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異世界恋愛(現地)

視える村娘と、捨てられお狐様

作者: 廻り

 日出国の都から遠く離れた小さな村。

 そこに住む珊瑚(さんご)という名の少女は、妖怪に追われて林の中を逃げていた。


 十二歳という成長途中の身体には合わない、大人用の古びた着物を身にまとい。藁で編んだ簡素な草履で、転びそうになりながら必死に走っている。


 後ろからは、拳程度の大きさの黒い毛玉のような妖怪が、何匹も群れになって追って来る。

 この妖怪の名前はわからない。村にいつも住み着いている妖怪。

 一匹だけなら作物を食うだけの存在だが群れになると、珊瑚のように『視える』人間に襲いかかって来る。


 村の者達は、この妖怪の存在を知らない。視えるのは珊瑚と亡くなった祖母だけだった。

 祖母には妖怪を退治する能力もあり、この黒い妖怪が増えないよう制御してきた。


 村では『豊穣の祈願ができる巫女』として、祖母は丁重に扱われてきた。祖母が実際にしていたことは妖怪退治だが、妖怪がいなければ作物はすくすく育つ。村人の目には、祖母は巫女のように見えたのだ。


 その孫である珊瑚も、巫女の素質があるとして期待されてきたが、珊瑚には視える能力しか備わっていない。

 珊瑚にできるのは、黒い妖怪を集めて林の奥にある神社まで逃げ込み、神社の力で退治してもらうだけ。


 そのために畑で黒い妖怪を集めている珊瑚の行動は、村人達にとっては奇妙なもので。作物を荒らしているのは珊瑚だと、誤解まで受けている。


 それでも珊瑚は、黒い妖怪退治を止めるわけにはいかない。

 作物を奴らに荒らされると、この村の者達は珊瑚も含めて飢え死にしてしまうのだから。




 珊瑚は林の奥にある神社の階段を駆け上がり、壊れかけた鳥居を潜り抜ける。


「きゃっ!」


 その直後。草履の鼻緒が切れてしまい、うつ伏せに倒れ込んだ。

 後ろを振り向けば、黒い妖怪達が束になって珊瑚に降りかかろうとしている。


(神様……お狐様!)


 珊瑚は目をぎゅっと閉じて身構えながら、心の中でそう叫んだ。


 辺りは、シンっと静まりかえる。

 そっと目を開けてみると、黒い妖怪達は一匹残らず消え去っていた。

 

「神様が助けてくださったんだわ……」


 ここの神様は慈悲深い方だ。珊瑚が困った時にはきっと助けてくれる、と祖母はいつも話してくれた。珊瑚はその話を信じて、いつもこの神社を頼ってきた。

 (やしろ)まではたどり着けなかったが、神様は珊瑚を見捨てはしなかったようだ。


 村人や父親からも厄介者扱いされている珊瑚にとっては、神社が唯一の心の拠り所。嬉しくて滲み出てきた涙を袖で拭う。

 それから立ち上がり切れてしまった草履を脱いでから、お狐様の(やしろ)へと向かった。




 社は小屋程度の小さなものだ。そこに自分の昼食である握り飯をお供えして、手を合わせる。正式な作法など、田舎娘の珊瑚は知らない。


 黒い妖怪を退治してもらった後は、いつもお礼にお供えをしている。次に来た時は必ず綺麗になくなっているので、神様が食べてくださったと珊瑚は本気で信じていた。

 なにせ妖怪が実在するのだから、神も実在するに決まっている。


「いつもありがとうございます。お狐様」

「その社の神は、俺じゃないぞ」

「えっ……?」


 返事など、当然のように求めていなかった珊瑚は、驚いて後ろを振り返る。

 すると、何も無い空中が銀砂のように輝いたかと思えば突然、声の主は現れた。


 白い着物と袴に身を包んだ、長身の若い男性。

 白銀に輝く髪の毛は腰よりも長く、後ろで緩く束ねている。切れ長の瞳は黄金に輝いており。何よりも目を引いたのが、頭の両側から飛び出ている、狐のような耳。


「白狐……お狐様!」


 祖母から聞いた神様の特徴とそっくりだ。驚きのあまり珊瑚は尻餅をつく。

 本来ならそれ相応の作法で迎えなければならないだろうが、神様に会った時の作法など珊瑚は知らない。呆然と神様を見つめるだけで、精一杯だ。


「まあ。俺が退治したんだから、供物はもらうがな」


 そんな神は、珊瑚の態度を気にする様子もなく、社へと歩みよる。そして珊瑚が供えたばかりの握り飯を掴みとると、満足気に笑みを浮かべながら頬張り始めた。


 意外と庶民的な態度に少し緊張が解けた珊瑚は、彼が口にした最初の言葉を思い出した。

 見た目はどう見てもお狐様だが、彼は神様ではないのだろうか。


「あの……あなたは……?」


 握り飯を食べ終えた彼は指に残った米粒をなめとってから、社の隣を指さす。社の両脇には狐の石像が鎮座している。


「俺はそこの石像の狐で、神の眷属。社にいたのは豊穣の神だ。お前らは、そんなことすら忘れたんだな。だから神は出て行ったんだ」


 珊瑚は反射的に「すみません……」と謝る。

 それから、とんでもない事実を聞いてしまったことに気がつく。


「……この神社には、神様がいないんですか?」


 祖母は確かに、狐の容姿をした神様がいると話していた。珊瑚はそれを信じて熱心にお参りし、境内の掃除も怠らなかったのに。


 その質問に対して彼は、「ああ」とぶっきらぼうに答えるだけ。

 それよりも珊瑚のことが気になるのか、根掘り葉掘り質問攻めに合ってしまう。気づけば珊瑚は、自分の境遇から村の状況まで、洗いざらい彼に話していた。


「お狐様は、あの妖怪をご存知ですか?」

「知らん。名もない小物妖怪だ。強いて言うなら……黒助?」

「くろすけ……」


 いつもあの妖怪達に苦労していたのに、思いのほか親しみやすい名前だ。


「文句あるか?」

「いいえ! 素敵なお名前です」

「褒めてどーすんだ……」


 呆れた様子のお狐様は、ぽーんと何かを珊瑚に投げてよこす。慌てて受け取った珊瑚の手のひらにあったのは、ただの小石のようだが。


「俺の石像の欠片だ。持って行け。畑にまけば、黒助は寄って来ない」

「わぁ……。そんな凄いものを貰っていいんですか?」

「その代わり条件がある」

「条件……ですか?」

「これから毎日、俺に供物を持ってこい。そうしたらまた、石像の欠片をくれてやる。それを村中にまけば、そのうち黒助は完全に村からいなくなるさ」


 そうなればもう、珊瑚は誤解を受けることなく村で平穏に暮らせると。


 祖母がいた頃のような平和な生活が戻ってくる。

 作物を荒らしたと村人に叩かれることも、巫女の仕事を怠けたと父から罰を受けることもなくなるのか。


 珊瑚の瞳からは自然と涙が零れ落ちる。

 今まで必死に、黒助を退治することだけに専念してきた。けれど思いのほか、今の生活が心に負担をかけていたのだと、珊瑚は今になって気がつく。


「ありがとうございます……。神様」

「だから俺は神じゃ――」

「いいえ。私にとってはお狐様が、神様です」






 村へと戻った珊瑚は、言われたとおりに石像の欠片を畑の真ん中へと置いてみた。すると近くにいた一匹の黒助が、石像の欠片を怖がるようにしてその場から逃げて行くではないか。


(わぁ……! すごい効果だわ)


 お狐様の助言どおりにすれば、きっと珊瑚は平穏に暮らせるようになる。その日を夢見ながら珊瑚は次の日も、お供えの握り飯を携えて神社へとやってきた。


「お狐様こんにちは。お供え物をお持ちしました」

「おう。あんがとな。ほら、欠片を持っていけ」


 握り飯と引き換えに手のひらへ乗せられた石像の欠片を、珊瑚は嬉しそうにぎゅっと握りしめた。

 これでまた黒助を減らすことができる。


 お狐様が約束を忘れずにいてくれたことに安堵した珊瑚は、急にお腹が空いてくる。

 「ぎゅるる」とお腹の虫が大きく鳴き、珊瑚は顔を真っ赤にさせた。


「お前、腹が減ってるのか?」

「実はそれ……、私のお昼ご飯なんです」


 日頃から「ただ飯食らいが贅沢をするな」と父にきつく言われているので、お供えのために握り飯を用意するなど許されない。

 珊瑚は今まで、自分の昼食を社に供えていたのだ。


「……ったく。それを早く言えっ」


 お狐様は「待っていろ」と言い残すとどこかへ消えてしまう。


 恨みがましく聞こえて、不機嫌にさせてしまったかもしれない。

 不安になりながら彼の帰りを待つと、お狐様は両手いっぱいに果物を抱えて戻ってきた。


「ほら。握り飯の礼だ」

「え……。握り飯のお礼は、石像の欠片では……?」

「細かいことは気にするな。これからは欠片と食べ物が礼だ」


 なんだか自分のほうが、お礼をもらいすぎている。

 珊瑚は困りながらそのことを伝えるも、お狐様にとってはそれだけお供え物が貴重なのだという。

 だから毎日お供え物を持ってきてほしいと懇願されてしまえば、そうするしかなかった。






 それからも毎日のように神社へと通い、珊瑚とお狐様は一緒に昼食を食べる仲となった。

 お狐様は相変わらず、珊瑚が持ってきた握り飯しか食べなかったが、珊瑚のほうは様々なものを食べさせてもらった。


 山で採れる木の実はもちろんのこと、町でしか売っていないような屋台の食べ物や、甘いお菓子なども。

 どこで調達してきたのか聞くと、あやかしの世界にもそういったものが売っているのだとか。


 そうして徐々にではあるが、お狐様はあやかしの世界についても話してくれるようになり、身の上話もするようになった。


 この神社は元々、五穀豊穣を願い、人間達が作ったもの。その願いを聞き届けて、神様が宿ったのだという。

 神に仕える眷属として、お狐様の石像が社の両脇に置かれ。珊瑚と交流しているお狐様と、もう一匹のお狐様が宿ったのだとか。


 けれど、初めは五穀豊穣を感謝し熱心にお参りに来た人間達も、それが日常化すると徐々にありがたみが薄れた。

 次第にお参りや神社の手入れをする者が減り、ついには誰も来ないような廃神社となってしまった。

 神様は悲しみ、この社を出ようかと悩んでいた頃。珊瑚の祖母と出会ったのだという。


 あやかしや神を視ることができる祖母の存在に、神様は大層喜んだ。

 祖母のほうも熱心に神社へお参りに来るような子で、神社を飲み込もうとしていた雑草を駆除し、鳥居や社を綺麗に磨いて神社を再生させた。

 それに感動した神様は、祖母の願いを叶えたのだ。


 祖母の願いは、村に住み着いた黒助を退治したいというもの。祖母のあの能力は生まれついてのものではなく、神様によって授けられたものだった。


 そうして二人は徐々に心を通わせていったが、人間の娘はいずれ結婚しなければならない。

 それは祖母も例外ではなく、むしろ特別な力を持つ子孫を残さねばならないと、村人たちは躍起になって祖母の結婚を進めた。


 その頃すっかりと祖母に依存していた神様は、祖母が結婚することに耐えられずある日、忽然と姿を消したのだという。


「俺達は、神に捨てられたんだ……。俺達という眷属がいながら、あいつはいつも人間の事ばかり考えては、一喜一憂していた」


 それが、人間によって宿った神の性なのだろう。お狐様は諦めたように呟くが、表情は諦めたようには見えない。何十年も前の出来事に対して、未だに傷ついているように見える。


 お狐様二人は話し合い、一人は神様を探しに、もう一人は神様の帰りを待つことにしたのだという。


(それじゃおばあちゃんは、この神社に神様がいないと知っていたのね……)


 それでも珊瑚が幼い頃から、いつも二人で神社にお参りに来ていた。そして祖母の願いはいつも「珊瑚をどうか支えてください」だった。

 村にいる黒助を集めて、神社まで誘導するという退治方法も祖母が考えたもの。「神社まで行けば助けてくださる」と。


 それらは全て神様ではなく、お狐様のことだったのだ。


「祖母がいつも言っていました。神社へ行けば、必ず助けてもらえると。私をずっと助けてくださっていたのは、お狐様だったのですね。本当にありがとうございます」


 神の眷属である彼は、人間の願いを叶える義務などない。それなのに彼はずっと、珊瑚を助けてくれていた。


「……助けられていたのは、俺のほうかもな。珊瑚や珊瑚の祖母が来てくれなければ、俺は孤独でどうにかなってしまっていたかもしれない」


 彼は珊瑚の小さな手を大きな手で包み込むと「感謝する、珊瑚」と微笑んだ。その笑顔は、今まで見たどの男性よりも素敵で。

 神の眷属に、このような感情を抱いてはいけないのに。

 珊瑚の心臓は忙しなく動き出した。






「最近、作物の調子が良いらしいじゃないか。やっとお前も、真面目に巫女の役目を果たす気になったようだな」


 ある日の夜。囲炉裏の前で胡坐(あぐら)をかいている父は、珍しく上機嫌でお酒を飲みながら、夕食の準備をしている珊瑚に声をかけた。

 いつもなら村人から聞いた珊瑚の奇妙な行動に対して、怒鳴り散らしてばかり。珊瑚はぽかんとしながら父に振り向く。


「……私ももう、十二歳だから」


 珊瑚は曖昧に返事をしつつも、村人の間でも石像の欠片の効果を実感できているようで安堵する。


「大人ぶりやがって。でもまぁこの調子なら、良い婿をもらって昔のような暮らしに戻れるかもな」


 この国の娘は結婚が早い。初潮を迎えたらすぐにでも嫁に出されてしまう。

 珊瑚も最近は、お狐様のおかげで栄養状態が良いせいか、初潮を迎えたばかり。父は早速、婿がほしいと村長にお願いしに行ったのだとか。


 今は父と娘の二人暮らしで、家事のほとんどを珊瑚がおこなっているが、祖母が生きていた頃は違った。

 村人達がひっきりなしに家へ出入りし、頼みもしないのにこの家の世話をしてくれる。祖母や母は、家事などしたことがなかった。

 祖母は、近隣の村からも呼ばれるような有名な巫女。貢ぎ物だけで不自由なく暮らせるほど、家庭は裕福だった。


 けれど祖母が亡くなり、七歳で珊瑚が巫女の役目を引き継ぐと家庭状況は一変する。

 奇妙な行動を取る珊瑚に対して村人たちは不信感を抱くようになり、次第にこの家の世話を焼く者もいなくなる。

 近隣の村からも呼ばれることはなくなり、生活水準は急降下した。


 町では良家のお嬢様だった母は「話が違う」と早々に家を出て行き、父と珊瑚だけがこの家に残された。

 父は今でも、昔の裕福な暮らしが忘れられないようだ。


「よーし。景気づけに明日から、町へ売りに行ってくるぁ。しっかりと戸締りしておけよ」


 父は猟師をしており、定期的に毛皮や干し肉などを町へ売りに行く。その売り上げのほとんどは花街に消えてしまうので、父は数日は家に戻ってこない。珊瑚にとっては、気が休まる時だ。


「うん……! いってらっしゃい」






 翌日。父を送り出した珊瑚は、いつもより多めに握り飯を作った。普段は父の食材管理が厳しいのでお狐様にたくさんお供えを持っていけないが、しばらくは朝・夕で帳尻を合わせれば大丈夫だ。




 二人でお腹いっぱい昼食を食べた後は、お狐様の長い髪を綺麗に梳かすのが珊瑚の日課になりつつある。

 彼の白銀に輝く髪は本当にきれいで、ずっと触れていたくなるほど艶やかだ。

 お狐様のほうも、髪を梳かされると毛づくろいされているような良い気分になるのだとか。少しづつでも恩を返したい珊瑚は、熱心に彼の髪を梳かす。


「お狐様の髪は長くて綺麗ですね」

「珊瑚も綺麗な黒髪だろ。なぜ、昔のように伸ばさないんだ?」

「この国で髪を伸ばせるのは良家のお嬢様か、お姫様くらいです。手入れするには時間もお金もかかりますし、長い髪は仕事の邪魔ですから」

「その割に、高価なつげ櫛を持っているな」

「これは、祖母の形見です。祖母は髪を伸ばしてもよい人でしたから」


 祖母だけではない。母や、幼い頃の珊瑚もかつては、髪を長くの伸ばして綺麗な髪飾りを挿していた。

 村人たちにとっても巫女の一家は誇りであったが、それも能力が伴ってこそ。今の珊瑚がそのような身なりをしていたら、村人からさらに反感を買ってしまう。


 このつげ櫛は、祖母が亡くなる前に珊瑚に譲ってくれたもの。

 これから生活が苦しくなると予想した祖母は、女性としての楽しみを一つだけでも残しておきなさいと、懐に隠し持っておけるこのつげ櫛を選んでくれた。


 綺麗な着物や髪飾りは全て父に売られてしまったので、祖母の形見はこのつげ櫛だけ。村人や父から誤解を受けて辛く当たられるたびに、つげ櫛の美しい桜の細工と祖母との思い出が、慰めとなっていた。


(お狐様がご覧になっても、このつげ櫛は高価に見えるのね)


 このつげ櫛の役目は十分に果たされた。今の珊瑚には、慰めよりももっと頼りになる優しくて素敵な存在ができた。

 そんな彼にもっと恩返しがしたい。少しでも喜んでもらいたい。

 それを思う存分に実行できるのは父が留守の今だけだ、と珊瑚はつげ櫛を握りしめた。






 お狐様と別れた後、珊瑚は山下にある町へと向かった。そこで祖母の形見である美しい細工のつげ櫛を売り、代わりにお狐様の髪を梳かすために、飾り気のない櫛を購入した。


 それから余ったお金で、豆腐と白米を購入する。どちらも村人にとっては高級品。普段お狐様にお供えしている握り飯も、玄米と麦を混ぜて炊いたものだ。

 豆腐屋の店主には「お祝い事かい?」と尋ねられ、珊瑚は曖昧に微笑んだ。


 父も今は、この町の花街で遊んでいるはず。

 うっかり出会わないように花街の近くを迂回しながら、珊瑚は買い物を済ませて村へと戻った。






 翌朝。珊瑚はいつもより早起きして食事の準備にとりかかる。

 昨夜のうちに豆腐を清潔な布に巻き、板で挟んで重石を乗せておいた。それらを外してみると、豆腐からしっかりと水が抜けている。

 その豆腐を、薄く切って油で揚げると『油揚げ』が完成する。


 完成した油揚げを袋状にし、お湯で油抜きする。そして醤油と砂糖、父から拝借したお酒を少々混ぜて作った煮汁で煮込む。


 それから白米を研いで、丁寧に焚き込んだ。お釜の蓋を開けると白米がまるで、狐様の髪のように艶やかに焚きあがっている。


「わぁ……。美味しそう……」


 ほかほか湯気の香りも相まって、珊瑚は急にお腹が空いてくる。朝食を食べていなかったことに気がつくが、今は早く完成させてお狐様に食べてもらいたい。珊瑚は作業を続ける。


 白米で酢飯を作り、煮込んだ油揚げに詰めれば、『いなり寿司』の完成だ。

 薄く削った木(経木)にいなり寿司を並べて包んだ珊瑚は、急いで後片付けをしてから、神社へと駆けて行った。




「お狐様。こんにちは」

「おう。今日は早いな」


 そう言いつつもお狐様はすでに、珊瑚に食べさせるための食べ物を用意しして待っていた。

 彼はすぐに匂いで気がついたのか、ふさふさの尻尾をフリフリし始める。その姿の可愛らしさと、いなり寿司に反応してくれた嬉しさが相まって、珊瑚の頬は桜色に染まる。


「美味そうな匂いがするな」

「今日は、おいなりさんを持ってきました」

「ほう! 正月に供えてくれる、あれか。毎年楽しみにしていたんだ」


 包みを受け取ったお狐様は、すぐに一つ手に取り口へ運ぶ。満足そうに頬を緩める姿から、好物なのがよくわかる。


(良かったわ。喜んでいただけたみたい)


「それにしても、今日は正月ではないだろう?」

「そちらは、これまでのお礼です。お狐様のおかげで黒助も減り、村で暮らしやすくなりました。私には、これくらいのお礼しかできませんが……」


 珊瑚に祖母ほどの影響力があれば、村人を先導して神社の補修などもできた。けれど今の珊瑚には、こうして供物を持ってくるか境内を掃除するくらいしかできない。


「いや。今までの供物で一番嬉しいよ。ありがとな珊瑚」


 お狐様は、珊瑚の頬を優しくなでた。

 彼はあやかしの世界の住人だがその手は温かく、珊瑚と同じように生きる者としてここに存在している。

 この恋心は幻ではないと、実感させてくれる温かさだ。




 今日は父もいないし、ずっとお狐様と一緒にいたい。けれど、巫女の務めを怠けていると村人に思われるのは良くない。 

 後ろ髪を引かれる思いで村へと戻った珊瑚は、家の戸が開いていることに気が付いた。


(慌てて出てきたから、戸を閉め忘れたかしら)


 このような田舎の村では一日中開けっぱなしにしておいても、泥棒に入られる心配などない。

 ゆっくり歩いて家へと戻った珊瑚は、家の中を覗いた瞬間に心臓が止まりそうになった。


 家の中には、花街で遊んでいるはずの父がいる。父は、熱心に台所の周りを調べているようだ。


(どうしよう……)


 鍋の中には、夕食に使おうと残しておいた煮汁が入っている。


 今、父と顔を合わせるのは得策ではない。

 しかし、ぎろりと睨む父と目が合った珊瑚は、怖くて動けなくなってしまった。

 

「お前……、いなり寿司を作ったな」 

「お父さんが……どうして……」

「お前が町で買い物していたと聞いて、帰ってきたんだ。最近おとなしくなったと思えば……。どこで金を盗んだ!」


 怒りの形相で詰め寄ってきた父は、珊瑚の胸ぐらを掴み上げる。珊瑚は息が苦しくなるが、ここで抵抗すれば今度は叩かれる。必死に耐えながら訴えた。


「ちっ……違うのっ! これは、私の櫛を……売ったお金で……」

「お前がこんな贅沢をできるほどの櫛を、持っているはずがないだろ!」


 投げ捨てるように手を離した父によって、珊瑚は地面へと投げ出された。やっと息ができるようになり、珊瑚は咳き込みながらも息を吸う。

 しかし、すぐに父に腕を掴まれる。


「こいっ!」

「お父さんっ、どこへ……!」

「お前が金を盗んだと、村長に報告するんだよ。お前のせいで、俺まで村八分にされたらどうするんだ!」


 父は娘を信じないどころか、保身に走るつもりのようだ。そもそも父に、話を信じて貰えたことなど一度もない。

 珊瑚ができるのは、罰が軽くなることを祈るだけ。


 引きずられるようにして父に連れられていると、畑に村長達がいるのが見える。


「最近、畑のあちこちにこの石が落ちているんですよ村長」

「また珊瑚のイタズラかもしれん……。悪いが皆で、取り除いてくれ」


 皆が何かを集めていることに気が付いた珊瑚は目を見開いた。あれは、お狐様からいただいた大切な石像の欠片だ。


「だめっ! その石は大切なものなの!」


 あれだけは何としても、皆を説得して死守しなければ。

 珊瑚は叫びながら村長達の方へと向かおうとしたが、腕を掴んでいる父がそれを許してはくれない。


「珊瑚! この期に及んで、まだ迷惑をかけるつもりか!」


 父は、腕を掴んでいないほうの手を大きく振り上げると、珊瑚に向けてそれを振り下ろそうとした。


 珊瑚は身構えたが、しかし次の瞬間――。


 父の身体は枯れ葉のように宙へと舞い上がったかと思えば、急に浮力を無くして畑の中にドスンっと落ちた。


 一体、何が起きたのだろうか。

 珊瑚だけではなく、村長達もぽかんとした顔で無残な姿で畑に落ちた珊瑚の父親を見つめる。

 父親は落ちる角度が悪かったのか、全身を痛めたように呻いていた。


 こんなことができるのは、一人しか思い当たらない。

 珊瑚の考えが当たったように、目の前に銀砂が舞ったかと思えば、お狐様が現れた。


「珊瑚に手を出すな」


 お狐様は珊瑚を庇うようにして、珊瑚と村長達の間に立ちはだかった。

 村長達は、彼の耳や尻尾を見てすぐに気が付いたのだろう。お狐様の元へと駆け寄ると、地面に額を擦りつけるようにしてひれ伏した。


「お……お狐様……神様!」

「だから俺は……」


 また神と誤解されて面倒そうな顔をした彼だが、「まぁいいか」と悪い笑みに変わる。


「その石は、()である俺が珊瑚に渡したものだ。作物にご利益がある石だったが……、お前らのせいで効果が消えたな」


 さも残念そうに、ため息をつくお狐様。しかし、尻尾は軽快に揺れている。何だか楽しそうだ。

 珊瑚にはそう見えたが、お狐様を初めて見る村長達は青ざめた表情を浮かべている。


「そんな……! そのようなこと、珊瑚はなにも……」

「珊瑚は今まで、凶作にならぬよう村の畑を守ってきた。祖母とは違う方法でな。それを理解せずに虐げてきたのはお前達だ。今まで聞く耳を持たなかったお前らに、珊瑚が事情を話せると思うか?」

「それは……」


 痛いところを突かれた村長達は、居心地が悪そうに顔を見合わせる。


「珊瑚は毎日のように神社の手入れをし、自分の昼食を供えて村の平和を願ってきた。今日は今までの感謝の印として、大切な祖母の形見まで売り、俺のためにいなり寿司を作ってくれたのだ」


(全てご存知だったのね……)


 珊瑚はつげ櫛を売ったことは話さなかったし、櫛が変わったと悟らせないように、今日もお狐様の髪を丁寧に梳かしたつもりだった。

 しかし神の眷属にはお見通しだったようだ。


「珊瑚の気持ちが嬉しくて、俺は今までこの地を守る手助けをしてきた。――だが、もう珊瑚をここには置いておけない」


 お狐様は、珊瑚をどこかにやるつもりのようだ。

 心配してくれる気持ちは嬉しいが、珊瑚はここを離れたくはない。ここから離れてしまえば、お狐様と会えなくなってしまう。

 それは珊瑚にとっては、村人達から虐げられるよりも辛いことだ。


 着物の袖をぎゅっと握りしめて涙をこらえていると、お狐様が急に珊瑚へと振り返った。


 その表情は、珊瑚が今まで見たことがないほど幸せそうで。まるで桜が舞っているように彼の頬は薄紅に色づいている。

 その姿があまりに綺麗で、離れ離れになる不安も忘れて珊瑚は魅入ってしまった。


「珊瑚。俺の嫁になれ」

「えっ……?」


 思いもよらない言葉。珊瑚は自分に向けられた言葉なのか、すぐには飲み込めなかった。

 そもそも人間が、神の眷属に嫁ぐことなどできるのだろうか。

 人間の間では『神に嫁ぐ』といえば、『生贄』という意味だ。お狐様は珊瑚を生贄に差し出せとご所望なのかもしれない。


 どこか遠くへやられて離れ離れになるよりは、いっそ大好きな人に食べられるほうが幸せだ。

 けれど、死ぬのは怖い。

 珊瑚は震える手を押さえながらうなずこうとするが、お狐様はさらに続けた。


「腹いっぱい食わせてやるし、綺麗な着物も着せてやる。髪も好きなだけ伸ばせば良い。手入れするためのつげ櫛と椿油も必要だな。珊瑚に似合うかんざしも用意しよう。他には何が欲しい?」


 珊瑚の顔を覗き込んできたお狐様の表情は、とても今から珊瑚を食べようという雰囲気ではない。

 どちらかといえばいつもと同じで、珊瑚を喜ばせようと食べ物をたくさん用意して待っている時の彼だ。


「……あの。生贄の話ではないのですか?」


 少し気持ちが楽になった珊瑚はそう尋ねてみる。するとお狐様は、困ったような顔で頭を掻きながら「そうじゃなくて……」と呟く。


「珊瑚はずっと、一人だった俺の心の支えとなってくれた。だから、これからも一緒にいたい。間抜けな神のように、他の男に取られるのは御免だ。他に何を差し出せば、俺の嫁になってくれる?」


 珊瑚の両手を握った彼は、さきほどよりも頬の赤みが増している。珊瑚はやっと、彼の気持ちを理解した。いつの間にか、二人の気持ちは同じだったのだ。


「何もいりません。お狐様のお傍にいられるだけで幸せです」


 そう微笑んだ珊瑚の瞳からは、涙があふれるようにこぼれた。先ほどまで堪えていた恐怖や不安の涙ではなく、心から幸せを実感した涙だ。


「おっ……お待ちくだせぇ。珊瑚が嫁いだ後も、村は守ってもらえるんですよね?」


 這うようにして二人の元へとやってきた父親は、媚びた笑みをお狐様に向ける。

 お狐様は珊瑚の涙を丁寧に指で拭い、彼女をしっかりと抱き寄せてから、村人達へと視線を向けた。


「お前達は、珊瑚の力を信じていないのだろう? 何を今さら。それに俺達は旅に出る予定だ。自分達のことは自分達で何とかしろ」


 それを聞いた珊瑚は、潤むつぶらな瞳に疑問を乗せながらお狐様を見上げる。


「旅ですか?」

「神に珊瑚を紹介したいからな。二人で探しにいかないか?」


 神に捨てられたと打ち明けた時の、落ち込む彼はもういないようだ。前向きな気持ちになってくれたことに、珊瑚も心から嬉しくなる。


「はいっ。私も神様にお会いしてみたいです」


 お狐様が珊瑚を連れて歩き出そうとすると、必死な形相の村人達が二人を囲むようにひれ伏した。


「お狐様! どうか村をお捨てにならないでください!」

「これからは珊瑚を巫女として丁重にお世話いたしますから、どうかお許しください!」

「ならば、神社の手入れを怠らず、熱心に祈ることだな。そうすれば……、神はいずれ戻って来るかもしれない」


 お狐様はそれだけ言い残すと、珊瑚を抱き上げ空へと舞い上がった。まるで、珊瑚と彼にまとわりつく、この地のしがらみを断ち切るように。


 これからの珊瑚は、父や村人から虐げられることはない。お狐様も、帰らぬ神を一人で寂しく待つ必要がなくなるのだ。


 それを祝福するかのように、良く晴れた空からは霧雨が舞い降りてきた。

 人間の間ではこのような雨を『狐の嫁入り』と呼ぶ。


 「これからどこへ行こうか」と楽しそうに考えるお狐様を見ながら、珊瑚は幸せいっぱいに笑みを浮かべた。


 今日はとても素敵な『狐()嫁入り』の日だと。





お読みくださりありがとうございます。

普段は書かない和風にチャレンジしてみたのですがいかがでしたでしょうか?

お狐様系も良いですよね……モフモフなところとか。


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