4、二人きり
毎度考える。『暇潰しに来い』というのは命令なのか誘いなのか、と。
そんなことを、遠野火一は佐藤黄金の住処であるアパートを目指しながらぼんやりと思考していた。
連絡が入った時、火一は自室で試験対策に励んでいた為、決して『暇』では無かった筈である。
しかし今この歩みを進めているのは、素っ気無い六文字にどこか重い哀愁を感じたから――だ。
黄金は高校では『暴君』とうあだ名の通りの振る舞いをする女子で、火一は最もその被害にあっている同級の男子である。黄金の我儘を発端とした命令を逐一きいている、というだけで周囲からは黄金の『しもべ』と噂されているらしいが、火一にはあまり自覚が無い。何故なら迷惑でも嫌でも無いのである。別に暴力を振るわれているわけでも、尊厳を傷つけられているわけでも無い。ただ、ああしろこうしろと、大して強制力の無い『命令』をきいているだけだ。
秋と冬の間の風は、体温の高い火一には涼しく心地良い。
アパートの外階段を上ると、食材の入っているレジ袋がカサカサと揺れる。
大家によって手入れのされている花壇は夏にはヒマワリが咲き、その隣ではキュウリやトマトなどの夏野菜が実っていた。しかし実りの時期が過ぎた今では全ての根が抜き去られ、土だけがこんもりと盛られている。
黄金のアパートに初めて来たのは、親切な大家から大量の野菜を貰ったから消費するのを手伝え、と『命令』された時だった。火一は別段野菜好きということも無かったが、黄金が困っているのを察して炎天下の中指定された住所へ足を向けたのであった。聞いていた通り、瑞々しい野菜は一人では食べきれないほどあった。
「料理は得意じゃない」
と彼女は言った。
その言葉を体現するように、興味本位で覗いた冷蔵庫に入っていたのは無糖の炭酸水とイチゴジャムだけだった。
だから火一は「野菜は嫌いか」と尋ねた。
黄金は「そういうわけじゃないけど」とばつが悪そうに答えた。
それから月に一度ほど、黄金の号令が掛かった時にだけ料理をしに来ている。
たいていが今回のように、横柄な言葉で呼び出される。
それでも火一は気分を害すことは無かった。
そういうものだと、既に慣れてしまっていた。――友人の藤波アキラなどから言わせれば「洗脳されている」ということらしいが――。
踏む度に音が鳴る外廊下を最奥まで歩く。
205号室と表示のある薄いドア。
立ち止まると、部屋の中から擦るような足音が聞こえ、ドアの前で止まったのが分かった。
火一は気付きながらもインターホンを鳴らす。一、二、拍数える。
開錠の音が聞こえドアが開くと、白いシャツに灰色のパーカーを着た黄金が、不機嫌そうな顔で、
「遅いんだけど」
と火一を睨んだ。
ドアを挟んだまま火一はレジ袋を掲げ、
「何か食べたいんだろ?」
と感情を出さずに返す。
「そんなわけじゃないけど」
「じゃあどんなわけで呼んだんだ」
「――――……暇だったから」
「俺も暇だったから来た。暇潰しするから台所を貸せ」
火一が言うと、黄金は言葉を詰まらせぐいとドアを押した。
「とりあえず入れば。このままだと私が寒い」
開いたドアから黄金の下半身が見えた。足の大部分を無防備に晒すような丈の短パンに眩暈がする。
暑い時期にも履いていたそれはアップデートされずに今まできてしまったらしい。しかし「もっと温かいものを着たほうがいい」という助言は喉の奥へ押し込んだ。黄金は、他人にそんなことを言われて素直にきくような人間では無い。
火一は招かれるまま黙然と部屋へ入った。
廊下の奥に、11畳のダイニング兼リビングがある。
火一は真っ先に、カウンターキッチンにある単身用の冷蔵庫に買って来た食材を詰め込んだ。相変わらず中は閑散としていて、今日に至ってはジャムも無い。一体どういう食生活を送っているのかいつも気になるのだが、それもまた火一は訊かないのだった。そういう関係で無いことはよく理解していたし、弁えていた。
「それ取って」
と黄金がコップを二つ用意しながら火一に手を伸ばした。
彼が覗いている冷蔵庫の中で『それ』らしきものは炭酸水のペットボトルしか無い。
手渡すと、黄金はコップに注いで再び火一に返した。
「座ってよ」
黄金が先に二人掛けのソファーに座す。
火一がフローリングの上に腰を下ろすと、彼女は何事も無かったかのようにスマホを弄り始めた。
午後の早い時間に来た筈が、そのまま無為に十五時まで過ごしていた。
気付いて、火一は漸くスマホのゲーム画面から顔を上げ、三角座りをしている黄金を見た。
暖房のついていない部屋で露わになっている両足はやはり寒々しく、黄金自身もその感覚はあるのか足を抱くように身体を縮めていた。
火一は、黄金といるときの静寂が嫌いじゃない。
だから、黄金に話し掛けられない限り、火一から積極的に話す気も無い。
しかし、彼女の足首があまりに細いのが目につき、つい尋ねてしまった。
「お前、めしは?」
黄金はこういう質問を嫌がる。
はぐらかされるだろうと火一は思った。
しかし彼女は掠れた声で「まだ」と答えた。
「朝から?」と訊くと、険のある目をしながらうんと頷く。
それを聞いた火一は無言で立ち上がり、キッチンの中に入った。
前回訪れた時からほとんど減っていない米を洗い、炊飯器にセットする。
そしてまな板や包丁を準備し、冷蔵庫から出した食材を適当な大きさに切った。肉と野菜を鍋で炒め、白滝と煮汁を入れて落し蓋代わりのアルミホイルを被せればあとは待つだけだ。至極簡単。
甘辛い匂いが室内に充満する。
それに釣られたように、気付けば背後に黄金が来ていた。
振り返れば、火一よりも30センチも低いところにある彼女のつむじが見える。
「何作ってるの?」
黄金が火一の巨体越しに鍋を眺める。
「肉じゃが。嫌いか?」
火一が尋ねると、黄金は小ぶりな頭を左右に振り「好き」と答えた。
そして、
「いい匂い」
と犬のように息を吸う。
火一が鍋の様子を窺おうとコンロのほうに視線を落とすと、背後の気配が――否、実体が――腰に巻きついてきた。
「……フローラル系」
見れば、黄金の腕が火一の腹に絡みついていた。
彼女の顔は背中に埋まっていて見えない。
坦々と深呼吸を繰り返す黄金に、火一は身体を捻って「おい」と低い声を出した。
「こっちじゃないのか」
鍋を指差す。
黄金はからかうように目を細めた。
後ろから抱き締められていると、どうあがいても彼女の身体の輪郭に触れる。布越しでも分かる柔らかな膨らみ、ふわふわとした皮膚の感触、淡いぬくもり。「いい匂い」と寄ってきた黄金のシャンプーやボディーソープの香りこそ上等なものに思えた。
すうと黄金が息を吸う。寝息のような、ひどく平静とした音。
火一は黄金の腕の中でぐるりと後ろに向き直り、彼女を正面から見下ろした。そして彼女を優しく抱き締め返した。黄金はやはり、火一の胸で深い呼吸を続けていた。
「どこにでも売ってる洗剤だと思うぞ」
火一が落ち着いた声を降らせると、黄金は上目に彼を見て、まるで彼が頓珍漢なことを言ったことを不思議がるように何度か瞬きをした。
そして懐いた猫のように、火一の胸に額を擦り付けた。
その態度を受け、火一はコンロを背にしたまま黄金と視線を合わせるように下を向く。
黄金の頬を両手で包み自分のほうを向かせると、唇を合わせる直前、彼女が静かに目を閉じたのが見えた。
黄金の薄い皮膚を啄んでいると、火一を受け入れるように血色のいい唇が開いてゆく。鼻先があたらないように首を傾けて舌を差し入れると、黄金の口から吐息が漏れた。
「う、…………ん……」
炭酸水で冷えた口内を弄る。
くちゅくちゅと粘液の混ざる音がした。
「ひ……いち」
黄金が息継ぎの合間に彼を呼ぶ。
火一が熱い舌で黄金の敏感な粘膜を撫でると泣きそうに喘いだ。
「や、もう……あぁ…………っ」
黄金の身体がびくびくと震える。甘い嬌声が耳孔で響く。
傍らでは鍋の中で煮汁が沸いて、くつくつと音を立てている。
「……だ、めっ……。…………からだ、せつなくなっちゃう、から……」
「別に、俺は――――」
「でも……いまは、やだ………っ」
息も絶え絶えに話す黄金の唇がふやけるくらいにキスをして、火一は顔を離した。
そしてすぐ後ろを振り返り、コンロの火を消す。
「…………もう食べれるぞ」
火一が顔を背けたまま言うと、黄金は肩で息をしながら「後で」と頬を染めながら呟いた。
「今はおなか鳴りそうだから、……食べた後でならいいよ」
火一は黄金の食事を大人しく待った。
しかし満腹になった彼女はそのまま眠り、火一は甲斐甲斐しくもベッドに運んでそのまま帰宅した。
「どうして帰ったの」
「寝てたから」
「……約束破った」
「約束なんかしてないだろ」
「した」
「してない」
「………………」
「また呼べよ」
月曜日、彼女はまた暴君へ戻る。