吹雪
一日経っても、二日経っても吹雪はおさまらない。
まんじりともせずに、一日一日を数えて過ごした。
シェザード様は、どこまで辿り着いたのだろう。
吹雪は抜けたのだろうか。
「神の塔までは、どれぐらいかかるのかしら……」
王都と北の果ての中間地点のこの街が補給地点としては二番目に大きく、北の果てにある神の塔のある山脈の麓の街は巡礼者の聖地と言われていて、一番大きいのだという。
北の果ての街アニマ。
そこまで辿り着けば、あとは神の山であるミンタニヤを昇るだけだ。
「時間……、私に残された、時間は」
未だ降りやまない雪が、街を、屋根や道を、白く覆っている。
私は窓に額をこつんとくっつけて呟いた。
氷のように、冷たい。
三月になったら。
春になったら。
そればかりを考えていた。
春とは、卒業式の日。
学園の卒業式は確か、――三月、三日。
「間に合わないかもしれない……」
もう二月も半ばを過ぎてしまった。このまま刻一刻と時間が削られてしまえば、このままここで待っていたら、私は。
シェザード様と、会えないまま――終わってしまうかもしれない。
シェザード様が女神様の元へ辿り着き、私の命を繋いでくださる。
そんな一縷の望みに縋りながらこのままここで待つなんて、とてもできない。
それに、吹雪が長引くほどに、雪が積もってしまう。
道は更に悪路となるかもしれない。
私は足の包帯を巻きなおして、綺麗に洗った巡礼服を再び着込んだ。
荷物を詰め込んだ布鞄を背負い、そっと部屋を出る。
足音を忍ばせて廊下を進み、一階にある食堂も兼ねている広間まで降りた。
入口は一つきり。
神官服を着た方々も足止めをされているのだろう。
ラディスさんや宿屋の店主の方と、話をしている姿がある。
私は廊下の壁の陰に隠れるようにして、様子を伺った。
「……吹雪はあと、どれぐらい続きそうですか」
ラディスさんが店主に問うと、壮年の店主が悩まし気に眉根を寄せた。
「どうだろうな。二月の終わりにこれほど吹雪くとは、はじめてのことだ。まるで、誰かが巡礼の旅を阻んでいるようだ。先頃、教会の神官たちが一斉に捕縛されただろう。女神様がカダールの人々にお怒りになっているのではないだろうか」
店主の言葉に、神官服を着た女性が祈りを捧げるように胸の前で両手を組んだ。
「恐ろしいことです。……私たちは教会を信じていました。それなのに、教会があのような罪を犯しているとは……」
「孤児院の子供たちの扱いは酷いものだったそうですね。神官長は裏社会の者と通じて、恐ろしい薬を扱っていたとか。驚くほどの高額で教会を訪れる信仰心のあつい者に売っていたという話もあります」
ラディスさんの声音に、苛立ちが混じっている。
「末端の者は知らなかったのです。……私たちのような若い者は、神官とはいえただの下働きですから。巡礼の旅にさえ、同行することは許されませんでした」
女性と共に旅をしている様子の、神官服を着た男性が言った。
「声を大にして言うことはできなかったが、巡礼の旅に訪れる神官たちは……、本当に、酷いものだった。横柄で、偉そうで、……女神の加護があるからと、街の若い娘を差し出せとまで要求するありさまで」
「神の塔に登らずに、街で豪遊する者も多かったようですね。神官長は、国王に――神の門が開かれないと、虚偽の報告をしていたようだ。実際には神の塔へ登っていないのだから、開かれないのは当然です」
店主にラディスさんが同意する。
私は唇を軽く噛んだ。
知らなかった。
私たちは、教会と神官の方々を信じていた。神託は教会と国王だけにしか知らされない。
――女神様のご神託があるから、カダールは平和なのだと、多くの人々が思っている。
私がそうであったように。
「神官が街に訪れると、人々は皆娘を家に隠した。できるだけ高い酒を飲ませて持て成して、酔い潰す。おそろしいことが起こらないように」
「本当に、申し訳ないことです。……本当に」
神官服の女性が泣き始める。
男性が深々と頭を下げた。
「アルタイル様が王位につき、教会を正してくださいました。今残っているのは、今まで教会の中で冷遇されてきた心ある者たちだけです。私たちは、女神様に懺悔をするために、女神の塔に向かっています」
「皆、分かっている。グリーディアから王妃様がいらっしゃるまでは、……まだ、まともだったんだ。徐々に何かが狂い始めた。国の中心で何が起こっているのかは良く分からないが、若い王はきっと人格者なのだろう。……若い王と言えば、数日前に身なりの良い若い男がやってきた。神の塔へ向かうと言って」
シェザード様だ。
私は目を見開いた。
思わず声を漏らしそうになってしまった口を両手で押さえる。
「随分急いでいたようだ。上手く吹雪を抜けられたなら良いが……」
「抜けられないとしても、途中にある小屋で凌いでいるでしょう。心配はないかと思います」
「そうだな。巡礼の旅に危険がないように、神官たちはかなりの金と人をつぎ込んで、巡礼の道を整備していた。それだけは、他の巡礼者たちにとっても良いことだな」
「どのみち、吹雪が収まってもこの雪の量では。おさまるころには更に積もっているでしょう。出立は、雪解けを待って、ということになりますね」
ラディスさんが溜息交じりに言った。
神官の二人とラディスさんが部屋に戻っていく。
私は廊下の奥の階段の端に身を隠して、皆が上階に向かうのをやり過ごした。
店主も皆が居なくなったので休憩の為か、一階にある扉の奥へと姿を消した。
広間には誰もいない。
出口の扉があるのは、この場所だけ。
(今しかない……)
春を待つことはできない。
馬鹿なことをしようとしているのは、自分でも良く分かっている。
けれど、ここで待つのも、吹雪の中を進むのも、私にとっては同じことのように思えた。
私はまっすぐに外へと続く扉へ向かう。
扉を薄く開くと、吹雪が中に吹き込んでくる。
扉の隙間から私は身を滑り込ませるようにして、外へと出た。
冷気が頬を突き刺し、強い風に髪が靡いた。
風が吹くたびに、粉雪が顔にあたった。
マントについているフードを目深に被って、薄く目を開いて石畳を確認する。
雪の薄い場所が道だと、まだ判断することができる。
ブーツの靴底が、さくりと雪を踏みしめる。
転々と、足跡が白い雪のあとに残っていく。
風の音しか聞こえない。
ただ薄暗く、白い世界。
こんな天候で外にでる者はいないのだろう。
街には誰の姿もなかった。
暖炉の炎が家の中に灯っている。窓が赤々と光っていて、明りがあるだけで勇気づけられた。
(まだ朝だから、少しは明るいのね)
夜までには、街道沿いにある次の小屋まで、辿り着かないといけない。
私は街を出た。
一歩進むごとに足の裏がひりつくように痛んだけれど、今は感覚にも乏しい。
手も足も、冷たい。
でも、体は動く。
体が動くのだから、私はまだ生きている。
生きているのなら――最後まで、足掻きたい。
お別れさえ告げられないなんて、――絶対に、嫌だ。
絶え間なく雪は降り続けている。
分厚い雪雲に空は覆われていて、街の外へ出るとあたりは一面真っ白く雪に覆われていた。
ぞくりとした不安が、背中を這い上ってくる。
これでは、右も左も分からなくなってしまうかもしれない。
街道から外れてしまえば、遭難してしまうだろう。
(今ならまだ、引き返せる)
一瞬、躊躇った。
進むのは、怖い。
街の外には、真っ白な死が、静かに横たわっている気がする。
それが不意にむくりと起き上がり、私を手招きしているような錯覚を覚える。
「……私は、行かなきゃ」
部屋で静かに最期を迎えることを選択すれば、必ず後悔するだろう。
私は誰の為でもなく私のために、進まなければいけない。
まだ、歩けないほどに雪が積もっているわけじゃない。
雪に足を取られそうになりながら、一歩一歩進んでいく。
雪道には、この半月ほどで体が慣れ始めている。
大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら、私はひたすら北へと進んだ。
顔が、痛い。
指先も、足も、痺れているような気がする。
はあはあと、促迫した呼吸は、白く濁って消えていく。
街道を進むと更に雪が深くなったような気がした。吹雪が収まる気配はない。
どれぐらい歩いただろう。
後ろを振り返ると、私の足音は新しい雪に覆われて消えている。
街も、もう見えない。
「……この方向で、正しいのかしら」
分からない。
真っ直ぐに進んでいるつもりなのに、白い平野に突然投げ出されてしまったように、方向感覚が失せている。
深い雪は体力をあっという間に奪った。
休憩をした方が良いのだろう。
けれど、足を止めてしまうと、二度と歩き出せなくなってしまう気がした。
ひたすらに、前だけを見て歩いていく。
髪に雪がへばりついている。白い巡礼服を着た私はまるで世界の一部になってしまったようだ。
このままここで倒れたら、雪解けまできっと誰にも見つからない。
「……もう少し、……もう、少し」
小さく呟いて、自分を奮い立たせた。
いつの間にか、私の周りを針のような葉を持った高い木々が取り囲んでいる。
林に入ったのだろうか。
木々に覆われているおかげで、吹きすさぶ風や雪から少しだけ体を守ることができた。
けれど、それもあまり意味をなさない。
私は一本の木に手袋をはめた手をつくと、足を止める。
眩暈がした。
座り込みそうになるのを、なんとか堪える。
朝よりも、あたりは更に薄暗くなっている気がする。
こんなところで日が落ちてしまったら――
恐怖に、身が竦む。
嫌な想像ばかりが、頭をよぎる。
「いつも、上手くいかないのね、私は……」
頑張ろうと思っても、良くない方向へ進んでしまう。
「馬鹿、ね」
シェザード様を追うために、城から逃げた。
皆に助けてもらわなければ、もっと早くに同じような状況になっていただろう。
皆が私を助けようとしてくれているのに、私はその手を振り払ってしまった。
独りよがりで、身勝手で、――だから、罰を受けるのだろう。
「でも、それでも、……どうしても、会いたい」
泣くわけにはいかない。
涙はきっと凍ってしまう。
余計な体力を使っている場合じゃない。
今は一歩でも、先に進まないといけない。
でも――どこに向かえば、良いの。
「……蝶?」
真っ白な世界の先に、青く輝く蝶がひらひらと飛んでいる。
とうとう幻が見えたのだと思い、私は何度か瞬きを繰り返した。
けれど、その美しい蝶は、消える様子がない。
まるで、こちらに来てと、誘っているかのように、私に近づいては遠のいていく仕草を繰り返している。
意識が遠のくと、幻が見えるのだという。
もしかしたら私は今、雪の中に倒れていて、最後の幻想を見ているのかもしれない。
けれど、他に縋れるものはない。
私は蝶の導く方向へと、重たい体を引きずるようにして足を進めた。




