婚約者は焔の織り手
『婚約者は蛇の貴公子』『婚約者は土の王様』に続くシリーズ第三弾。
先に『蛇の貴公子』をお読みいただけると世界観や登場人物も分かりやすいかと。
今回は蜘蛛、がんばります。蜘蛛注意です。エリカも出番が多いです。
いささかセクハラ発言と身体の一部の先天的状態への言及があります。
気持ち的にR12くらいで。
「あの娘は頭も良いし器量も良い。勿体ないことだ」
「あれでは嫁に出すのも婿を取るのも厳しいでしょう」
「やはり神殿に……」
「女学院は出さないと世間体が……」
「なんと哀れな」
「殿方の目に触れないように育てねばなりませんわね」
「ああ。婚姻の申し込みを受けるわけにはいかないからな」
「離縁されればあの娘も傷つきますし、家名にも……」
私が眠っていると思ってか、枕元で両親の会話が聞こえる。幼い頃は眠くて意味もよく分からなかったが、年齢と共に理解していく。それ程何度も何年も繰り返された会話から伝わって来るのは愛情と、政略の駒として使えない事を惜しむ感情。貴族の娘として生まれながらその責務も果たせないのだと嫌でも教え込まれたようなものだった。
自分は普通の貴族の娘とは違うのだ。期待してはいけない。全てをヴェールに包んでひっそりと生きるしかないのだから。邸の奥に隠されるように育って、それでも愛情も教育も与えてくれた両親に報いるために。私が負うはずだった責務を受け継ぐことになった妹たちに償うためにも。
「イリス先輩! 匿ってください!」
声と同時にベランダから飛び込んでくるのは、女学院の後輩であるエリカ・フォーレ。
「あなたはまた、そんなところから出入りして……」
「だって皆さま、しつこいんですよ!」
下級貴族の子爵令嬢であるエリカと、伯爵家の娘である私に、本来は縁なぞないはずだった。派閥や寄り親も違う。家同士の付き合いもない。女学院のとある授業で組み、それ以来彼女は何故か私に懐いて、気軽に部屋にも遊びに来るようになったのだ。
「まあ、よいでしょう。せっかくだからお茶に付き合ってちょうだい」
「ありがとうございます! 喉かわいてたんです」
「木を伝ってくるようなことをするからでしょう」
呆れたように小言を口にしても、当のエリカが気にしないことはもう分かっている。私のあれを知っても態度の変わらない彼女の存在は、私に喧噪とそして温かさをもたらした。
貴族令嬢を守り教育する女学院は全寮制。すべての貴族家の娘と国に届けられている者には入学義務がある。学年で、位階で、教育内容に多少の差異はあれど、十五から十八の娘ばかりが過ごす女学院は、常に姦しい場所でもある。淑女教育もしっかりされるとはいえ、それは私生活にまで踏み込むほどではない。そして情報は貴族の力。噂話は学院内を駆け巡る。
現在、エリカ・フォーレはその噂話の主役と言ってもいい。
王家に次ぐ地位とされる四家ある神公家の跡取りである令息たちには、婚約者がいないことで有名だった。
「神公家は政略結婚の埒外」
上位貴族の中でそれは常識として知られている。かの令息たちの婚姻は人の思惑では決められない。例え王命であろうとも。神の子孫である彼らの婚姻は神に認められねばならないからだ。それがどこまで本当なのかは定かではないが、この国で生きていれば神の恩恵を感じずにはいられない。神話は決して遠いものではなかった。
そしてエリカは下位貴族の娘ながら、神公家の嫡男に望まれて婚約したという。最初は相手を隠していたが、友人と別の神公家の縁談をまとめてしまったことで発覚した。
渦中の男爵令嬢は控えめで目立たないような娘だったが、彼女を毎夜訪れる神公家の公子の熱愛ぶりに、もしや自分にも可能性があるのではと、婚約者のいない者、いても更に上を目指したい者たちが夢を見てしまった。そんな彼女たちが実績ある窓口としてエリカに押し寄せるのは、まあ見えた結果ではあった。何せ、まだお相手のいない公子はあと二人いる。
「私が紹介したからって、うまくいくとは、いえ申し訳ないけど多分無理です。私だって紹介できるならしますけど、普通の令嬢だと破談確実なので!」
子爵家の娘という立場でしかないが、エリカははっきり物を言える子だった。それに眉を顰めるものもいるが、卒業して婚姻すれば彼女の立場はここの生徒の誰よりも上になる。それが分かっているから誰にも咎められないでいた。
「どなたか適当に紹介してお茶を濁しておけばよいのに」
侍女に命じて用意されたお茶を楽しみながら、さすがに女学院中を巻き込む騒ぎに辟易としていたので、事態を早く収束しろという意味を込めて助言をしてみた。
「最初から無駄だって分かってるのにできませんよ。オリーブでさえ結構ギリギリだったのに。紹介してその場で破綻とか、あちらにも失礼ですし。第一と第四からくださるお菓子の分くらいは私だって報いたいですしね」
さらっと賄賂の存在をほのめかしながら、あっけらかんと話す彼女は屈託がない。賄賂がお菓子なのは高価なドレスや宝石よりも微笑ましい部類だろう。そう言うと。
「ドレスや宝石を私に贈るのはユーゴ様とお義母様が、ご自分たちの権利だからって譲られなくて。別に私はそういったものが特に欲しいわけでもないし。まあお菓子が妥当かなと折り合いのついた形ですね。
外からじゃまったく分からなかったんですけど、内に入ってみれば神公家の嫁取り問題って相当困難で重要だと分かりまして。私も候補者探しに協力しようって気にもなります。それに丁度お相手になりそうなご令嬢方を一番観察できる立場にいますしね」
美味しそうにお茶のおかわりまで飲み干したエリカは、感情の表出を抑える貴族の中でやっていけるのか心配になる。
「私にそんなことまで話してしまってよいの?」
「本当のことですもん。それに私が見る限り、この学院の中で候補になれそうなのってイリス先輩くらいですし」
唐突に爆弾が落とされた。まさかの私に。
私の名はイリス。女学院三年目になったばかりの十七歳。ボナール伯爵家の長女である。しかし生まれつき問題があるとして、ずっと家中深くで育てられた。初孫に浮かれた祖父が早々に国に届け出てしまったため、私には貴族籍がある。そして十五になれば女学院に入学する義務もあった。でなければ、死産の扱いで公にされずそのまま死ぬまで家に閉じ込められたかもしれない。いや、きっとそうだろう。
「あなたも知っているでしょう。私にあれがある限り、結婚など望むべくもないことを」
「病気でも呪いでもないのに酷い話ですよね。でもまあ、普通の貴族に嫁ぐのは難しくても、神公家ならいけますよ」
「とてもそうは思えないわ。神公家の公子様方は、皆さま評判がよろしくて、私など相手にもならないもの」
「ご本人さまたちは、まあ、それなりで。でも問題があるからお相手がいないんです。というわけで。イリス先輩、お見合いしてみませんか。そうだなあ、アントワーヌ様がいいかな」
「アントワーヌ様というと」
「第四神公家アレニエ家のご子息です。ちょっと癖のある方ですけど、見目はいいです、見目は」
「勝手な事を言うものではないわ。私のような女を押し付けてはご迷惑というものよ」
「イリス先輩は自己評価が低すぎます。この女学院の中でも一二を争う美貌に、私みたいな無礼な小娘にまでお優しい。学業の成績も素晴らしいと聞いています。もっと自信を持ってください」
「家でも私のことは諦めているのよ。こうして外で暮らせるのも女学院にいる間だけ。卒業すればまた家の奥で過ごすか神殿に入るしかない私が、自信を持てるわけもないでしょう」
この子は何を言い出すのかと、いささか呆れながら嗜める。誉めてくれているのは分かるのだが、それに自信を持つ以上に私には抱えているものがあると、知っているはずなのに。
けれどお菓子をつまんだあと、彼女は改まった表情で私の目をまっすぐ見つめてきた。
「はっきり言いますね。お見合いというか顔合わせさえできれば、イリス先輩の場合、勝ちです」
「あなたのその自信はどこからくるのかしら」
「経験と観察の結果です! そもそも、気に入られるべきなのはアントワーヌ様よりも別の方ですしね!」
「それはご家族とかなのかしら」
「まあ、ご家族の範疇だと思います。そちらに気に入られさえすればアントワーヌ様も逆らえませんし」
「神公家とて貴族のうち。ご当主様の命には逆らえないということ?」
「そう思っててくださってもいいですよ」
「でもそれでは、少し寂しいわね」
私とて。いえ私だからこそ。結婚に憧れがあった。妹たちが持ってきて読ませてくれたような恋物語まではさすがに厳しくとも、政略であっても縁あって結ばれたならば愛情を育てることはできるはずだと思う。現に、我が家の両親はそれに成功した口である。けれどそれが外れを押し付けられたのならば。最初から躓いてしまうに違いない。
「んー、でもまあ、次期様たち、繋がって同調してるみたいだから問題ないです。
それより大事なのはイリス先輩の意思ですね。私の見る限りすっごく我慢して、すっごく抑えてられるけれど、このまま女学院を卒業して元の生活に戻るの、本当は嫌なんですよね」
「あなた、何を言い出すの」
「家族と、あとは侍女くらいとしか顔を合わせないように閉じ込められる。女学院でそれなりにご学友と交流することを知った後じゃあ、息が詰まるでしょうねえ。その証拠に、長期休暇でも寮に残っておられたでしょう?」
「それは、うちの領地が遠くて……」
「いや、オリーブのとこの方がもっと遠いですから。帰りたくなかったんでしょう? 少しでも今の自由を手放したくなかったから」
夏と冬、そして春の長期休暇。私はたしかに理由をつけては帰らないでいた。私以外にも寮に残るものはいる。理由はそれぞれであっても、女学院は生徒を守る場所。帰りたくないのであれば帰らなくてもよいと認めてくれるのだ。
両親や妹たちは慕わしい。けれどあの家には。せめて在学期間には戻りたくはなかった。それをエリカに悟られていたとは思いも寄らなかったけれど。生徒を観察していたというのは伊達ではないのかもしれない。
「親御さんの気持ちもちょっと分かります。イリス先輩、美人ですから。同格の伯爵家以上の家の方に見初められちゃったら断れませんもんねえ。だから殿方の目に触れないようにしてきたんでしょうけど」
「我が家の問題です。踏み込みすぎでしてよ」
「それでイリス先輩が幸せだっていうならいいですけど、そうじゃないでしょう? だから、逃げ道のひとつとして、ちゃんと婚姻しちゃうのはアリだと思うんです」
「白い結婚ということかしら?」
「まさか! 神公家は後継ぎが絶対欲しいんですから、それはないです。でもほら、人妻になったら問題ないわけですよ。しかもお相手が神公家の公子となれば他からのちょっかいも心配しなくて済みます」
「ですから、私にはあれが……。そんな女を押し付けるようなことはなりません」
「今更なんで言葉飾りませんけど、気に障る人もいるでしょうし、受け入れられないって人もいるでしょうね。それは否定しません。でもそれって結局、人の観点なんです。だから大丈夫。私、もう結構、神公家とずぶずぶなんでー」
エリカの言うことを全て分かったわけでも納得したわけでもなかったけれど、その日だけでなくエリカは顔を合わせる度に見合いを勧めてきた。こちらの方が他の令嬢方に聞かれたら気を悪くされるのではと焦ってしまうくらい、頻繁に。
そして私はその攻防に根負けした。
「よしっ! 言質取りました! じゃあ次の週末で話を進めておきますね!」
そこに一縷の望みを持ってしまったことを否定できないけれど。
週末はあっという間にやってきて、まだ午前中のうちにエリカに引っ張られるように馬車に乗せられる。他の令嬢が騒がないようにただの外出のふりをして。なので二人揃って制服姿のまま第四神殿へと向かった。
「イリス先輩、知ってました? この制服って今から行く第四神殿の祝福があるんですって。だからすごく丈夫で、そして私たちを守ってくれている、謂わば、私たちの鎧ですね」
言われて、思わず制服のスカート部分を撫でる。しなやかな感触の濃い紺の制服。下手なドレスよりも着心地が良く、どんな季節にも快適だった。
「制服が鎧、なの?」
「ええ! だから安心して討ち入りしちゃいましょう!」
「その言葉の選択は間違っているのではなくて?」
「だって、自由を得るための戦いに赴くんですもん!」
勇ましいエリカの言葉に背を押されるように、私は神殿へと足を踏み入れた。
女学院と丁度反対の王都の端、王宮のある丘の麓の広場に四つの神殿が並んでいる。白亜の神殿はまるで巨人でも出入りできそうなほど天井が高い。伝え聞くところによると初代王が建てたものらしいが、千年以上の歳月も知らぬように、今も荘厳な姿を留めている。その技術は卓越しており、失伝したことを惜しまれているのも納得な威容だった。
人前、ことに男性の目に触れないようにと育てられた私は、神殿を訪れることさえ初めてのこと。領地には分殿もあるのだが、そこにさえ行くことは禁じられていたからだ。邸の中に作られた祭壇に参るのが精々であった。なので、実はもの珍しく、つい足を止めてしまいそうになる。
「参拝とか案内は後でいくらでも。とりあえず目的を優先しましょう」
エリカは入り口にいた騎士に何やら話をしたあと、慣れた様子でその脇の道へと入っていく。
「神殿と神公家のお屋敷って、四つとも同じように作られているから分かりやすいんですよ」
今回、できるだけ関わる人間を少なくしようということで、私にもエリカにも侍女はつかない。案内もエリカが買って出てくれたので、ある意味安心してついて行ける。
道は誰ともすれ違わぬまま、小さな門に通じていた。
「ここ、神公家のお屋敷のお庭への直通なんです。今回のお見合いは部屋の中より外がいいだろうって話になって。今日はお天気も良くてまさにお見合い日和ですね。ちゃんと玄関に通じる門もあるんですけど、あっちからだと遠回りだし、仰々しくなるんで」
外にも騎士が一名しか立っていないような門をくぐると、王都の中とは思えぬほどに広い敷地の中は緑に溢れて、まだ秋の入り口のこととて、木々は未だ枝葉を濃く茂らせている。庭園というより林をそのままにしているような印象の場所だ。
「なるべく自然に近くを目指してるみたいです、ここのお庭。登りやすそうな木が多くて私は結構好きですよ」
そんな呑気なエリカに案内されるまま、道を辿る。石畳の小路はしっかりと整備されており、隙間から雑草が覗くような見苦しさもない。
「あ、見えてきました。あの東屋です。じゃあ私はちょっと呼びに行ってきますから、中で待っててくださいね」
おそらく邸の方へだろう軽い足取りで走り去っていくエリカを見送って、私は指定された東屋に目をやった。白い、おそらくは神殿と同じ建材で作られた瀟洒な壁のない建物。丸い屋根と白い柱で構成されている。実家の庭にもあったが、それよりも大きく、柱や柵には彫刻が施されて優美だ。柵の内側には沿うようにベンチが囲み、中央部に丸いテーブルが作りつけてある。テーブルの上には既に茶器が並んで、茶や菓子を待っているようだった。
ベンチに用意されたクッションはふたつ。ひとつは私のためだろう。だが座って待つ気にもなれず、東屋の周囲を見渡した。
横には小さな池があり、夏場であれば東屋から睡蓮の花が楽しめたのかもしれない。秋がもっと深まれば周囲の紅葉を。今はまだ池に落ちた緑陰を通る風と共に楽しむべきなのだろう。
木々すら幼い頃から窓の向こうに遠くにあるもので、実家の庭には花壇ばかりが並んでおり、手に触れるほど近くにいけたのは女学院の雑木林がはじめてだった。なので、ただの木であっても、私には新鮮に感じられたし、葉の上に白く薄く広がる蜘蛛の巣さえも興味深い。
「まあ、なんて立派な蜘蛛の巣なのかしら。レース編みのようだわ」
丁度目の前にある枝と枝の間にひときわ大きな蜘蛛の巣が張られており、朝露の残りなのか水滴が水晶のように煌いていてなんとも豪華だった。
「蜘蛛が織り手と言われるのも当然よね。教えられずともこんな見事なものを作ってしまうんだもの」
緊張と不安と少しの期待。おそらくそんな感情が混ざり合っていたのだろう。いつになく一人だというのに声が出てしまう。
そんな私に応えるように目の前に音もたてずに静かに一匹の白い蜘蛛が降りてきた。その蜘蛛は私の知る限りのものよりも大きくて、体の部分でさえ私の掌ほどあった。これが他の場所であったら大きすぎると感じたかもしれないが、ここは第四神公家の庭。そうであれば蜘蛛神のお膝元ということで、眷属たる蜘蛛たちも安心してのびのび暮らしているのだろうと思った。
「こんにちは、蜘蛛さん。お邪魔しております。ここにおりましたら巣作りのご迷惑かしら?」
そう語り掛けると蜘蛛は首を振った。
「まあ、神公家のお庭にいらっしゃるだけあって、賢くていらっしゃるのね。少しお話してもよろしくて?」
蜘蛛は蜘蛛なので当然だが何も言わず、けれど去ることもなかったので、私はそのまま言葉を続ける。
「私、今日はこちらにお見合いに参りましたの。後輩に強く勧められたからなのですけれど、きっと上手くはいかないと思うんです」
その複眼のすべてが私を見つめているようで、触肢が会話するように盛んに動かされる。それに勇気づけられた気がして、人前では決して口にしなかった告白をしていた。
「私、生まれつき背中に痣があるんです。痛みもないですし、服を着ていれば問題ありませんけれど、結婚するとなるとそうはいきませんでしょう? あまりにも家族が不憫がるので自分では見えない背中を魔法で見せてもらったことがあるのですが、本当にひどいものでした。首から下、腰の上まで色が違うのです。他の部分が白いだけに茶色く広がった痣が余計に気になってしまって。さすがにあれを見た時には泣きました。そして両親が私の結婚を諦めているのも当然だと思いました。人にうつるものでもなく、触っても感触は他と変わりません。神官様に相談をしても怪我ではないので治せないと。ですから、きっと受け入れてはいただけませんわ。何よりも申し訳ないんですもの」
それが私が隠されて育った理由。ずっと背中のあいたドレスが着られなかった理由。肌を他人に見せられれば簡単に納得されることであっても、淑女たるものそうはいかず。縁談を打診されてそれを理由に断っても、見せられない場所だけに断る口実と悪く取られるかもしれない。押し切られて婚姻となっても、いざ知られたら気味悪がって破談となるのも確実と思われた。
同じ親から生まれても、妹たちにはない。何故自分だけがと恨み嘆いても消えない痣と一生付き合っていかねばならない。だから諦めて。人並の人生を歩みたいという希望を押さえつけてなかったことにして。家から出られないことも受け入れて。
けれど女学院に入ったことで同じ年頃の令嬢たちばかりの中、もしかしたら彼女たちと同じようになれるのではないかと、なりたいという願いが私の中で膨らんでしまった。もう閉じ込められて暮らしたくない、当たり前のように外に出たり人と関わりあっていたいと。
「ですから、万が一にも殿方の目に触れてはいけないと、ずっと邸の奥で育ちました。今、こうして女学院に在籍している間だけの自由。卒業したらまた以前のような暮らしに戻るだけ。だから今日ここに来たのは、むしろ普通の生き方を諦めるためなのです」
「それでもアンタはここに来た。諦めきれなかったからデショ」
ふいに話しかけられて、私は飛び上がるように振り向いた。そこにいたのは、これまで見たことがないような美しいひと。ほっそりとした身体に沿うような、ぴったりと全身を覆う長衣を身に纏い、炎のような夕日のような赤い、どこか黄味を帯びた長髪を腰まで垂らした佳人。はっきりとした目鼻立ちは整って、その中央では黒い瞳が煌いていた。
「あの、どなたさまでいらっしゃいますか?」
「アンタの見合い相手ヨ。アントワーヌ・アレニエって言うノ。言っておくケド、ちゃんと男だから」
わざわざご自身で主張されるように、アントワーヌ様は、男女のどちらか迷うような見た目をされていた。顔立ちも中性的で、言葉遣いも男性のものとは違う気がする。ただまあ、細身の身体はあくまでも直線的で柔らかさも膨らみも括れもない。立ち襟の隙間から覗く喉は目立たないとはいえ女性のものとは違った。声は女性としてよりは低く、僅かに知る男性よりは高いだろうか。だが父と祖父以外の男性と関わることなく過ごしてきた私にとって、この一見性別の曖昧なアントワーヌ様の姿はむしろ安心できるものだった。
「申し訳ございません。はじめてお目にかかります、イリス・ボナールにございます」
ベール越しでしか姿を見なかった王都までの道中の護衛たちのように、身体も声も大きくてこちらが圧倒されるような男性らしい男性であったならば、踵を返して逃げ出していたかもしれない。そう今更自覚するほどには、私は箱入りで男性を知らない小娘でしかなかった。それでも震えそうになる声を抑えるのに苦労したのだが。
「うんそう、よろしくネ。で、悪いんだけど、アンタがうちの子に話してるの聞いちゃったのヨ。まあ、エリカからぼんやりとは聞いてたんだけどネ。ああ、アタシがこんなのだから、堅苦しいのはいらないわヨ。でもって、回りくどいことは嫌いだから、はっきりさせておくワ」
アントワーヌ様は、何気ない様子で先ほどまで私が話しかけていた白い蜘蛛を手に乗せて、ずいっと私の顔の前に突き出した。
「ねェ、この子のこと、どう思う?」
てっきり、私の痣のこととか、もしくは変わった話し方をされることだとかへの質問が来ると思っていたので、その問いがあまりにも想定外だったため、私の頭は真っ白になった。
「あ、その子ですか。そうですね、とても賢い子だと思いました」
「ふうん。気味悪くナイ? ホラ、脚もいっぱいあってうじゃうじゃで、目もいっぱい。毛も生えてるわネ。ほうら、ほうら、本当は気味悪いんじゃナイ?」
ほとんど顔に当たりそうな距離で白い蜘蛛を乗せた手がさかんに振られる。当惑したまま、思った通りのことを口にする。
「少し大きいとは思いますが別に……」
「じゃあ触れる? 触ってみてヨ」
アントワーヌ様の意図が分からぬまま、「ごめんなさいね」と声をかけつつ、そっと手を伸ばした。
「白くてふさふさですのね。ふさふさでも犬や猫のように温かくはないんですね。はじめて知りました」
「よし! 次は抱っこしてみて!」
言われるまま、アントワーヌ様の手から私の胸元へ移動しようとしてきた白い蜘蛛を受け止める。
「……潰してしまいそうで力を入れるのが怖いんですけれど」
思わず蜘蛛と見つめ合ったままそう呟くと、
「あ、丈夫だから大丈夫。アンタの力くらいなら潰れないシ」
そう返ってきたので、もう少しちゃんと抱きかかえてみた。脚の半分が私の手の上に添えられているような状態だが、それこそ犬猫ではないし、抱きかかえやすい形状でもない。ともあれ、状態は本蜘蛛に聞かないと分からないかと問うてみた。
「ええと、苦しくはないですか?」
「……ふかふかしてるって」
「ふかふか……?」
改めて腕の中の蜘蛛を見ると、脚の何本かが私の胸に広がっている。丁度、蜘蛛の大きさ的にふたつの胸を脚で両方覆うような形になっていた。
「え、ちょっとやめてヨ! 感触伝えてくるのはまずいって!」
「感触?」
「やばいから回収! はい、戻って!」
蜘蛛は私の腕から飛んで抜け出して、アントワーヌ様の肩へと飛び乗った。
「まあ、すごく跳ねるんですね」
「そう。この子は結構跳ねるし、何だったらちょっとは浮くカラ」
「普通の蜘蛛さんは浮かなかったと思うのですけれど」
アントワーヌ様は面白くなさそうに少し顔を顰めておられたが、すぐに気を取り直したのか、皮肉を込めたような笑顔で私に視線を固定した。どちらの表情であっても美しいというのは眼福であると知る。
「この子は例外! でもって、アンタは合格!」
「何に合格したのでしょうか?」
「アンタ、ここに何しに来たか覚えてる?」
「私はお見合いに……」
「そう、お見合い。でもって合格したんで、悪いけどアンタにはアタシの婚約者になってもらうから」
予想外の言葉に、しかし私はその時エリカの言ったことを思い出していた。あの子はたしか、「顔を合わせたら勝ち」と。私が合格するのがまるで確実なように。
「お待ちください! あの、さっき私が蜘蛛さんに話していたのを聞いておられたのでしょう? 私には大きくて醜い痣があるんです!」
「それに何か問題があるノ?」
「実際に見られたら、きっと気持ち悪いと思われますわ!」
「へえ。じゃあ見せてくれる? 確かめるから」
「えっ、それはっ!?」
「大丈夫、服剥いたりはしないから。はい、ちょっと後ろ向いて。そうそう。髪が邪魔だから前で押さえて。で、ちょっと触るから」
「何を……」
背中の制服越しに熱がゆっくり伝わってきて、私はどうしていいのかわからなくなった。その熱を持った両手が背中を這いまわるように辿る。
「あーなるほど? 結構広範囲なんダ。言っとくけど痴漢行為に数えないでよネ」
「あの、一体何を?」
「アタシ、これでも神公家の直系嫡男だから。神様の力ってやつ、いくらかは使えるのヨ。本当は目に神力込めただけで見えるんだけどサ、女の子の裸、見ちゃうとまずいでショ? だからこうやって触れてる範囲だけ見られるようにしてんノ。……たしかに、見事な色違いだワ、これ。はっきりくっきりしてんのネ」
「本当に見えていらっしゃるなら、あの、気持ち悪いでしょう?」
神のお力を使えると言うのであれば、私がアントワーヌ様の「見えている」発言を疑うことはなかった。それならば次に来るのは拒絶なのだろうと身を固くする。結果が分かっていても心が傷つくのは防げない。想定外の答えが返ってくることなど思いも寄らずに。
「正直言うと、気持ち悪いより何より、背中すべすべで気持ちイイ。どうしよう、手、離したくないんだケド!」
「え? いえ、その、ずっとそうされてるのはさすがに……」
「そうよネ。いくら神公家の力でもって婚約決定に持っていくとしても、正式に婚約したわけでない女の子の背中、触りまくってるとか、ひくよネ? 気持ち悪いよネ?」
「あ、別に気持ち悪くは……触られている部分がぽかぽか温かいですし」
「ちょっと! 少しは抵抗するとか、嫌がるとかしないと! アタシ、別に紳士じゃないから、このままぺろりといただいちゃうかもなんだから!」
意味が分からず、こてりと首を傾げると、アントワーヌ様は絶叫された。
「ああっ! 分かってない! 小首傾げて可愛いじゃねえか。でもって絶対分かってない! エリカが箱入りだって言ってたけど、本物の箱入りじゃないか! え、どうしよう。言いくるめたら、なんかこのままいけそうとか思えるんだけど! とりあえず野外だけど、距離詰めて他も触りたいんだけどいいかな!?」
背中に広がっていた温もりがゆっくりと、戸惑いを伝えるように動き出しかけた時、枝葉を髪に沢山つけたまま木の影からエリカが飛び出してきた。
「さすがにそれは止めますよ、アントワーヌ様!」
「ああ。俺もいるからな。これ以上はさすがに見過ごせん」
エリカの後ろからは神官騎士の服装をした緑色の髪の貴公子が続き、二人してアントワーヌ様を睨むようにしている。
「なに、エリカとユーゴ、二人して覗きしてたノ!?」
「このお見合いを仕組んだのは私なので! 当然様子を見てましたとも!」
「俺も大事な兄の縁談がうまくいくか心配だったからな」
「何ソレ、アンタたち、早々にくっついた余裕かましてくれちゃってたワケ!?」
「何故そう悪く取る。心配していたと言っているだろう」
そう言ってため息をついた方が、きっとエリカの婚約者、第二神公家のユーゴ様だろう。そんなユーゴ様は、話しながらもせっせとエリカの髪から枝葉を取り除いている。
「ユーゴ様、マエル様の時も思いましたけど。神公家の嫁取り問題、ほんっとうに! 急がないとまずいです!」
「ああ。兄たちがこれほど皆、拗らせているとはな」
エリカとユーゴ様はどちらともなく悲壮な表情を浮かべている。婚約者同士というのも仲が良ければ似るのだろうかとか、そんなことを私はぼんやり考えていた。
「ちょっと! マエルとアタシを一緒にしないでヨ! あのむっつりと!」
「えー? さっき、ばっちり危ないことおっしゃってたじゃないですかー? ちゃんと聞きましたからね!」
「たしかに。アントワーヌ、とりあえずいい加減、イリス嬢の背中から手を離せ」
「そうですよ! 穢れなく麗しいイリス先輩が汚されちゃいます!」
「見合い仕組んだの、アンタでしょうが、この子猿!」
「猿じゃありませんってば!」
「うち来て、木に登りまくってたんだカラ、猿よ、猿!」
片手だけを私の背中から外して、アントワーヌ様がエリカをさす指が見えた。
「そ、それは、登りやすそうな木が、ここには多くてですね……」
「エリカはこの元気なところがいいんだ」
ふふん、という笑い声と共に吐息が私の耳元に当たってくすぐったく、思わず身を捩った。けれどいつの間にか背中から移動した残った左手が私のお腹の上に回っていて、動きを封じられてしまっている。女性のものより明らかに大きな掌が右脇腹に達しており、それほど強く触れられているわけでないのに、そこが妙にくすぐったいようで、私の意思と関係なくぴくっとしてしまう。それに気をよくしたのか、指先が微妙に動いて、私はもうどうしていいか分からずに、ただ意識がアントワーヌ様の指へと集中しているだけだった。
「それって、ユーゴはユーゴで下からスカートの中覗いてたんじゃないノ?」
「失礼な。俺はそんなことはせん」
「そうですよ! ユーゴ様はそんなことしません! あ、ただ。シャンテリーとお風呂に入るのはやめてくれって言われましたけど」
「なるほど? 半身の視界と感覚を共有しているから、下着くらいでは見えても喜ばないト」
「ちがう! そんなことはしていない!」
「ユーゴだって、ホラ、むっつりのお仲間じゃナイ!」
そして、私が事態を把握できていないままにエスカレートしていく公子様方の言い合いに遂にエリカが切れた。
「ああ、もう! 十歳前後の男の子みたいな言い合い、神公家の公子様方がやってんじゃないですよ!
というわけで、仕切り直しです! ほら、イリス先輩はこっち! でもってせっかく用意したんですから、四人で東屋でお茶しますよ!」
そうして。エリカの仕切りにより、お昼を兼ねたお茶会が始まった。いつの間にか神公家の使用人たちが席の準備を進めており、東屋の中のテーブルの上は美味しそうなもので溢れている。
チーズとハムを挟んだ小ぶりのバゲットサンドや、小さくカットされたサーモンや卵のサンドウィッチ。厚切りベーコンとお芋の乗ったガレット―――などのお食事系はどれも食べやすいサイズで提供されていた。甘い物もある。どっしりとしたバスクケーキ。色とりどりが愛らしいマカロン。ショコラのムース。薄く重なったカスタードクリームたっぷりのミルフィーユ。
渡された繊細な白磁のカップに映える紅茶からは花の香りが届き、口に含むと砂糖を入れずともほのかに甘みを感じた。
そうしてサーブされるままに色々口にして、舌と胃を満足させる時間がほとんど会話もなく過ぎて、一同に流れる空気がまったりとした頃に場を支配するようにエリカが大きく手を叩いて注目を促してきた。
「はい、ここから私が仕切ります! アントワーヌ様、イリス先輩合格ですよね?」
「そうネ。悪くはないワ」
「今更、カッコつけても遅いです。で、イリス先輩はアントワーヌ様をどう思います?」
「私は選べる立場ではないもの」
「ああ、もうっ! もっと自信持ってくれればいいのに! ということで、アントワーヌ様はきっちり口説く!」
「子猿、あとで覚えておきなさいヨ。……イリス、アンタはその銀の髪も深い青い瞳も極上で、この美しいアタシの隣で見劣りしない貴重な人材。アタシが貰ってあげるから安心するといいワ!」
「言い方っ! それ、口説いてません!」
「うるさいわヨ、子猿。本格的には二人きりになってからにきまってるでショ!」
気の置けない間柄なのか、エリカとアントワーヌ様が繰り広げる舌戦にしばし口を挟む隙もなかった。
「あの、ですけれど、私のような女をアントワーヌ様に押し付けるなんて申し訳なくて」
「ふーん。申し訳ないって思うんダ?」
「はい。私は醜いので」
「アタシがいいって言ってるのに? いいワ。それじゃあ申し訳ないっていうんならアタシの頼みをひとつ聞いて。それと引き換えならいいでしょう?」
ずっとアントワーヌ様の肩や背中にいた先ほどの白い大きな蜘蛛が再び私の目の前に突き出された。
「うん。この子に名前を付けちゃって。ちゃっちゃと」
「あの?」
「結構、これが難しいのヨ。これまで誰も出来なかったことなんだから。だからアンタに頼むノ。お願いヨ?」
「今、ですか?」
「うん、今。ぱっと思いつくのでいいから」
実家では閉じこもる私のために、犬や猫、小鳥なども飼われていたが、自分で名前を付けた覚えはなかった。改めて蜘蛛を見る。どう見ても愛玩動物ではなく、しかも人と同等の知性が感じられる。
「……コンステラシオン、というのはどうでしょう?」
「へー。何デ?」
「あの、蜘蛛の巣に露が掛かっている様子が似ていると思いましたの」
「ふーん、結構いいセンスじゃない。この子もいいってサ。じゃ、決定ネ!」
今日出会って以来はじめての本当に嬉しそうな笑顔を向けられて、それが私だけに注がれている。佳人の素直な笑みは私の胸に刺さる凶器のようだった。
傍らで婚約者同士が顔を寄せ合ってしている会話は隠す気もないのか丸聞こえである。
「さすがに名付けは止められませんでした」
「これを止めたら、この一帯が火の海になっていたかもだからな」
「あの見た目で気性が激しいって詐欺ですよね」
「だがまあ、おじ上やおば上も喜ばれるだろう」
「私は第一神公家からの突き上げが怖いです」
「それなら何故、マエル、アントワーヌの順だったんだ?」
「普通に考えて厳しいと思われる順番です。オリーブも田舎育ちだし、土を弄ってたからマエル様を優先して。逆に箱入りのイリス先輩もいけそうでしたけど知り合ったのが最近だったので。あと、やさしく扇に乗せて逃がすとこ見ちゃったんで、蜘蛛大丈夫かなと」
もっとも聞こえるだけで素通りして意味もよく分からなかった。私の意識は目の前のアントワーヌ様だけに向かっていたから。
「さあてっと。コンステラシオンも名前貰ったし。逃がさないわヨ。卒業と同時に嫁入りしてネ」
「私の痣を神のお力でご覧になったのに、どうして……」
「神公家の嫁取りは代々難しいのヨ。何でかって言うと、四柱の見た目が女性受けしないから。
第一はその点有利なはずなんだけど、やっぱり嫌われちゃってるのよネ。ユーゴのシャンテリーも、マエルのリュミエールも、そしてアタシのコンステラシオン……長いわネ。愛称はシオンでいくワ。そうシオンも。皆、気味悪い、気色悪いって受け入れられなかった。
神公家に嫁入りしたいって向こうから言い寄ってきたくせに、悲鳴あげる、気絶する、逃げ出す、泣き出す。もううんざりだったノ」
「この子……シオンも?」
「そうよー。でもね、うちに嫁入りするならばこの子に認められないと出来ないワケ。だって、アタシとずっと一緒にいる子なのヨ? 平気な娘じゃないと無理だもノ。ああ、平気な振りをしてても、この子たちは見破ってしまうノ。だってねえ。神様から使わされた、いわば神の一部なんだもノ。この子たち―――半身は神公家の次期後継者の証として下される大切な存在。下されて初めて、神力を使えるようになるノ。生涯傍にいて、一緒に見て感じて考えていく相棒なんだから」
「とても大切な存在、なのですね」
「そうヨ。そしてシオンはアンタがいいって。だから名付けさせた。神公家次期の半身に名付けられることは嫁として認められるということ。そしてそれ以外の女とは決して結ばれないということ。つまり、アタシの嫁はもう、アンタしか無理ってわけ。分かったらさっさと受け入れて。アタシ、あんまり気は長くないノ」
「じゃあさっき名付けを急がされたのは」
「アタシもね、いい加減ちゃんと嫁を迎えたいって、さすがに思ってたから。子猿が選んだとは思えないほど、アンタはアタシにぴったりだもの。なかなかいないわヨ、アンタほどの美貌。凛として、でもちょっと儚げなとこもいいワ。世間知らずで箱入りなところも、アタシが色々教えて染められる楽しみが増えるってことだもの」
「でも私の痣は消えないのに。醜いままなんですよ、ずっと」
「まだそんな事言ってるノ。あのね、さっきも言ったでショ? 嫁取りが難しいのは半身を気色悪いと見られるからだって。つまり、見た目のことヨ。ねえ、見た目で差別されて嫌われるアタシが、見た目でアンタを受け入れられないとか、ありえないってノ。そんな資格、こっちにないってバ。アンタの痣ごとき気色悪いわけないじゃない。なんだったら、今からアタシの部屋行って証明しようか? 喜んで剥かせてもらうケド?」
立ち上がりかけたアントワーヌ様の長衣の端を掴んで、エリカが止めに入る。
「もうっ! 拗らせ公子様共はなんだってそうがっつくんですか! 女性は、繊細なんです! 節度を持って卒業までお付き合いしてください!」
「子猿、イリスをアタシに、第一より先に紹介したことは評価してあげる。でも、これからはアタシとイリスの問題だから、口出しは無用ヨ」
「そうだけど、そうじゃないでしょう! すみませんイリス先輩。こんなの紹介しちゃって。でもってもう多分逃げられないですけど。あの、イリス先輩? 大丈夫ですか!?」
エリカにハンカチを渡されて初めて、自分が涙を流していることに気が付いた。
「あら、私、いつのまにか、これは……涙? どうして泣いているのかしら。少しも悲しくなんてないのに。むしろ嬉しくて胸がいっぱいで苦しいくらいなのに」
「そう。アタシの嫁になるのが嬉しい、嬉し泣きなのネ」
「ああ、そうなんですね。だってアントワーヌ様、本当に私の痣を気にもされてなくて。こんな私を受け入れてくださって。それが堪らなく嬉しいのです。嬉しくて涙が出るなんて初めてです」
「いいワ。これからアタシがアンタに初めてをいっぱい教えてあげるから」
「はい、よろしくお願いいたしますわね」
どこか遠くでエリカの「言い方!」という叫びが聞こえた気がしたけれど。髪を掬って上目遣いで口づけしてくる美しいひとから、私の目も意識も蜘蛛の巣に捕らえられた虫のように、片時も逸らすことができなかった。
一年後に女学院を卒業して正式に嫁いで。夫婦として閨ごとも当然あって。実際に私の背中を見ても、アントワーヌ様はまったく気にも留められずに、平気で唇を這わせたりされて。
「うーん、不満としては背中にどれだけアタシのモノって印をつけても分かんないってことかしらネ」
その分というわけでもないのかもしれないけれど、他の部分に印を沢山付けられて、ますます肌をきっちり覆うドレスしか着られなくなったのだけれど。
婚約の知らせだけでは懐疑的だった両親も、私が嫁いで、やがて生まれた子供を見せると、アントワーヌ様が私の痣を気にせずに受け入れてくれたことをようやく信じて、そして普通に家庭を持てたことを心から喜んでくれた。
この痣がなければ、私の婚約は幼い頃に決まって、他の令嬢と同じように蜘蛛を怖がるようになっていたかもしれない。それであれば、この痣があったからこそアントワーヌ様と結ばれたのだと、今の私は胸を張って思えるようになった。愛する夫と子供、そしていつも傍らにいてくれる白い地上の星座と共に生きていける喜びを噛みしめながら。
『婚約者は焔の織り手』 完
最初に言います。後書き、すごく長いです。書くほどに増える設定のせい。設定やら裏話がお好きな方だけどうぞ。
イリスはアイリス、あやめです。青の優った青紫の凛とした雰囲気。花期は初夏。
アレニエはフランス語で蜘蛛のこと(発音的にはアレニェ)。
コンステラシオンはフランス語で星座の意味。
作中に入れそびれたエリカとイリスが関わることになったきっかけ。
女学院の下級貴族の娘たちは女官や侍女に進むことも多いので授業として侍女研修を受けます。その際協力するのが上位貴族の先輩たち。お茶を淹れる、ドレスや装飾品を選ぶ、スケジュールを把握する、お茶会の手配の実行、着替えや入浴を手伝うなど。先輩方は上位貴族だから着替えや入浴で後輩に肌を見られてもそういうものなので何も思いません。何せ正式なドレスは自分ひとりで脱ぎ着できるものではないですし。
エリカがその侍女研修を受けた相手がイリス。イリスは肌というか痣を隠したかったのでこの研修には消極的でしたが、当たりがよくてエリカを引き当てました。野生児お嬢、野山を駆け回って身体中痣だらけだった時代などもあり、まったく気にしませんでした。むしろ自分に気を遣ってくれるイリスに好感を持って懐いたという。
ちなみに一人だけですが、イリスには侍女がいて、イリスの部屋に付随する小部屋で寝起きしています。食事や入浴はお嬢様方はお部屋でが基本(晩餐形式で正餐室が使用されることもある)ですが、寮にまでついてきた侍女たちは使用人用の共同の食堂や浴場を使います。下位貴族用の寮ではお嬢様たちも食堂や浴室は共同の大きなものを使います。なのでエリカとオリーブは一緒に食事したりお風呂に入ってます。イリス、上位貴族で良かったね。
女学院の長期休暇は冬・春・夏でそれぞれ三週間程度。秋の途中にも一週間程度の休暇があります。お嬢様方にはそんなに詰め込み教育はしません。ゆったり、でもきっちりが女学院方針。
今回のヒーロー名を考えている時にふと、そういえば革命の大天使が好きだったことを思い出しまして名前を頂きました。性格等まったく参照はしてませんが。女装エピなんざ本物にはなかった、はず。長じたら大天使より風見鶏に関心が向いたとかはまあどうでもいいことですが。
アントワーヌはマエルより少し下でもうすぐ二十歳。一応これでも神官。
アントワーヌがオネエぽい(完全にオネエではない)話し方をしているのは、女除けですね。小さい頃から滅茶苦茶きれいな子だったので、子供から大人まで女性という女性に構われすぎました。そこで「アタシの方がアンタたちよりずっときれいじゃない」と見下すことで牽制するようになったのです。ただ本気で焦ったりすると口調が男のものになります。でもほとんどクセになって定着してます。
自分で考えて仕立てさせた男女どちらか分かりにくいものを選んで着ています。イメージとしてはチャイナの袍に近い感じ。スリット入り。下には細身のパンツ。色は華やかなものを好みます。緑に金の縁取りとか多い。
あと幼少時から一部男性の目も怖かった。さすがに神公家の嫡男に無体を働こうという馬鹿はいなかった模様。いても父親の半身に滅されていたかもしれない。第四神公家の血筋は代々血の気が多いです。アントワーヌもわりと、敵対する相手などを燃やしてしまうことにあまり抵抗がありません。見た目より気性が荒くて、付き合う人を選ぶ男ですが、一旦認めた相手は本人なりに大事にします。
エリカは紹介されても自分の自慢の容姿にも反応しないし木登りはするしで、妹分というか半分弟分みたいな感じの距離感になりました。子猿呼びにエリカは不満です。でも子猿。
タイトルが不完全燃焼なものになってしまって反省です。他に出てこなかったから……。
元々の蜘蛛神様が「火焔蜘蛛(オリジナル種)」という種類から神に至ったものですから、蜘蛛なのに火を司ります。超高温の焔を敵に投げつけるスタイルで攻撃性も高いタイプ。色々子孫に受け継がれすぎです。
イリスの実家は当初の予定通り上の妹に婿をとらせて継がせました。男兄弟はおらず。上の妹はイリスの四歳下なので女学院でも在学期間が重なりません。下の妹はその更に一歳下。妹たちはお姉ちゃん大好きっ子。家の中だけですがよく遊んでくれるし面倒みてくれるしきれいだし。ちょっとおませで恋愛小説に憧れています。女学院に通うようになって義兄と甥にはじめて会いますが、義兄は姉ときれいでお似合いだし甥は可愛いと、結構神公家に入り浸りに。その過程で蜘蛛もへっちゃらになりました。最初、妹たちを警戒していたアントワーヌも、「妹って可愛いものだったのネ」と可愛がるようになり、妹たちの結婚式は彼が仕切りました。両親は大感激だった模様。
イリスの両親も悪い人ではなく。むしろ娘(と一部家の体面)のため、邸に軟禁しておりました。地方貴族と言っても、よその貴族が王都と行き来する際に立ち寄ったりもしますし、それで縁談の話が出るのを防ぎたかったのです。領民にまで隠したのは「きれいなお嬢様がいる」とか噂されるのを避けるため。つまり幼少時からイリスはめっちゃ可愛かったのです。妹たちも可愛い子たちですが、イリスの方が誰が見ても上だったという。断れない縁談を強行されても初夜で返される可能性があまりにも高いと踏んだ両親の判断でした。祖父母も同意してのことです。不自由させているからと愛情はたっぷり注ぎました。
まったく出す機会がなくなった設定ですが、イリスの実家領地には桑畑が広がっていて蚕の飼育が盛んです。そこから織物の一大産地になっており、かなり裕福。この設定で第四神公家と蜘蛛を絡ます予定が、アントワーヌのセクハラ性向で吹っ飛びました。蜘蛛神は織り手、そこから職人や物作りをするひとたちの信仰を集めています。
当初、神様の候補は烏と蛇は確定で、あとの二柱は他に蝗・蚕・蛞蝓が候補だったんですが、見た目が悪くて嫌われやすいけれど人にとって益のある存在を選びたくて蚯蚓と蜘蛛になったという過程があります。あと個人的に蚕は幼少時のトラウマがあり、蛞蝓には恨みがあったので。蝗は単体だとさして気持ち悪くない上に集団だと最悪の存在なので論外ということで。
イリスが将来的に神殿に入るかもと言ってたことについて。
この国の四柱は人から神になったわけでないので、番って子孫を残すのは当たり前、むしろ推奨という態度です。ですので結婚もせずに自分たちに仕える必要なんてないんだよー、それより可愛い子供見せてよスタンスなんですが、どうしてもそうしたい、もしくはそうせねばいられない人物を拒絶もしません。なので一部、神殿奥で人と関わらずに暮らす人たちがいて、神の保護下にあります。心や身体が癒されたら外に帰ってもいいからねー、それまではゆっくりしてていいよーと、わりとゆるい神様たちです。
このシリーズの一番の功労者ってエリカだなあ、と実感する今日この頃。ありがとうエリカ。あと一話頼んだ。構想はまだふわっと。タイトルは『婚約者は空の賢者』。