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瓦木紗綾シリーズ

虚構

作者: 裃白沙

挿絵(By みてみん)


「これが、死体と同居していた容疑者、鏑宮照彦の手記なんだね」

 私が問題の手記のコピーから目をそらすと、瓦木紗綾は瞑想をやめ、深く沈んだ色の瞳を向けて頷いた。

「その手記を残して、鏑宮照彦は自殺を図ったんです。それを妹の鏑宮聖子が発見、呼ばれてきた救急から藤原警部に連絡が行ったんです。ちょうどその時私も警視庁にいたもんで」

「現場に向かったと」

 私がそう相槌を打つと、紗綾は言葉尻を失って、少し彷徨うように私の淹れたコーヒーに手を伸ばした。

「ええ、彼の部屋の中は文字通り惨憺たる状況でしたよ。地獄絵図と言いましょうか、では被害者は鏑宮照彦の元交際相手、霜川瑠璃。遺体は既に腐敗していました。鼻は欠け、頬の肉も落ちかかっているほどで、臭いはもちろん、見た目も見た目でしたからね。人間ってああなっちゃうんですね」

 紗綾は吐き捨てるように言うと、ふぅと溜息をついた。よほど思い出したくない光景だったのだろう。

「ところがそんな彼女を照彦はしばらく抱いていたようなんです」

「ははぁ、それは雨月物語の青頭巾もかくなるや……というところだね」

 私が少し学のある所を見せようとすると、紗綾も知っていたのか、

「あれよりかマシですけどねぇ。腐肉を喰らいて鬼となる」

 事も無げに返されてしまった。

「でも、残念ながら照彦は鬼にはなれなかった。まだ鬼人の犯罪というほうが周囲のためにはなったかもしれませんね。彼の罪状はそれだけではなかった。どうやらコレをやっていたようで」

 そう言うと、紗綾はペンを人差し指と中指の間に挟み、腕に当てた。注射器の真似らしい。

「しかも前科があったんです。とはいっても公にはなっていません。鏑宮家というのがこれまた非常に古風で内向的で、ちょっとやそっとの犯罪、自分たちで片をつけてしまうんですね。警察も目をつけていたみたいなんですけど、結局今日この日まで問題が露見することがなかったんですから大したものです。まあ冗談はさておき、そんな一族ですから、薬物依存の長男坊、彼は鏑宮家の名誉のために屋敷の離れ、すなわち死体発見現場に幽閉され、禁断症状をやり過ごそうとしていた。そこに今回の犯罪が持ちあがったんですね」

「所詮は素人治療ということか。じゃあこの文章もその幻覚の中で……」

 私の質問の語尾は紗綾に届かなかっただろう。ごうごうと列車の通り過ぎる音がする。窓が軋んで、隙間風が応接間の空気を中和していく――


 瓦木紗綾から連絡があって、私が神田御茶ノ水のボロアパートにやってきたのは日も沈み、肌寒さを感じる頃であった。ドアには相変わらず「瓦木探偵事務所」と書かれたA4判の紙が磁石の力で張り付いていた。鉄の扉を叩くとしばらくして部屋の主が顔をのぞかせた。

「何かあったのかい?」

「何かって、事件ですよ、ほら」

 紗綾はそう言うと、着ているエンジ色のジャケットの裾をつまみ上げてバタバタとさせた。なるほど、いつもなら部屋着で出てくるのに、今日はちゃんと外行きの服を着ている。仕事おわりということか。

「それで、その事件の目星はつきそうなのかい?」

 私がそう尋ねると、紗綾は意外そうに私をゆっくりと見上げると、いたずらを見つけられた子供のように笑ってみせた。

「もう解決してきましたよ」

 そして紗綾に渡されたのが、最初に掲げた手記のコピーだった。


 ――列車の音が遠く離れてゆくと、ううん、と紗綾は首を振った。

「ねぇ先生。私がこのメモを先生に見せたのは決してこの犯人の異常性を印象付けるためではないのですよ」

 私がはたとペンを止めると、紗綾は口元を綻ばせた。

「どういうことだい? だって、この文章はあまりにも、文章とするには散文詩的すぎるし、意味も通らない。一体何の意図があってこんなメモを残すんです?」

 すると紗綾は私の前に人差し指を差し出して、机に置かれたメモのコピーを二回ノックした。

「これがあったから私は疑いを持てた。だからお見せしたんですよ」

 そのまま彼女は私が手土産に買ってきた箱入りのチョコレートを一つつまみあげ、口に放り込んだ。もごもごと何か続きを言おうとしているが、伝わらないと知ると慌ててそれを飲み込んだ。

「薬物中毒の幻想としてはなかなか難しい漢字を書いていると思いません? 幻燈、這う、木霊に金木犀。最後の受け容れるなんかも、わざわざ受容という単語を崩したほうの字を書いている。それに……」

 紗綾はそこで言葉を切ると、目に力がこもっていた私を見つめてクスっと笑った。

「先生と違って誤字もしていないんですよね」

 私が咽喉の奥から声をだすと、紗綾は満足そうに口を閉じて髪の毛をワシャっとして、

「改行も実に意図的です。ちゃんと場所もそろっています。先入観がなければ、それこそ先生が言ったように何か深い意味を宿した詩にも見えそうです」

「しかし詩には句読点を打たない。昔知り合いが言ってたんだが」

「そうなんですか。だとしたら、なおのことこの文章は薬物中毒者の幻とは言えませんね」

「そうなのかい?」

「些末な矛盾ですけどね。確かに、先生の言うように、狂人が幻覚の中で描いた愛人との最後の抱擁とみればとても抒情的で神々しささえ感じますね。先生のように探偵小説の題材にするとしても、この意味深長なところがいいかもしれません。でも、先生。先生は何でこの文章を薬物中毒者の幻だと思ったんですか?」

 紗綾はいたずらっぽく口をとがらせるとチョコレートをもう一つ口に入れた。

「それは、だってこれを書いたのが薬物中毒者なのだろう? それに、被害者は腐敗していた。屍姦の疑いもあるんだろう?」

「ええ、そうです。現場に薬物中毒者と腐敗した死体があったからこそ、意味ありげな怪文になったわけですよね。まったくその事情を知らない人間が見たら、この文章は何だろうって思うでしょうか? きっとやっぱり詩みたいだなって思うんじゃないですかね。でも、学のある人が見たら、先生のお知り合いがいうように、詩としては間違っているというわけです。つまりどのみち、この文章は混乱させるんですよ、読んでいる人間を。そんな計算された文章、本当に幻覚に溺れた人間が書けるでしょうか? ひょっとして、まっとうな人間がわざと変な文章を書いたんじゃないかなって、思ったんです」

「一体なんのために?」

「先生、それは簡単なことですよ。私、今言っちゃいましたよね。容疑者、鏑宮照彦は薬物中毒者なんかじゃあなかったんですよ」

「なんだって!」

 私は椅子から立ち上がると、紗綾の顔を見つめ返した。

「しかし、薬物の陽性反応は出たんだろう?」

 ええ、と紗綾はこたえて、もう一片、チョコレートをくわえた。

「使用の陽性反応は出たけど、継続使用は認められなかったんです。つまり、正常な意識の下で霜川瑠璃を殺したんじゃないかと。藤原警部もそこまでは到達していました」

「しかし、そんな計算ずくな証拠を作る犯人が、検査してバレてしまうような嘘をついたというのかい?」

「そうです」

 挑戦するような眼で紗綾は私を見つめるとフフッと笑ってマグカップを手にした。いやに今日は上機嫌である。

「その嘘が露見しないと困る人間が犯人だったらどうです?」

 私が黙ってしまうと、紗綾はコーヒーに口をつけ、白く息をホゥホゥと吐いた。そのたおやかな上昇を見やる目が、私の目と合って止まった。

「もっとはっきりと言ってしまえば、照彦が捕まって、薬物の使用で逮捕され、さらに薬物使用下での錯乱の犯罪が嘘だとわかり、言い逃れができなくなる。こんなシナリオを書け、実行させることが可能な人間が、裏にいたってことです」

「妹の聖子か」

 紗綾が私の言葉に頷いた。

「『薬物中毒で心神喪失だったということにすれば罪が軽くなる』と、兄に助言したんです。実際、照彦には前科がありますから、もう一度薬物に溺れていたとしても疑われないわけです。その下準備が、この謎の手記と、死体との同居だったんですよ」

「兄がまともな人間じゃないと思わせるためにか」

「ええ、それで、仕上げとして薬物を使わせ、さらに自殺を企てさせた」

「しかしなぜ照彦は霜川瑠璃を殺してすぐ薬に手をつけなかったんだい。そんなに腐敗が進んでるってことはしばらく通報まで時間があったんじゃないか。その間に継続使用が認められるようになれば嘘が露見することは……」

 と、そこまで言って私はあっと口を噤んだ。

「嘘だとわかれば、事実薬物使用下の犯罪ではなかったとしても、それを隠蔽しようと工作したことになります。そうなるように聖子は計画し、兄に助言したんです。照彦は本当に薬物中毒を克服していた。その辛さがわかっているから、できるだけ薬に手をつけたくなかった。でも罪はできるだけ軽くしたい。その平衡点はここだよと、実際の犯行時に薬物の使用が認められなくなるまで使用を遅らせたんです。聖子は兄の葛藤に乗じたんですね」

「そうすると、動機は?」

「兄が邪魔になったそうです。前科があるというのに、家での地位は兄のほうが上だったそうで。犯罪をしても離れで幽閉されて、のうのうと生きている。薬を断ち切れたことですし、世に出るのも時間の問題。そんなところで事故にしろ殺人を起こされてしまった。薬物使用を秘匿し、無かったことにするような家です。死体の一つくらいどうとでもしてしまうでしょう。事故による殺人には薬物ほどの依存性はないですからね。よっぽど検査をしたら分かってしまう薬物のほうが鏑宮家にとって深刻な問題なんだと聖子は考えたんです」

 紗綾はそこで一度深く息を吸った。すこし髪の毛があらぬ方向に跳ね上がっている。でもそれも直さず紗綾は語り続けた。

「実に恐ろしい妹です。彼女は非常に頭の回転が速い。加えて学もある。だから、一見すれば狂人の手記になる、でも観客にここまで矛盾を感じさせる文章を練り上げることが可能だった。詩の体裁なんて気にするぐらいですから、よっぽど出来のいい娘なんでしょう。だからこそ、激しく嫉妬したのですね。結局いつも自分が損をしている。こんなにまじめに頑張って生きてきたのに、この死体をうやむやにしてしまえば家督を継ぐのは兄。大罪を犯した兄よりも常に彼女は下だったんです。だからそんな憎たらしい兄を一族でも手に負えない猟奇殺人犯にして放逐させようとした。そんな嫉妬の炎があったからこそ、兄に自殺をさせても助けたんです。生かしてしまえば警察は動かざるを得ない。鏑宮家の汚名はもう隠せません。生かした方が兄は苦しみます。一族も苦しむのです。苦しませるためには、この犯罪にも、嘘にも露見してもらう必要があったんですよ」

 紗綾の呼吸の音だけがこの部屋に響いていた。ふと、窓の下の丸ノ内線が物憂げな警笛を鳴らした。それが憑きものを落とす合図であったかのように紗綾は頭を大きく揺らし、マグカップに口を添えた。

「しかし、証拠はどうしたんだい」

「証拠は意外なところにありましたよ。聖子は最後の最後、兄に使わせるために買った薬物の密売人に顔を覚えられていたんです。その密売人が逮捕されてたから話が早かった。まことにあっけないですが、こればっかりは薬対課のおかげです。私は頭が上がりませんよ」

 ホゥホゥと白く息をつき、紗綾はゆっくり目をつむった。

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