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6、プール②

 プールの青い水面がゆらゆらと揺れている。


 火一が黄金を連れてきた。

 アキラは、『さすが火一!』と心の中で拍手を送る。

 黄金を良く思っていないアキラとて仲間外れにするのは寝覚めが悪い。だから輪の中に入らなくても、傍にいてくれたら気まずさが緩和されると思っていた。この近さでいれば、仲間外れの判定は免れる筈だ。


 美音が嬉しそうに「じゃあ遊びますかぁ」と宣言する。

 そして木のように立っていた火一の腕に自らの腕を絡ませ、

「火一君深いところ行こ!」

 と連れて行ってしまった。

 それを茫然と見送って、プールの隅に取り残されたのはアキラと黄金だった。

 アキラは恐る恐る黄金の横顔を盗み見る。表情は相変わらず不機嫌そうで、釣り上がった目は遠ざかっていく火一と美音を恨めしそうに見ていた。


「お、俺らは何する……?」


 アキラは爆弾処理員になった気分で彼女に尋ねた。きっと碌な反応は返ってこないだろう、という諦念を多分に含んだ問いだった。二人の間にはやはり沈黙が落ちた。しかし間を開けて、黄金は小さな口を微かに開いた。


 「アレ、持ってきて」


  低い声で呟き、視線を向けた先を辿ると、壁際に並べられたビート板が見えた。赤、青、黄色、色とりどりのそれは、小学生の頃随分と世話になった記憶がある。懐古に浸っていると、隣に並ぶ黄金が「ねえ」とアキラの脇腹を肘で突いた。


「早く持って来てって言ってるの」


 邪見なもの言いはほとんど命令である。


 ――――火一だったら「分かった」と言って従うだろう。……しかし!俺は違う!


 アキラが自分を鼓舞するための深呼吸をして、「お前が自分で持って来いよ」と言いかけて――……やめたのは、顔を伏せた黄金の前髪の隙間から、悲しい影を湛えた瞳が見えたからだ。ゆらゆらと揺れる青い水面を見ているのかもしれない――もしくは、水の底に映る『見たくないもの』を眺めているのかもしれない。


 アキラにその真意は分からない。ただ珍しく気落ちしているような雰囲気が湿気に混ざって、それを吸い込む自分の胸の中がモヤモヤとした。

 アキラは首の後ろを掻きながら、少々の理不尽に反抗するための咳ばらいをして陸に上がった。身体に纏わりついていた水がザバザバと落ちて、歩くと濡れた轍ができる。

 並んだビート版の前に立ちどれを引き抜こうかと迷ったが、何となく黄色のそれ選んだ。黄金の名に合わせたつもりだが、本人は全く気付かないだろうし、大して似ているというわけでもない。

 それを一つ持ってプールに戻り、アキラの行動を窺っていた黄金に差し出した。


「ほい」

 すると黄金が、ほとんど吐息のような声で、


「………………………………ありがとう」 


 と返した。

 耳を済まなさければ聞き逃してしまうような声量を聞き取れたのは、黄金の目の前にアキラがいて、その口の動きをよく見ていたからだった。濡れて血色のよくなった彼女の唇はひどく煽情的だった。

 いつも横暴なことばかり言う口が礼を言ったことは、アキラに爆発的な衝撃を与えた。アキラは「ウッ」と言って胸を押さえ前のめりになる。ダメージが大きい。


 近付いた水面を伝導して至る所から水の跳ねる音が聞こえた。

 遠くで美音のはしゃぐ声も聞こえる。

 しかし舌打ちの音は目の前で鳴った――。


「何、気持ち悪い。これ使うから」


 黄色いビート板が掠め取られ、アキラははっと我に返った。すでに黄金は浮かべたビート板に上半身を乗せようとしており、ぐっと身体に寄せてピョンとジャンプする。

 ――が、転覆した。


 身体が横側にひっくり返り、激しく飛沫を上げながら浮いたり沈んだりしている。

 アキラは呆気にとられてながら見守っていたが、いつまでも浮いてこない彼女の危険を目の当たりにし、暴れる身体に急いで手を伸ばした。抱き上げた身体は水を纏っていても軽かった。自分の肩口に黄金の顎を乗せさせて、抱き締めたまま背を誘ってやると、激しく咳き込んで乱れた呼吸を繰り返した。


「危なかったなー」


 脱力した黄金の身体を支えながら、アキラが苦笑する。

 黄金は恐怖に震える身体をアキラの胸に押しつけながら鼻を啜った。


「ビート板流れちった」


 アキラが視線を彷徨わせると、それはレーンを区切る浮きに引っ掛かっていた。隣のレーンで平泳ぎをしていた中年男性が見つけて、フリスビーのように投げてくれる。傍に戻ってきたそれを見て、アキラが黄金に「泳ぐ練習する?」と訊くと、黄金は珍しく素直な様子で頷いた。



「え、これに乗りたいって? 普通バタ足の練習からでしょ?」

 

アキラが呆れ顔をすると、黄金は不服そうに唇を尖らせた。

 黄金はビート版に上半身を乗せて浮きたいらしいのだ。

 しかしアキラは「それでさっき溺れたんじゃん」と反対する。


「バタ足なんて疲れるし」

「でも初心者はそこからなんだよ」

「私は泳げるようになりたいんじゃないから」

「じゃあ何しに来たんだよ」

「火一に誘われたから来ただけ。ていうかプールに来たら泳がないとけないの? だったら私帰る」

「だーかーらー、何でそうすぐトゲトゲすんだよ」


 わかったわかった、と言ってアキラは自分と黄金の間にあったビートバンを両手で掴んだ。


「俺押さえてるから乗ってみろよ」


 ビートバンの先にいるアキラを上目で見上げて、黄金は一瞬逡巡するように表情を固めた。しかしすぐに視線を落として、緩慢な動作で黄色い板の上に胸を下ろす。そして足を浮かせると、黄金の希望通りのかたちで水に浮いた。


「よしよし、じゃあ手離すぞ」


 アキラが満足げな笑みを浮かべ、その両手を離す――のを、黄金の手が拒んだ。


「…………離さないで」

「え? 何?」

 黄金の声が小さすぎて、水面の波音に飲まれていく。

「だから――」

 黄金の手がアキラの手を掴む。


「このまま支えてて、……って言ってるの」


 語尾を無くしながら黄金は俯いた。その耳が真っ赤になっているのに気付いて、アキラはいたたまれなくなる。支える、というと簡単に聞こえるが、ビートバンの両脇を掴むアキラの手には黄金の柔らかな胸がたっぷりと乗っているし、至近距離にある濡れた睫毛とつやつやの瞳を見ていると変な気分になってくる。この状況が延々と続くのは、一介の高校生男子には到底堪えられない。


 そういえば先程溺れた黄金を助けたときも、無意識ではあったが身体を密着させて――否、接着させてしまったような気がする。慌てていても、女体の凹凸だけはしっかりと思い出せる自分の記憶力が呪わしい。

 懊悩するアキラの返答を待たず、黄金は足をバタつかせた。塩素の匂いが香り立ち、アキラの顔が飛沫で濡れる。


「おま、ちょ、待てよ」

「ほら行くよ」


 ビートバンに乗った黄金はすいすいと進んでいく。それに押されてアキラも渋々後退していく。手の上にある膨らみ。怪しい動きをすれば手首ごと切り落とされるという妄想に兢々としながら、アキラは黄金の命令の通りに反対岸まで歩を進めた。


 その途中にいた美音が「あれ楽しそ~」と羨ましがり、火一は不快感に堪えるように眉を寄せて二人を見送った。


 終点でようやく足を着いた黄金はふうと息をつく。

 アキラが「楽しかった?」と問うと、黄金は視線を逸らしながらも頭を縦に振った。

 プールの壁に寄り掛かったアキラが、美音に水を掛けられている火一に視線を移すと、火一は心ここに在らずというような棒立ちで美音に対応していた。美音のほうはそのことを気に留めずに楽しそうにしている。彼女はもともと『火一とお近づきになりたい』という理由で同行しているので、これは願ったり叶ったりの状況なのだ。


 隣にいる黄金も二人を見ていた。

 泳いだせいか疲弊していて、それが物憂げにも見えて、アキラは呻りながら高い天井を仰いだ。


 ――――大人しいと可愛いんだけどなあ。


 疲れたから先に上がってる、という黄金を見送って、アキラは美音と火一の遊びに加わった。近くで見た火一は表情には出ずともどこか機嫌が悪そうだった。美音の明るすぎるノリに飽き飽きしたのかもしれない。そう予想したアキラは遊びを早々に切り上げてプールから上がった。


 着替え後にホールで落ち合う約束をして、アキラと火一は更衣室に引き上げた。隣り合って身体を拭きながらたわいもない会話をする。その中で火一が「そっち、楽しそうだったな」と影のある声で言った。羨ましかったのかー、とアキラは思った。

「黄金のやつ、全然泳げないのなー」

 面白がって言うと、火一は「そうか」と返しただけで押し黙った。

 まあ、いつものことなので、とアキラは気にせず着替えを済ませて更衣室を出る。


 広いホールには絨毯が敷いているスペースがあり、そこにある布張りのソファーに座した黄金が、髪を濡らしたまま文庫本を読んでいた。火一とともに近付いて行って「待たせたな」と声を掛ける。


「遅い」

 と眉根を寄せた黄金の頬に水の筋ができた。


 それから、家の近いアキラと美音、火一と黄金が同じバスに乗ることになった。別れ際、美音と火一は連絡先を交換したようだった。

  厚い衣服に包まれたアキラの身体は、季節外れの清涼感と気だるさと僅かなときめきを湛えたままバスに揺られた。いつの間にか睡魔に負けていたようだった。目覚めたときには目的の停留所を越え隣町に入ったところだった。






 二手に別れた後、火一と黄金もまた別のバスに乗っていた。

 空には不気味な赤と闇色が滲んでいる。

 プールと同じ施設内にあったジムや温泉の利用者が詰め込まれたバスの一番後ろの座席で、火一と黄金は肩を寄せ合いながら座っていた。丘の上から右に左に曲がる道路を下り、街に近付くにつれ目印のように立っている街灯の明かりが目につき始める。


 黄金は次の停留所で下りる。

 あまりに静かなので寝ているのではと懸念し、火一が彼女の肩に手の乗せると、瞼は開いているが現実を見ていないような目が火一を見た。黄金の濡れたままの髪から落ちた水滴が、彼女のコートの肩をしとどに濡らしている。湿った髪から香るシャンプーの甘さ。


「なあ」


 火一が黄金と視線を絡める。

 夕陽を浴びた黄金の横顔がこちらを向く。

 火一の胸の中には夕陽よりも混沌とした炎が灯っていた。

 火一は黄金の手首を掴み、手錠のように繋ぎとめると、


「髪、乾かしてやるよ」


 と凪いだ低音を注いだ。

 赤く染まった車内には、降車ボタンの音が響き渡った。


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