巡礼の旅
私は馬車の側面に隠れるようにしながら、ノア様の元へと向かった。
フランセスと同じく制服を着て、上から長いマントを羽織ったいつもどおりの豪奢なノア様は、私を大きな体の陰に隠すようにしながら密やかな声で言う。
「ルシル様、穏やかではない雰囲気ですね。何かありましたか」
「ノア様……、私、行かなければ。城から、出たいのです」
「城から?」
「シェザード様が、神の塔へ向かわれました。後を追いたいのです。そうしなければ、いけないのです」
「巡礼の旅は天候にさえ恵まれて居れば危険なものではありませんよ」
「それでも、……そうしないと、もう二度と、会えなくなってしまう。そんな気が、します」
私のたどたどしい説明に、ノア様は考え込むように眉根をひそめた。
それから大きく頷いた。
「ルシル様には、きっと私には見えない何かが見えているのでしょうね。……思えば、ルシル様と殿下。二人のお力で、今まで変わらなかったカダールは、大きく変わり始めています。神の塔に向かう理由は良く分かりませんが、それはきっとルシル様にとってとても大切な事なのでしょう」
「ノア様……、けれどノア様は私を助けたら、アルタイル様に咎められることになるかもしれません」
ノア様は騎士だ。
主君を裏切ることはしてはいけないだろう。私のために、ノア様に罪を犯させるわけにはいかない。
「私はルシル様を酷く傷つけたことがあります。……償いになるかはわかりませんが、ルシル様にとって城から出ることが重要だとしたら、喜んでアルタイル様に叱られますよ」
ノア様は力強く頷くと、美しく微笑んで下さる。
それから私の背中をそっと、城門の方に向けて押した。
「門番たちの気を私がひきましょう。それとも、共に行きましょうか」
「一人で大丈夫です。ノア様はその……、目立ちますから」
「自覚はあります」
ノア様は自分の顔に手を当てると、悩まし気に言った。
その仕草が面白くて、私は少しだけ笑った。
「ノア様、ありがとうございます。アルタイル様を、この国をよろしくお願いします。ユーリさんやセリカのことも。……沢山頼ってしまって、申し訳ありません」
「カダールの騎士は、教会の神官と同じく形骸化しつつありました。けれど、今、息を吹き返しつつあります。こちらこそ、ルシル様に感謝を」
ノア様はフランセスと同じように、「どうか、お気をつけて」と言って、私の手の甲に軽く口づけた。
私は吃驚したけれどそれを受け入れて、微笑んだ。
嫌な感じはしなかった。祝福を授けてくださっているような気がした。
「皆! アルタイル様がお呼びだ! 城の中で何か問題が起こったらしい。急ぎ、大広間へ迎え!」
ノア様は兵士たちに近づいていくと、大きな声をあげた。
門番や城の入り口前の兵士たちが、ノア様の元へと集まる。
私はまっすぐに、城門に進んだ。
雪道をブーツで踏みしめながら、駆ける。
私を呼ぶ声も、追う足音も聞こえない。
私は心の中で、アルタイル様やジゼル、フランセスやノア様にお礼を言った。
皆が私の為を思ってくれていることを思うと、じわりと目尻に涙が滲んだ。
私は――自分のことしか考えていないのに。
シェザード様には会えるだろう。
けれど、皆にはもう、会えないかもしれない。
(ありがとうございます、ごめんなさい……!)
何度も、そう繰り返す。
それでも私は、シェザード様に会いたい。
私はシェザード様を愛している。私にとって、それが一番大切で、私の中で唯一の誇れるもの。
雪の中で熱く燃え盛る、炎のような、ただひとつの燈火なのだから。
城門を抜けて王都の中心街を通り抜けようとしたときに、不意に誰かに腕を掴まれて、私は吃驚して足を止めた。
兵士の姿はなかった。
雪は降っていなくて良い天気だ
雪解けを待つ人々が、わずかな春の訪れを追いかけるようにして、往来を歩いている。
活気のある王都の街の中心の道。
路地裏は危険だけれど、人通りの多い大通りなら大丈夫だと思い込んでいた。
「ルシル様、どこに行くのです、そんな姿で」
私の腕を掴んでいたのは、ラディスさんだった。
傭兵斡旋所の元締めのような方だと、シェザード様がおっしゃっていた。
祝春の祭りの時に、一度だけあったことがある。
王都の争乱の時に、お父様が傭兵を集めたらしい。それ以後、お父様は度々傭兵斡旋所にお邪魔して、お酒を飲んだり話をしたりしているようだった。
「……ラディスさん」
「覚えていてくれましたか。それは学園の制服でしょう? とても目立ちます。学園の方向はこちらではありませんよ。一人で出歩いているのだから、何か事情があるのでしょうが」
「ごめんなさい。急いでいるのです。私……」
「どこに行こうというのです? 場合によっては協力できるかもしれません」
「……巡礼の旅に」
「そんな恰好で? 何の荷物も持たずに? 一日目で行き倒れますよ」
ラディスさんは呆れたように言った。
それから私を強引に引っ張って、ダイアナさんの店に向かった。
ダイアナさんは私の顔を見ると、目を丸くして駆け寄ってきた。
「ルシル……! あ……! ルシル様、でしたね、……お久しぶりです」
以前のように声をかけてくれたあと、思い直したようにダイアナさんは言葉遣いを変えた。
私はラディスさんの隣に立ち、ダイアナさんに会釈をする。
「以前と同じで、大丈夫です。私は、商家のルシル。そう思っていただければ……」
「でも、そういうわけには……、いえ、今はそんなことにこだわっている場合ではないわね。ラディスさんと一緒だなんて、何かあったの?」
「ルシル様は神の塔までの巡礼の旅に出るようです。詳しい事情は知りませんが、この姿で、何の荷物を持たずに行くなど、無謀にも程があるでしょう。ダイアナ、何か着るものを準備してさしあげてください」
ラディスさんが私の代りに端的に説明をしてくれる。
私はラディスさんの感情が分かりにくい、優しそうに見える横顔を見上げた。
「事情を、聞かないのですか……?」
「依頼主の詳しい事情まで踏み込まない。傭兵の処世術の一つです。それが善行か悪行かぐらいの判断はしますけれどね。ルシル様は逆立ちをしても悪行などは働かないでしょうから」
「それはそうよ。ルシルが悪いことをするわけがないわよ。顔を見れば、そんなことはすぐに分かるわ。……私と違って」
「ダイアナさん……」
ダイアナさんは昔――アダモス・ダルトワの恋人だった。
そんなことを、ヴィクターが言っていた。
「……ありがとう、ルシル。ラディスさんから、色々と聞いているわ。あなたやエドのおかげで、私は自由になることができた。暗い話はこれでおしまい。巡礼者には教会と女神の加護があり、大切に扱わなければいけない決まりがあるわね。巡礼者の衣装に着替えましょう、ルシル」
「その間に、食料とある程度の金銭を準備しましょう。フラストリア公爵に雇っていただいたときに、分不相応なほどの料金を頂きましたからね。その謝礼です」
「皆さん、……ありがとうございます」
私は何度も頭を下げた。
ダイアナさんは「気にしないで」と言って私を奥の部屋に連れて行き、白い長袖の神官服に白いマントの巡礼者の衣装に着替えさせてくれた。
背中に背負う形の布袋に、ラディスさんが干し肉やパン等の食料や、日持ちのする糖度の高い葡萄ジュースを詰めてくれる。
一度店を出たラディスさんの背中にぴったりとくっつくようにして、愛らしい女性が姿を見せた。
エレインさんだった。
「……ラディスから話を聞いたわよ」
一瞬身構えた私を、ラディスさんの背中から顔を半分ほどのぞかせて、エレインさんが挑むようにして睨んだ。
「あなた、巡礼の旅に行くのですって?」
「……はい。神の塔に、行かなくてはいけません」
返事をしないわけにもいかないので、私は小さな声で答える。
エレインさんはきょろきょろと店の中を見渡した。
「エドは、どうしたの? まさか、ひとりで行く気なの?」
「先に向かわれたシェザード様を、追いかけています。間に合うかわかりませんが、必ず、追いつくつもりでいます」
「良く分からないけれど、巡礼の旅というのは北の果てまで歩いていかなくてはいけないのでしょう? ラディス。ローリア家があなたを雇ってあげるわ。ルシルを塔まで守りなさいよ」
「依頼であれば、勿論」
ラディスさんはエレインさんの言葉に、すぐに頷いた。
「かかった日数分の倍額払ってあげるわよ。今は持ち合わせがないから、後払いでね」
「で、でも……」
「助けてもらったお礼よ。有難く受け取りなさい。それに、あなたのせいで失恋したのだから、あなたには幸せになってもらわなきゃ困るのよ。そうでなきゃ、もっと私が惨めになるじゃない」
「エレインは傭兵の男性たちからそれはそれは人気がありますよ、引く手あまたです」
「金持ちだからでしょ」
「まぁ、そうですね」
ラディスさんに言われて、エレインさんは頬を膨らませた。
それからラディスさんの服をぐいぐい引っ張ると「必ず守りなさいよ。ルシルに妙な気を起こすんじゃないわよ」と言った。
ラディスさんは笑いながら「エレインもルシルも、僕からしてみたら子供ですからね」と答えて、エレインさんに手の甲をひっかかれていた。
ダイアナさんとエレインさんに見送られて、私はラディスさんと共に王都の端にある北の果てへ続く巡礼の門へと向かった。
本当は教会で身を清めなければいけないのだけれど、「あんなものは形ばかりですよ」とラディスさんが教えてくれた。
教会は神官ばかりを贔屓して、女神の慈悲が必要な庶民の方々を受け入れていなかったのだという。
けれど巡礼の旅に出て、女神の神託を受けられたと噂に聞くのは、神官ではなく見捨てられた庶民の方々が殆どだったらしい。
教会も大規模な神官たちへの粛清で今大混乱のさなかにあるので、巡礼の旅に出る神官は今はいない。
いつもは行列ができている巡礼の門の前にも、人がぽつぽつといる程度だと、道行がてら話をしてくれた。