救い
女性の叫び声が、遠く聞こえる。
何かが倒れる音、物が、壊される音。
叫び声、怒声、私に伸し掛かる、男の張り付いたような笑顔。
「誰との約束だ、ルシル。言え。君はエドを裏切っているのか」
「……、裏切っている、私は、嘘つき……」
「君に死を命じたのは誰だ。それは、本当の死なのか。それとも、何かの比喩なのか」
「……私は、女神様の元へ、行く」
「女神などいない。そんなものは、まやかしだ。神官どもの作り上げた、虚言。民を従わせるためのもの」
「違います……、違う、女神様は、見ていてくださっています」
運命は変わらない。
女神様は、言った。
そう、そうね、多分、ーーその意味が、わかった様な気がする。
女神様は私たちの行いを見ているのだろう。ただ、見ている。そしてーー救いを求めれば、手を差し伸べてくれる。
本当に、必要な時にだけ。ほんの少し、だけ。
けれど何かを変えることができるとしたら、それは私たち次第でしかない。
私は度々女神様の幻想を見たけれど、あれは多分、私自身の姿。
私を咎める、私。
私を憐れむ、私の姿。
「カダールは、女神様の加護のある国。イシス様が輝く命を与えてくださり、ネフティス様が安らかな死を与えてくださる。あなたにも、きっと、女神の加護が、あります」
「くだらない、教会の戯言だね。経典を誦じたところで、君の身のうちに広がる楽園の効果が薄まることはない」
「っ、あなたにも、いつか、救いの手が……」
「聖女にでもなったつもりか、ルシル」
ヴィクターは苛立たしげに言った。
軽薄で感情の薄い口調とは違うもの。歪んだ口元と、深く寄った眉間の皺。瞳孔が、激しい感情によって収縮している。それは、本来のヴィクターの姿に見えた。
「もう、時間切れだね。最後に、俺にも口付けを与えてくれるかな、俺の天使」
感情をむき出しにしていた表情を、その口元を、ヴィクターは笑みの形に戻した。
扉の向こう側に視線を送った後、棚の上の陶器の入れ物の中身を乱暴に掴んだ。
棚から、陶器の入れ物が落ちて、ガシャンと音を立てて、床の上で砕け散る。
ヴィクターは手のひらの中に掴んだ丸薬を自らの口に含むと、私と唇を合わせる。
(気持ち悪い……)
口の中を、何かが這い回っているみたいだ。
シェザード様とのそれとは、まるで違う。切なさと幸福と、愛しさと羞恥心で溢れるような口付けを、思い出す。
呼吸を奪うように激しい時もあれば、軽く触れるだけの穏やかな時もある。
幸せ、だった。
口の中に異物の感触がある。ヴィクターが、私の口腔内に丸薬を何粒も押し込んでいる。
唾液で溶けたそれを、抵抗も虚しく飲み込んでしまう。喉から胃まで、それが落ちていくのがわかる。
舌が痺れるようなのに、けれど感覚は鋭敏になっていく。
現実が遠のいて、私に口付けているのが、シェザード様であるような錯覚に陥る。
涙が流れ落ちた。
違うと、頭の奥で否定しているのに、心が、都合よく現実を作り替えていく。
私を組み敷いているのが、シェザード様なのだと、現実が歪んでいく。
「ルシル!」
扉が、激しい音を立てて蹴破られた。
何人かの人たちが、部屋に雪崩れ込むように押し入ってくる。
ぼやけた視界に、煌めく銀色の髪が映る。
雪原に佇む白狼のような、美しく雄々しい姿ーー
「ェ、ド……」
声すら、うまく出なかった。
幻のなのかもしれない。今際の際に見る、都合の良い幻。
エデンには致死量があると言っていた。ヴィクターはそれをわかっていて、私に、丸薬を多量に飲ませたのだろう。
意識が、濁る。
「ヴィクター……!」
身を切られるような、怒りが滲んだ声音がヴィクターを呼ぶ。
私の上から引き摺り下ろされたヴィクターの腹に片足をかけて、シェザード様が剣を振りあげている。
「だめ、エド、駄目……」
力ない声で、私は言った。
その言葉が届いたのか、今まさに振り下ろされようとしていた剣が、ぴたりと止まった。
「殿下、ヴィクターは俺が! 殿下は、ルシル様を! レグルス先生に見せた方が良い……!」
「……あぁ、ユーリ、任せた」
良かった。
シェザード様が、人を傷つけなくて、良かった。
降ろされた剣に安堵したせいか、シェザード様の幻を見て安心してしまったからなのかはわからない。
私の意識は急速に、暗闇に落ちていった。
私を抱きしめる、力強い腕の感触がある。
どこから現実でどこから都合のよい夢なのかは、私にはよくわからなかった。
でもーー最後に、シェザード様に会えて、良かった。