きっかけ
「やばいな。早くしないと」
今日やるはずだった宿題を学校に忘れたことに家に帰っている途中で気づいた俺は急いで学校に戻って教室に向かっていた。
下校時間はとっくに過ぎていたが、こっそり行ってバレなければ問題ないだろう。
「……って! ……っ…のよ!」
何とか先生に見つからず、教室にたどり着いた俺は教室の中から何やら叫び声のようなものが聞こえるのに気がついた。
もう下校時間は過ぎているのに人が残っているはずはないんだけど……
不思議に思った俺は外の窓から恐る恐る教室の中をのぞいてみる。
(え……)
そこにいたのは予想もしない人物だった。
「はあ、またわたしに雑用押し付けやがって、あの担任。ほんとなんなのよ!」
「……っ!」
俺は驚きの声をグッとこらえる。
(ほ、星宮!?)
俺は何度も瞬きをした。目をこすってみたり、頭を振ってみたりもした。
しかし、それは何度見てもあの星宮麗奈から変わることはなかった。
(まさかあの星宮がな……)
眉間にしわを寄せている星宮なんて初めて見た。
俺は見てはいけないものを見てしまった気まずさで、冷や汗が止まらない。
忘れ物なんて取りに行っている場合ではない。
俺はすぐに忘れ物を諦め、急いでその場を去ろうとした直後……
「おい! 何してるんだ!」
後ろから怒鳴り声に近いような太い声が聞こえた。
(やべっ……)
俺は恐る恐る後ろを振り向く。
そこにいたのは俺のクラスの担任、野崎先生だった。
俺よりも高い身長と鍛え上げられたガチガチの筋肉が俺の心臓とその場の空気を圧迫する。
野崎は体育教師で、「熱血」という言葉がこれほど似合う人間は日本中探してもなかなか見つからないだろう。
その上若干ナルシストかつ女子にだけ甘いところがあるので、男子からは特に嫌われている。
「神代! 下校時間、とっくに過ぎてるぞ!?」
「す、すいません……」
「何してたんだ!」
「い、いやあ、その……」
俺はごにょごにょと口ごもる。
ここで正当な理由を言わないとその先には地獄の反省文が待っているからだ。
遅刻で野崎に反省文を書かされたクラスメイトが悲鳴を上げながら反省文を書いているのを俺は横目で見ていたことがある。
あんな目に合うのはごめんだ。
『ガラガラガラッ』
「……!」
俺が必死に言い訳を絞り出そうとして頭を捻っていると、教室の扉が開く音がした。
……星宮だ。
星宮からは先程の眉間のしわが無くなっており、いつもの優しい笑顔に戻っていた。
「先生、神代くんはわたしの仕事を手伝ってもらってたんですよ。だからそんなに怒らないであげてください」
(……っ!)
「なんだそうなのか? 全く、それならそうと早く言えよ。じゃあお前ら、気をつけて帰れよ!」
そう言うと野崎は大きな巨体を揺らしながら教室に入っていった。
静かな廊下に俺と星宮が取り残される。
「えっと、星宮さん。助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「じゃ、じゃあ俺帰る──」
「待って」
「なんでしょうか……」
「神代くんさあ、もしかしてさっきの聞いてた?」
いつもの星宮と声の明るさが違う。
さっきのとは星宮が一人教室でらしくない言葉を叫んでいたことだろうか。
だとするならばここはNOと言うのが妥当だろう。
「なんのこと? 聞いてないけど」
「へえ、聞いたんだ」
「……は!?」
「聞いたんでしょ?」
「聞いてないって言ってんじゃん!」
「嘘つかなくていいから」
(なんなの? 超能力者なの? 天使様は人の心まで読み取れるってか?)
これ以上否定しても無駄そうだったので、俺は観念して本当のことを話すことにした。
「はあー、聞いたけど」
「やっぱり」
「別に誰かに言いふらしたりなんかしないから。そもそも言いふらす友達がいないし。んじゃあな」
俺はとにかくこの場から早く去りたかったので、そう言って、星宮に背中を向ける。
「待ちなさい」
「はあ。何?」
「そんなの信じられるわけないでしょ」
星宮の声は先程よりも低く、そして冷たかった。
「言わねーって。言ったところで俺の言うことなんか誰も信じねーよ」
「まあ、それは確かにそうね……」
(こいつ……)
それはそうねと素直に飲み込まれた俺は自分で言って少し悲しくなったが、伊達に何年もボッチをやっているわけではない。
ひそひそと心無い言葉をされるのには慣れている。
立ち直るのは早い方だ。
「……でもやっぱり信じられないわ」
「はあ、言わねえって──」
「だから明日からわたしの愚痴を聞かせてあげる。どう? 嬉しいでしょ?」
「……は?」
こいつは何を言っているのだろう。
なんで俺が星宮の愚痴を聞いてあげないといけないのだろうか。
(ていうか、この人だからの使い方間違ってない? 因果関係が全く見当たらないんだけど?)
「えっと、丁重にお断りさせていただきます。ではさようなら」
「は? ちょっと待ちなさいよ! 何言ってんの? 愚痴を聞くとはいえ、わたしと二人の時間を過ごせるのよ?」
「いや、別に過ごしたくないんだけど」
「はあ!?」
星宮は大きな声をあげ、ありえないとでも言いたげな顔でこちらを見ている。
普通の男子なら、「星宮さんと二人きりだ! やったー!」などと喜ぶところだったのだろう。
残念ながら俺は別に星宮に興味はないし、何より嫌だったのは俺と星宮が二人でいるところを他の生徒に見られてしまう可能性があるということだ。
そんなところを見られてしまえば、面倒なことになるのは容易く想像ができる。
「はあ、じゃあ命令よ。わたしの愚痴を聞きなさい」
「だから嫌だって言ってんじゃん」
「わたしは生徒はおろか先生からの信頼もある天使なのよ? そんなわたしの命令を無視するとどうなるのかしら?」
「っ……!」
(こいつ……!)
俺の今まで見ていた天使は何だったのか。
俺の目の前にいる星宮麗奈は天使とは言い難いようなやつだった。
でも顔は相変わらず可愛い。これがいわゆる堕天使ってやつか。
(何が天使だよ。性格最悪じゃねーか…… こいつ権力乱用してますよ……)
「……はあ、わかったよ」
俺はこう言うしか選択肢が残されていなかった。
俺は残りの学校生活を何事もなく穏やかに過ごしたい。
星宮にあることないこと言いふらされてしまったら、俺の平和が乱されてしまう。
それぐらいこの星宮麗奈という存在は大きな力を持っているのだ。
「そう。じゃあ明日からよろしく~」