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5、プール①

「あー! 最高っ!」


 藤波アキラが発した歓喜の叫びは青い水面を飛んで行った。

 レーン分けされた屋内プールの端で、彼を含めた四人の男女が戯れている。正しくは、はしゃぐアキラを眺める二人と、少し離れたところでポツンと棒立ちになっている一人だ。


「おいおい皆も泳ごうぜ!」


 声を掛けられ遠野火一は、アキラが連れてきた――アキラが言うには無理矢理ついてきた――別クラスのの女子、桜庭美音さくらばみおんに視線を送り、彼女が困ったように微笑むのを確認して首を横に振った。


「んだよ、せっかく来たんだから楽しめよー。夏のぶん取り返そうぜ」


 プールに足をつけて、瞬時にスイムキャップまで濡らしたアキラがぷうと頬を膨らませる。


 十一月初旬、長袖を重ね着するのがデフォルトとなったこの時期に「夏に戻りたい」とぼやき始めたのはアキラだった。


「俺、夏休み中ずっとへばってて何も出来なかった」


 数日前の昼休み、難しい顔をしたアキラは目の前の火一ではなく、木枯らしの吹く曇天を見つめながら物憂い顔で呟いた。


「恋しい……暑い季節が。陽の眩しさが。冷たい水を浴びる喜びが」


 火一は相槌を打たなかった。

 アキラもそれを求めているわけでは無いのだった。

 彼はただただ訴えたいのだ。


「プールに入りたいなあ」


 そう、それだけの願いを、アキラは火一に伝えたかった。


「このくそ寒い時期にか?」


 火一が呆れたように片眉を上げる。


 問われたアキラは、きらきらと期待を込めた瞳を火一に向け、

「寒く無いなら一緒に行ってくれる?」

 と声を弾ませた。


 それを見た火一は、自分が失言をしたことを察し嫌な顔を浮かべた。アキラは火一の返事を待たず、勢いよく両手で机を叩きながら立ち上がり「俺らには……」と言葉を言葉を区切った。


「一年中オープンしている市営プールがあるじゃないかっ!」


 高らかに叫んだ声は、教室内の四方の壁に跳ね返り、吸収されていった。昼食とお喋りに夢中なクラスメイトには誰一人にも届いていない。火一だけが目を瞠っていた。彼は『何故、今更になって碌でもないことを思い出し、人を巻き込もうとしているのか』という迷惑げな顔で固まっていた。


「というわけで、今週の土曜日プールに集合します」


 アキラは椅子に腰を下ろしながら満面の笑みで約束を取りつけようとしたが、火一が「待て」と低い声を出した。


「俺は行かないぞ」

「何でだよ。行きたくないの? プール。温水だよ?」

「季節外れにいきなり誘われて泳ぐテンションになるほうがおかしい」

「別に泳がなくてもさ、浸かるだけでいいじゃん。身構えんなって。俺について来るだけでいいからさ」

「一人で行けよ」

「それは寂しいだろ!」


 南国リゾートに行く気分のアキラに押しに押され、結局火一は断りきれず二十五メートルプールに浸かるはめになった。しかし、それでだけならまだマシだった。重ねてアキラはこう熱望した。


「女子も誘おうぜっ!」


 ――――馬鹿か?


 火一は思いきり顔を顰めた。筈だったが、感情が表情に乗らない性質が禍して、アキラは火一もその提案に賛成したものと誤解し話を進めた。



 その結果引き摺りだされたのが、明らかに不機嫌な表情の佐藤黄金と、アキラの幼馴染だという美音であった。


「ごめんねえ。火一君、アキラに無理矢理連れて来られたんでしょ? たまに突拍子も無いこというよねえあの人」


 傍でゴーグルと前髪の具合を直す美音が、垂れ目がちの目を細めて言った。ふっくらと厚めの唇を小鳥のように突き出して「迷惑だよねえ」とややのんびりとした口調で続ける。

 胸のあたりまで水に埋もれた、白地に真っ赤なハイビスカス模様のワンピース水着が水中で蜃気楼のように揺れている。ダイエット目的で泳いでいると思われる中年男性の視線を美音の前に立ちはだかって遮りながら、火一は何度目かも分からない溜息を吐いた。


 アキラが、決して上手くないクロールで水を掻き分けて進んで行くのを茫然と見ていた。バタ足が必要以上に飛沫を撒き散らす。プールの中ほどに、黄金が佇んでいた。その目の前をアキラが通る。ザブザブと激しい音と波を立てながら、彼女の前を――通り過ぎる。


「あーあ」


 美音が呆れたように、しかしどこか楽しそうな声を出した。

 火一は指の関節で目頭を押さえ、起こった事態を見なかったことにするために目を伏せた。


「ってえ! 何すんだよ!」


 突然溺れたように藻掻き、どうにか立ち上がって悲鳴を上げたのはアキラだった。声は震え、頭頂部を擦りながら泣きそうな顔をしている。

 大声を向けられた黄金は右手に作った拳に視線を落とし、そしてアキラをねめつけて「水が飛んできた」と地を這うような声で言った。


「そりゃ泳いでるんだから飛ぶだろ普通! 殴ることあるかよ!」

「フラフラ泳いでるからでしょ。 下手なくせに」

「へ、下手……っ!?」

「何でもいいから私の近くに来ないで。あっちにいるお友達と楽しく遊んでればいいでしょ」


 あーあ、と再び美音が呟いた。

 十メートルほども離れたところにいても、火一には二人の――黄金の押し殺した声が何を言っているのか予想がついた。そしてアキラが怒りと悲しみに身を震わせている様子を見て逡巡していた。


 面倒だが、仲介に入ったほうが事は早く収まるか。否か――――。

 無表情で考え込んでいると、隣にいた美音が向こう側に手を振った。


「おーいアキラ―、こっちで遊ぼー。黄金さん一人のほうがいいんでしょー?」


 蜜のように甘い声が水を超えてアキラに届く。アキラは一瞬むっとして、しかし思い直したように火一と美音のもとに戻って来た。


「アキラわんわん偉いねえ」


 美音がアキラの頭を撫でる。

 アキラは自分を癒すように頭を撫でながら、


「やめろって、痛いから」


 と鼻を啜った。


 二人の明るいやり取りに安堵しながら、火一は離れた先に残された黄金を見ていた。プールの端に立ち、両手で水を掬っては落とし、また掬う。

 ガラス張りの壁から差し込む柔らかな日差しが黄金の白い肌を照らし、その白さを一層明るく見せる。対照的に、華奢な身体を包むスクール水着が濡れて濃く水面に透ける。


 アキラと美音が悪態をつきながらはしゃぎ始めても、火一は黄金から目を離せなかった。

 同じ空間にいて同じ水に浸かっているのに、彼女はひどく孤独に見えた。

 火一は腹まであるプールの水を切りながら黄金に近付くと、おもむろに両手の盃で水を掴まえ、それを不思議そうに眺めていた彼女の頭上に注いだ。


「…………っ」


 乾いていたスイムキャップが、長い睫毛が、白皙の頬が、しっとりと濡れる。

 細い肩がびくっと跳ね、柔らかそうな二の腕に鳥肌が立ったのが分かった。

 びしょ濡れになった顔を拭いながら恨めしそうな目を向ける黄金に、火一が表情を変えずに言う。


「こういうところ嫌いじゃないだろ? 一緒に入ると風呂も長いし」


 聞いた黄金は苛立たしげに奥歯を噛み締め、火一のサーフパンツの腰紐を引っ張った。


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