輪舞
ノア様は、ギルフォードがシェザード様の実の父であることは知らない。
けれど、エデンの出どころについては知っているのだろう。
僅かに不安そうな表情を浮かべて言った。
「何かあれば、すぐにカダールに戻るようにと二人には伝えてあります。それに、ユーリは先の争乱で良く武功を立てていた。我が国の騎士団でも十二分に通用するでしょう。留学は取りやめても良いのではないかと、話をしたのですが」
「グリーディアで自分の力を試したいのだろうな」
「はい。そうでしょうね。カダールは、平和ですから。長く続いていた平和の下には、汚泥が溜まっていますが」
「泥を清浄な水に変えるには、そう長くはかからないだろう。アルタイルが王になったのだから」
「私はアルタイル様を傍で支えていこうと思っていますが、殿下も何かあればいつでも私に声をかけてください。千里の道の向こうからでも、すぐに駆け付けましょう」
「あぁ、頼りにしている」
ノア様はもう一度、美しい所作で礼をした。
それから私に視線を向ける。
「セリカ嬢は、ルシル様にきちんと挨拶ができないことを本当に残念がっていました。ユーリはセリカ嬢をカダールに残していこうとしていたのですが、セリカ嬢の方が、ユーリを一人にすることが心配だったようですね」
「セリカは良く、ユーリさんを寂しがり屋だと言っていましたから。気がかりではありますが、手紙を待ちますね」
「ええ、……深刻な話はこのぐらいにして、今は祭典を楽しみましょう。せっかくの祝いの場なのに、失礼しました。クラリス様にも、申し訳ないことをしてしまいましたね」
「……い、いえ、私は大丈夫です。お姉様もお兄様も、重要な立場の方ですから、大切なお話が色々とあるのでしょう。私の方こそ邪魔をしていますよね」
クラリスはしおらしい様子で謝った。
ノア様の煌びやかさに完全に飲まれているようだ。
けれど遠慮がちでもきちんと言葉を話すことができるのが、クラリスらしい。
「そんなことはありません。……もしよければ、一曲いかがですか? 決まった相手がいるとしたら、引き下がるしかないですが」
ダンスホールでは、ゆったりとした曲調の音楽から少しだけ賑やかなものへと変わり始めている。
音楽の節目に何組かの男女がホールから抜けて戻ってきている。
踊り疲れた方々の代りに、若い方々が手を取り合ってホールに向かう。
「お姉様、私……、良いのでしょうか」
「クラリスが嫌でなければ、良いと思うわ。ノア様は、決まった婚約者の方もいないし、誰かに恨まれたりはしないでしょうし」
小さな声で私に尋ねてくるクラリスに、私はそっと耳打ちした。
クラリスはこくんと頷く。
「はい、ノア様、よろしくおねがいします。でも私、こういったところでダンスをしたことがなくて。不安なので、お姉様も一緒が良いです」
クラリスは差し出されたノア様の手を取った後に、私の手を引っ張った。
「私も?」
私は驚いて、クラリスの顔をまじまじと見つめる。
「……ルシルは、まだ病み上がりだ。あまり無理をさせたくない」
シェザード様が気遣うように言って首を振った。
クラリスは、はっとしたように目を見開いて、私から手を離すと「そうですよね、ごめんなさい」と言って俯く。
私はクラリスとシェザード様の顔を交互に見た後、シェザード様に手を差し出した。
「私はもう、元気です。それに私も、シェザード様と一度で良いから踊ってみたいと思っていました。こう見えても、一応は一通りの教育を受けてきているので、ダンスも講師の先生から合格点を貰っているのですよ」
「ルシル……、大丈夫なのか?」
「疲れたら、きちんと疲れたと言いますね。そういう約束でした。ずっと、前から」
私の体を気遣うシェザード様に、私は祝春のお祭りの日のデートを思い出していた。
シェザード様は私の言葉の意味が分かったのだろう。
目を細めて、微笑んで下さる。
「分かった。俺も教育は受けているが、実際にこのような場で、というのははじめてだ。上手くできるか、分からないが」
「じゃあ、初心者同士ですね。よろしくお願いします」
「良かった! お姉様とお兄様も初めてなら、私がいくらノア様の足を踏んでも、誤魔化すことができますものね!」
しゅんとしていたクラリスが、元気を取り戻したように明るく笑った。
「私は足の甲も鋼のように鍛えていますからね、どれほど足を踏んでいただいても構いませんよ」
ノア様が珍しく冗談めかして言うので、クラリスは「それでは、遠慮なく。何回足を踏んでしまったか数えていてくださいね」といつもの調子を取り戻して、言葉を返していた。
私はシェザード様に手を引かれて、ダンスホールへと向かった。
クラリスがノア様にエスコートされているのを横目に見ていたけれど、ダンスホールに辿り着くと、シェザード様と向き合う形になったので、周囲の様子はもう目に入ってこなかった。
遠くの方で「見てくれ、皆! 美しき我が自慢の娘たちだ! おい、ルノワール! 何故お前の息子がクラリスと……!」などと言っているお父様の声が聞こえた気がしたけれど、きっと気のせいだろう。
気のせいだと思いたい。
「……お父様、恥ずかしい……」
「微笑ましいな、父上は、ルシルたちを本当に愛しているのだろう」
シェザード様の大きな手が、私の腰に回る。
腰から背中にかけてを抱かれるようにされると、体が抱き合うように密着した。
呼吸の音が聞こえるくらいに、近い。
抱きしめられるのははじめてではないけれど、皆の前だと思うと妙に緊張してしまう。
指を絡めて手をあわせて、私はもう方の手をシェザード様の肩に触れさせる。
ダンスの講師の先生に習ったので、多分間違ってはいないと思う。
音楽に合わせて、足を踏み出す。
何も考えずに、私はシェザード様にあわせるだけで大丈夫だった。
シェザード様と踊ったのはこれがはじめてだけれど、何事も完璧にこなしてきたというシェザード様だけあって、とてもお上手だということが、ほんの少し踊っただけでわかる。
「……俺も、いつか娘が産まれたら、父上のようになりたいと思う」
「シェザード様がですか?」
「あぁ」
「皆が集まっている場で、私の自慢の娘だと言って、大騒ぎをするような父親に?」
私はくすくす笑った。
シェザード様が私を更に引き寄せる。
「そうなりたいな。恥ずかしいからやめろと言って、ルシルに、怒られたい。娘が二人、息子が一人、欲しいな。もっと、沢山でも良い。沢山、ルシルとの家族が欲しい」
「シェザード様、私は……」
「大丈夫だ、ルシル。……大丈夫だから、今は忘れろ」
「はい……」
明るい未来の話をする資格は、私にはない。
シェザード様も私の秘密を知っている。
けれど――希望に満ちた未来を想像してくださるのが、嬉しかった。
いつの間にか音楽が賑やかなものから、夜の星空を連想させる雄大な物へと変わっていった。
冬の夜の美しい星々を称えた、カダールの冬を祝う特別な曲だ。
ホールには、気付けば私たち以外誰もいなくなっていた。
アルタイル様が、クラリスとノア様が、レグルス先生とフランセスが、それから、お父様やお母様、皆が、私たちを見守ってくれている。
シェザード様の堂々とした姿が、誇らしかった。
こんなに――沢山、思い出ができた。
音楽が終わるまで、息切れをせずに踊り切ることができた。
見ていてくださっている皆様に、スカートの端をつまんで一礼すると、会場に拍手が沸き上がった。
まるで、奇跡みたいだ。
きっと――大丈夫。
私は最後まできっと、笑顔でいることができる。
こんなに、幸せなのだから。