狭間に揺蕩う
苦しい。
――苦しい、苦しい。
「ぇど、エド……」
目を開いているのに、何も見えない。
意識が損なわれているわけではない、頭の中は妙にはっきりしている。
向日葵が、百合が、風に揺れる。
夏の香りが充満した庭園でシェザード様が私に手を差し伸べている。
――もう、楽になって良い、ルシル。
十分に苦しんだ。十分に、頑張った。
シェザード様が、私を認めてくれる。褒めてくれる。
力強い腕に抱きしめられたい。髪を撫でて欲しい。深く、繋がりたい。
ずっと、ここで、何もかもを忘れて。
「ルシル、俺はここにいる。どうか、頑張ってくれ」
遠くから、別の場所から、声が聞こえる。
背中をさする手。
無理矢理、胃の中を液体で満たされている。気持ち悪い。気持ち悪い。強い吐き気を感じる。
口の中に、長くて硬い物が押し込まれる。
指。
誰かの、指。
気持ち悪い。嫌。怖い。
ぼろぼろ涙が流れた。思い切り噛みついたけれど、指は喉の奥まで差し込まれた。
「許せ、ルシル。全部、吐き出せ」
「なるだけ全て吐き出させてください。解毒剤は所詮は付け焼き刃です、飲み込んだエデンの成分が全て体に回ってしまえば、助かる見込みは薄い」
「あぁ、分かった」
シェザード様と、――これは、先生の、声。
げほげほと咳き込む私の背中を、大きな手のひらが叩く。
庭園の幻想が、歪む。
ここに、いたいのに。
ここにいれば、苦しくないのに。
どうして、どうして酷いことをするの?
(違う、違うわ、私。まだ終わっていない。約束の日は、まだ来ていない)
「ルシル、もう一度だ」
再び口の中に水のようなものが流し込まれる。
飲み込みきれないものが、口角からしたたり首や胸を濡らした。
息が、苦しい。
吐き気がする。目眩も、酷い。
私を支える誰かの腕を掴む。指先に力が入らなくて、ずるりと手が滑りた。
「苦しいな、ルシル。俺が、変わってやりたい。すまない、ルシル。お前を失いたくない。どうか、頑張ってくれ」
祈るような言葉が、心に染み渡っていく。
(大丈夫、謝らないで。私は、大丈夫)
返事ができない。
どうか、悲しまないで欲しい。
私は、大丈夫。まだ、諦めていない。
庭園の花々が枯れていく。
シェザード様の姿がぼやける。
そこには、ネフティス様が立っていた。
『あなたは――まだ、続けるのですね』
ネフティス様が唇を開いた。
片腕のかわりに広がる、白い翼。
黒いヴェールで覆い隠された顔。
――ネフティス様の顔を見ることは、できない。
今まで私が見てきたネフティス様の幻想は、私をじっと見据えていた。
顔を、見たことがないのに。その瞳は、ヴェールに覆われていて見えないのに。
あれは――私の作り出したもの。
幻想のネフティス様の瞳は、その顔は、全て私の顔だった。
『あなたの役割は、もう終わりました。あなたの愛した人間は、あなたの望む幸せを手にするでしょう』
深く厳しくそして優しい声が、心の奥底に響く。
『生は、苦しみ。死は、安寧。それでもまだ、苦しむことを望むのですか』
「それでも、それでも、私は……」
――最後まで、愛していたこと。ずっと、愛していることを、伝えたい。
「残された、時間を、精一杯、生きたい。……シェザード様に愛していると、伝えたい。もっと沢山。呆れられるぐらいに、毎日。私の終わりの日に、胸を張って、女神様の元へいけるように」
『ルシル……、ええ。そうですね。迎えは、まだ』
女神様の口元が、ほんの微かに、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
深い湖の底へと落ちていくような、息苦しさを感じる。
目を開いていた筈なのに、世界が暗闇に包まれる。
おそろしさを感じて、私は手を伸ばした。
力強い手のひらが、私の手を掴む。
暗闇の底から、腐った手が何本も伸びて、私の服や足を掴もうとする。
黒い穴蔵から怨嗟の声が唸るように、啜り泣くように暗闇の中に響き渡る。
私の手を掴んだ大きな手のひらは、私を暗い湖の底から引きずりあげた。
潮の、香りがする。
波の音が聞こえる。
透き通るように、青い海の上に私は立っている。
「……首飾り」
海を閉じ込めたような色合いの石と同じ色の、海面がどこまでも広がっている。
私を掴んでいた手の感触はもう無い。
私は一人だ。
手のひらの中に硬い感触がある。握っていた手を開くと、そこには首飾りの硝子が、星のように光り輝いていた。
「――ルシル、起きろ、ルシル」
はっとして、目を開いた。
私を見つめるシェザード様の、不安と焦燥に彩られた宵闇のような紫色の瞳と目が合った。
「……え、ど」
「ルシル……、良かった、……戻ってきてくれたんだな」
汗で額に張り付く私の髪を、シェザード様が指先で優しく払った。
体が鉛のように重たい。
ベッドに体が張り付いているようだ。
長い夢を、見ていた気がする。
「まだ、起きるな。完全に、薬が抜けたわけではない。しばらくは、治療が必要だ」
「……ごめん……な、さい、私」
「謝らなくて良い。責任は、全て、俺にある。……ルシル、苦しいだろう。すまない」
「エ、ド……、愛して、ます」
「あぁ、俺も、ルシルを愛している」
良かった――、言えた。
シェザード様の瞳が、涙で潤んだ。