じゃあ、私から」

小夜子は彼をまっすぐ見据え、まるで標本を定めるように言った。


「相馬くんは、誰かを虐めたことがある」


質問は短く、鋭い。

優一郎の掌がわずかに硬くなるのを、小夜子は見逃さない。

部屋の空気がぎゅっと縮む。


「あるよ」――彼は吐き捨てるように、しかし平然と答えた。声は低く、よく研がれている。

「誰を?」小夜子は促す。好奇の色を隠さずに。


優一郎は視線を落とす。窓に反射した自分の横顔が揺れた。

「弟みたいなやつだよ」――彼の声は震えなかったが、その一言がふたりの距離をほんの少しだけ変えた。

「理由は?」と小夜子。


彼はゆっくりと息を吐いた。言葉は慎重に、しかし確かに流れていく。

「確かめたかったんだ。あいつに触れて、俺の中でどんな反応があるか」


小夜子は静かに頷く。顔には驚きも軽蔑もない。むしろ、小さな満足が混じったような表情だった。

「いいね」――その一言に、過去の真実が一枚めくられるような感覚がした。


優一郎は小夜子の反応を読む。


彼女は、言葉そのものよりも、言葉の“奥”を見ているようだった。

一瞬だけ、空気の温度が変わった気がした。

けれど彼はその違和感を追わなかった。


「じゃあ、今度は相馬くんの番だね」と小夜子が言う。


「分かった」――優一郎は短く、そしてためらいなくそう言った。


「当ててほしいな。そしたら全部話すから」

小夜子は少しだけ身を乗り出す。


優一郎はテーブルを指で叩きながら彼女を眺める。

それは見るというより、並べていく作業だった。


「まずは……君は、自分が普通じゃないって、早い段階で気づいてた」


小夜子は横顔をガラスに向けたまま、視線だけを彼に寄こす。


「それにさっき言ったよな。いいなって思うと、ついやり過ぎてダメにするって」


優一郎は、テーブルを指先で叩きながら続ける。


「つまり君は、いいと思った相手を試すんだ。どこまで耐えられるか、どこで壊れるか。

人が崩れる瞬間まで含めて、綺麗だって感じるタイプ」


小夜子の髪を弄ぶ指が止まる。


「それから――さっき『理解したいとき、自分のやり方で確かめる』って言った」

彼は少し前のめりになり、声を落とした。

「そのやり方を説明しなかった。こんなに喋りたがりのくせに」


小夜子はゆっくりと彼を見た。

目の奥の光が、わずかに強くなる。


「誰に話しても、褒められないやり方なんだろ?」

優一郎の声は静かで、よく研がれていた。


「だから――」


――そう、彼女の言葉には、『後悔』の影がない。

まるで壊したことを美術品のように語る口調だった。

だから、すぐに分かった――彼女は、俺と同じ側にいながらも、自分では手を下さないんじゃないか。


優一郎は間を置いて、線を引くように言った。

「君のために、誰かがおかしくなった。

 ひどい目に遭って、でも君はそれを“綺麗”だと思った」



――数年前、冬。


中神小夜子は普通の女子高生だった。

片想いの末結ばれた大好きな彼との、映画デートの帰りだった。

深夜の繁華街で、彼はコンビニに寄って、小夜子は外で待っていた。


数人組の男が小夜子を取り囲む。

手首を強く掴まれ、口を塞がれる。見通しの悪い路地裏へ連れ込まれ、服を捲り上げられる。


いや……。

頭の中で何度も叫ぶのに、声ひとつ上げられない。

胸を露わにされ、スカートを下ろされたその時、彼が小夜子の名前を叫んだ。


「小夜子っ!!」

――もう絶対に耳から離れない、私を呼ぶ声。


今度は彼が殴られて、蹴られて……立ち上がれないくらい痛めつけられて。

「……小夜子に、手を出すな、何でもするから…」


――ああ…なんて美しいんだろう。


彼は頭を地面につけて懇願した。

無慈悲な男たちは、私の目の前で、彼を犯した。


狂ってる、なんで彼なの…?でもほっとしたのを、確かに覚えてる。


私は一瞬たりとも逃すまいと、彼の献身を目に焼き付けた。泣いている顔、震える肢体、恥辱に耐える姿……。

この世のどんなものより美しくて、愛おしい……。


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