2、彫刻刀
高校に入って美術と音楽が選択教科になった。
アキラは迷うことなく美術を選び、入学してからの友人である遠野火一もまた同じ選択をしていた。「歌うのはちょっとなー」 アキラが瞼を半分だけ下ろして片頬を引き吊らせると、火一も同意しながら逞しい体躯を一瞬だけ脱力させて溜息をついた。
歌ったり鳴らしたり、ということへの抵抗感がより強い、というだけで、美術的なことへの好意があるわけでは無いのだ。消去法で美術を選んだというだけで、もともと答えのないものへは興味も関心も無い。
その辺りは火一も、友人である藤波アキラも一致しており、こういう細かいところの考え方の一致が正反対の性格でも友人を続けられるポイントなのかもしれない。
生徒たちがぞろぞろと別棟を歩く。
その流れに乗りながら、アキラは周囲に視線を巡らせた。二クラスぶんの行列の中に小さな頭を探す。大した理由があるわけでは無いが、何となく気になる女子がいる。埋もれるほどの人込みでは無いが、目当ての人物はどこにもいない。
キョロキョロしていると、隣を歩いていた火一が唐突に立ち止まった。廊下の真ん中にそびえる大木のような男を分岐点にして、生徒たちが不審そうな顔で二股に割れながら進んでいく。
おいおい邪魔になってるよ、とアキラが火一の学ランの袖を引こうとしたとき、二人の目前に現れたのは目当ての女子――佐藤黄金だった。
「邪魔なんだけど」
灰色のカーディガンのポケットに両手を入れたまま火一をねめつける小柄な黄金が、アキラには熊を威嚇する子猫に見える。
暫く睨み合い、無表情のまま「悪い」と呟いた火一は、避けるかと思いきや動かなかった。おいおい、そこは避けろよ。
黄金の舌打ちをして怒りの含んだ上目を向ける。
アキラは二人の険悪な空気を読み取り、火一の腕を掴んで美術室まで早急に逃亡した。火一は不満そうな雰囲気を醸しながらアキラに引かれて絵具臭い教室に入る。
隣同士で空いている席に腰を落ち着け、火一がぼーっと吹雪く景色を眺めている間、アキラは教室の後ろのドアを振り返りながら落ち着かない気持ちで彼女を――黄金を待っていた。
教室と逆方向に向かっていた彼女が待てど暮らせど来ないのだ。
あいつもしや音楽を選んだのか?あの恐ろしいほど協調性と愛想の無い奴が人前で歌を歌ったり太鼓を叩いたりできるのか?え、嘘だろ?
アキラが困惑していると、廊下から「ほらほら始まるわよお!」と活きのよさそうな女性の声が響いた。残響が消える前に前方のドアが勢いよく開く。入ってきたのは派手な格好の中年教師、美術担当の花坂先生だった。きついパーマをかけた髪を掻き上げて、真っピンクに塗った唇を弓なりにしならせる。「伊藤さーん!早くおいでー!」 オペラ歌手のような声に、皆がひそかに笑う。
声だけ聞くと音楽担当と遜色無い。しかし絵を書くのも抜群に上手い、マルチな才能を持つスーパーオバチャンである。
花坂先生が廊下側の窓ガラスに向かって手招きをする。彼女からは見ているのかもしれないが、後ろの席に座っているアキラからはイトウサンの姿は見えなかった。
アキラはやはり落ち着かない気持ちでドアが開くのを待った。
やがて乾いた音を立てて開いた後方のドアからは、体調でも悪いのかと疑いたくなるほど気だるげな黄金がだらだらとやってきた。
最前列に空席があるのに、わざわざロッカーのほうに積まれていた机を崩して最後尾に座る。投げ出した足は肌色の部分が多くて、見ているアキラのほうが肌寒さに震えそうになった。
週に一回の授業でしか使わない美術室のエアコンは古い型で、作動させたばかりで少しも温かくない。黄金の青白い肌を気の毒に思ったとき、花坂先生が二度手を叩いて快活に授業を始めた。
いや、先週粘土だったじゃん、予告無しに彫刻刀とか使う?
ゴム版に下描きをした犬の絵を彫刻刀で掘りながら、アキラは不可解さに難しい顔をしていた。隣では火一が坦々と作業をこなしている。
火一の描いたあれは何だ?猫か?信じられないほど不細工な動物?……を掘っている。アキラは彼の美的センスを疑いながら自分の絵を見た。
犬……だ、ぞ。
生徒たちは文句を言いながらも、小学生以来の彫刻刀にはしゃいでいるようだった。「こわーい」「間違えたー」「難しー」と騒ぐのは女子で、「これで机に何か書いたらおもしろくね?」と悪戯心を出すのは男子だ。アキラはどちらのテンションにもなれず、たまに火一の横顔を見ながら、アーティスティックな黒線を直角の刃でなぞっていた。
授業も半分が過ぎた頃。
カラン……、と物が落ちる音が聞こえてアキラは振り返った。
最後尾の机の下に彫刻刀が一本落ちている。
その机に座しているのは黄金だ。
どこか寂しそうな目をして俯き、開いたままの左手をぼんやりと見下ろしている。
宇宙人と交信でもしてるのか……?
固まったままの彼女の様子を訝しんでいると、黄金がその手をぎゅっと握り、膝の上に押し付けた。そして右手を床に落ちた彫刻刀に伸ばす。
刹那、隣で黒いものが動いた。
椅子を引いて立ち上がり、黄金の前で屈んだ火一が、彼女より先に彫刻刀を拾い机に戻す。そして他の生徒の傍にいた花坂先生に向かって手を上げて「保健室行ってきます」と平時通りの低い声で言った。
「あらあら大変、切っちゃったのね。いってらっしゃい」
先生は眉尻を下げ心配そうな口調で返すが、どこか言い慣れているような様子だ。恐らく彫刻刀での負傷者は少なくないのだろう。
滞りなく退場を促された。
黄金の腕を引き立たせた火一は最短距離の導線を辿り、彼女を美術室の外に連れて行った。そして何故かアキラもそれに続いた。彫刻刀より好奇心が勝ったのだ。一瞬目が合い、気付きながらも見逃す花坂先生の大らかさに感謝のウィンクを送る。
「さあさあ、続けましょう」
高らかに叫ぶ先生の声に背中を押されながらドアを閉めた。
黄金と火一は無言で保健室まで歩いて行った。
その三歩後ろをついて行くくアキラも何となく言葉を発せず、気付けば養護教諭のいない保健室に辿り着いていた。
黄金が丸椅子に座り、寡黙な火一に絆創膏を巻かれる。
彼女はそれまで火一にされるがまま大人しくしていたのに、アキラが傍に行くと棘の生えた言葉を向けた。
「アンタ何で着いて来たの?」
「俺は火一に着いてきたの」
「ああそう。じゃあもういいから。二人と授業に戻れば」
動物を追い払うようにしっしと振った黄金の手に、突然赤い筋が流れた。何枚か重ねて巻いた絆創膏には血が飽和していて、緩んだ隙間からたらたらと滑り落ちている。掌がみるみる鮮血で染まっていく光景を目前で見たアキラは、ぎゃーっ!と飛び上がった。
「お、おまっ、血ぃ止まってねえじゃん!」
黄金は美術室でしていたようにじっとその手を見つめた。金縛りにあったようにいつまでもそうしているので、アキラは狼狽を通り過ぎて心配になった。
窓の外では雪の勢いが止み、室内は無機質で暗く寂寞としている。しんと黙った二人の無言が恐ろしく、アキラは動揺し、助けを求めるように火一に視線を投げた。
「黄金」
掠れた声が彼女を呼ぶ。
火一は椅子に座った黄金の前に跪いて、血塗れの手を優しく開かせ、指の先から根本までを濡れタオルで拭き始めた。
中指の抉れた傷に消毒液を含ませた綿球を近づける。
途中、黄金が唇を嚙むことを失敗してほろ甘い吐息を漏らし、か弱い小動物のように身を震わせると、火一は一旦手を止め、しかし様子を窺いながらも意地悪く無意味に嬲るように処置を続けた。
柔道部の硬く大きな手が、繊細な手つきで彼女を癒していく。
ん、ん……っ。
時折上がる鼻に掛かった声に、アキラの身体が熱くなる。
変な気分になってしまう自分を叱咤する。
相手は暴君だし、これが終わればどうせまた素っ気無い態度をされ暴言を吐かれるんだ。分かっているのに、今この時、アキラは確かに欲情していた。自分はこのざまだ。では朴訥男、火一はどうだろう。
興味のまま横から彼を観察する。
火一は慣れた手つきで小枝のような指にぶ厚いガーゼを当てていた。そして、その指を支えながらくるくると包帯を巻いていく。相変わらず愛想が無い。数学の授業を受けているときと同じ顔をしている。
対して、されるがままの黄金も平素通り不機嫌そうな顔をしていた。
感謝の気持ちなど微塵も抱いて無さそうだが、それでも「痛い」と泣かれるよりはマシだとアキラは思った。
多分、その深い傷は結構、……痛いのだろうし。
「もういいぞ」
言いながら立ち上がった火一が、備え付けの水道で汚れた手を洗う。
黄金も椅子から腰を上げ、おもむろにゴミ箱の前に行くと、着ていたカーディガンを何の躊躇いもなくそこに落とした。
確かにめっちゃ血ついてたけど!
とアキラが動転して口をパクパクしていると、察した黄金が「何か文句ある?」と眉根を皺を深くした。険のある態度を取られても、寒そうに二の腕を擦る黄金の仕草に庇護欲を刺激されるのは火一のせいだコノヤロー。
アキラがどう対応していいか頭を抱えていると、
「黄金」
と、落ち着いた低音が再び彼女に近づいて行った。
火一の身を離れた紺色の翼が柔らかく広がり、黄金の頭に落ちるのをアキラは見た。
「返すのはいつでもいいから」
火一のカーディガンが黄金を頭から包んで、まるで何かの妖怪みたいだ。 その小さな妖怪は、自分よりずっと高い位置にある火一の顔を上目遣いに見上げ、長い睫毛を瞬かせて、そして――――……何も言わず、表情も変えずに頷いた。
戻るぞ、と火一に言われアキラは彼とともに保健室を出た。
後ろ手にドアを閉めたときに見た黄金の頬がチークを塗ったように染まっていたように見えたが確証はない。
「黄金は?」
大股の火一の歩みに、アキラが速足でついて行く。
「勝手に戻ってくるだろ」
火一は何事も無いように返す。
アキラはうーんと顎に手を乗せて、考えたことを素直に言った。
「何か黄金と火一ってさー、…………いとこ? みたいな関係?」
「……お前たまに馬鹿になるよな」
美術室に残っていたのはにこやかな花坂先生だけだった。
重ねたゴム版の一番上に、学生服ぽいものを着た不細工な熊の絵があったが、誰が描いたのかは知らないままでいようとアキラは思った。
黄金の包帯は一週間ほども巻かれていた。
…………多分、あの時から替えていない。