アセラ・グリーディア
カストル陛下はシェザード様から視線を外し、アルタイル様の方へと向いた。
「アルタイル、どういうつもりだ。勝手に兵を動かしたのはやはり、シェザードの入れ知恵だったのだな」
「父上、何度も説明させて頂いている通り、僕たちには民の命を脅かす悪鬼から、民を守る責務があります。エデンとは、恐ろしい薬です。実際何人もの民がエデンの犠牲になりました。僕たちは王族として、戦わなければならなかったのです」
「お前はまだ若く、即位もしていない。正義感だけではどうにもならないことが沢山ある。お前は、お前達は何も分かっていない……!」
カストル陛下は取り乱しているように見えた。
その態度はあからさまに――これから告げられることを、恐れているようにも感じられる。
「ルシル・フラストリアを救いたかった。それだけだろう。それを、民のためとは。シェザード、お前は民よりもルシルが大切なのだろう? お前は自分勝手で傲慢だ。だが、まあ良い。もう全ては終わった。このまま静かに立ち去れ。余計な詮索は、誰のためにもならない」
陛下は深く息をつくと、どこか投げやりな口調で言った。
その声音には、長い年月をかけて本棚の裏側に降り積もった埃のような、静かな疲労が漂っている。
「父上。……エデンの出所が分かりました。同じことが二度と起こらないように、グリーディアの王と話し合いの場を持って頂きたい」
シェザード様の言葉に、カストル陛下は軽く首を振った。
アセラ様の表情は、カストル陛下の陰に隠れてしまっていて、見ることができない。
「グリーディアと我が国は対等ではない。此度のこと、グリーディア王家は関わっていないだろう。それは、不要だ」
「母上は、元々グリーディアの王族でしょう。母上の言葉ならきっと聞いてくれる筈なのでは?」
「シェザード。下がれ。ルシルを救うことができたのだから、お前はそれで満足だろう」
「これは、私にも関係のあることです。……エデンを我が国の人間に売りつけた者の名前は、ギルフォード・スレイブ。その名を……母上は、よくご存じなのでは」
「嫌……、嫌、やめて……! 聞きたくない、聞きたくない……!」
今まで何も言わなかったアセラ様の悲鳴じみた声が、雪見台に響き渡った。
カストル陛下はアセラ様に駈けより、床に膝をついてその手をきつく握りしめる。
「シェザード! 今すぐこの場から立ち去れ! アセラを苦しめるな……!」
「……今まで兄上を苦しめていたのは、あなたたちです。理由も分からず冷遇されてきた兄上がどれほど苦しかったか。それでも兄上は、何も言わずに耐えていたではないですか。せめて、真実を告げることから逃げないで頂きたい」
アルタイル様の言葉は、鋭利な刃物のように、冷たく響く。
普段は穏やかな美しい顔立ちには、怒りの色が濃い。
シェザード様も、だけれど、アルタイル様もまた、耐えていたのだろう。
自分だけ優遇されていることをただ純粋に受け入れるなんてできない程に、優しく聡明な方なのだから。
「怖いの、嫌、嫌……っ、助けて、助けて、カストル様、薬を……、薬をください……、楽になりたい……」
「あぁ、アセラ。大丈夫だ。私はここにいる。怖いことなどなにもない」
「……父上、まさか、母上に……エデンを」
シェザード様が言う。
私は口元に両手をあてた。
そんな――それは、あまりにも、残酷だ。
カストル陛下はエデンの売買を許可していた。
それは――アセラ様に飲ませるため、だったの?
「黙れと言っている。三人とも、下がれ。全ては終わった。王位はアルタイルに譲る。私とアセラの平穏を壊さないでくれ」
「父上、私は不義の子なのでしょう。ギルフォード・スレイブと、母上の間にできた、子供。だから父上は私を疎んだのでしょう?」
「シェザード!」
「いやぁ!」
国王陛下は立ち上がり、シェザード様に掴みかかった。
襟首を鷲づかみにしてシェザード様を睨み付けるカストル様の腕を、アルタイル様が引き剥がそうとしている。
シェザード様の方が力が強いのは明らかだ。振り払うのは容易なのだろうけれど、カストル様に暴力を振るうことを躊躇っているのだろう、戸惑った表情でなすがままになっている。
そしてそれは、一瞬のことだった。
カストル様が離れ、ソファに一人残されたアセラ様は悲鳴と共に立ち上がり、窓辺まで駆ける。
開け放たれた窓の外には小さなバルコニーがあり、眼下には雪原が広がっている。
あぁ――落ちる。
落ちる。
落ちたら、――死んでしまう。
「駄目!」
私はバルコニーまで、走った。
私の足に、こんなに力があったのかと思えるほどに、動くことができる。
ただ、夢中だった。
アセラ様が身を投げてしまったら、母親を言葉で追い詰めて自死させてしまった、消えない傷が、シェザード様にもアルタイル様にもずっと、残り続けてしまう。
ヴィクターの最後が、脳裏を横切る。
あの人も、この世界から、逃げた。
(死は、安寧。そうだとしても……)
いつか、夢の狭間でネフティス様が言っていた言葉を思い出す。
死は安寧かもしれない。
けれど――
「アセラ様……!」
私はバルコニーから飛び降りようとしているアセラ様の腰に飛びつくようにして抱きつくと、思い切り後ろに引っ張った。
バルコニーの床は凍っている。
アセラ様を部屋の方向へと投げ飛ばすようにして引き戻した衝撃で、私の体がぐらりと傾いた。
体勢を崩して、バルコニーの手すりの方向へ転んだ私は、そのまま体の重さに引きずられるようにして、外側に投げ出されそうになる。
「ルシル!」
ふわりと空に投げ出されそうになった私の体を、シェザード様が手を掴んで思い切り引っ張り、その腕の中に抱き込んでくださる。
心臓が、激しく脈打っている。
私は目を見開いて、促迫した呼吸を繰り返した。
今度こそ――駄目かと思った。
私の役割は、ここで終わったのかとも、と思った。
けれどシェザード様は、いつでも私を守ってくださる。
私はシェザード様の背中にしがみつくように腕を回した。
今更、両足ががくがくと震えるような恐怖に全身が支配される。
怖い。
でも。
王妃様が無事で良かった。
カストル様がアセラ様を抱き上げて、何度も「アセラ、無事で良かった。馬鹿なことはするな」と繰り返し言っていた。




