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女神に見捨てられた人



 さらに強い目眩に襲われて、指先をかすかに動かすこともできない。

 ベッドに深く沈み込むような感覚がある。沈み込んだ底がぽっかりと抜けて、宙に放り出される。

 景色が混ぜ合わさって、黒い夜空の色になった。

 夜空の中で、ヴィクターだけが足を組んで私の前に佇み、微笑んでいる。


 まるで――女神、ネフティス様に会ったときのようだ。

 宙に浮かんでいるような黄金の神殿の主である、美しく荘厳なその姿を思い出す。


(女神様……、これも、私に与えられた罰なのですか……?)


 ネフティス様は何も言わずに私を見ている。

 否定も肯定も、その表情からは読み取ることができない。


(ネフティス様……)


 幻の女神様の姿がゆらりと揺れて消える。

 女神様は最後まで私の底の底までを見つめるような眼差しで、私を真っ直ぐ見据えていた。


「春に、君は死ぬ。それは、約束だから」


 ヴィクターが事実を確認するように、言った。

 誰にも、言うことができなかったのに。

 ――知られてしまった。

 でも――私は、誰かに話したかったのではないの?

 辛い。

 苦しい。

 死にたくない。

 ――すべてをさらけだして、誰かに、すっかり話してしまいたかったのではないの?

 知られてしまった罪悪感と共に、泣きたくなるほどの開放感が、体が軽くなるような多幸感として胸に広がっていく。


「誰との約束?」


 質問に答えることができずに、私は首を振る。


「言えない、のか。まだ、かな。分量が足りないのか、時間が、足りないのか。あまり一度に過剰に飲んでしまうと、致死量に到達してしまうからね。別に俺は、ルシルに死んで欲しいわけじゃない。だって、君は純粋で無垢な、汚れを知らない俺の天使なのだから。これから、たくさん穢してあげるよ」


 ヴィクターは目を伏せて、口角をつりあげる。

 何もない夜空に、ヴィクターだけが座っている。

 その姿形はとても綺麗なのに――黒い靄が、体にまとわりついているように見える。

 ヴィクターの内側から、汚泥が溢れて夜空に滴り落ちる。


「純白な君が傷つけば、さぞ、エドは苦しむだろうね。孤児と身分を偽って、人助け? 第一王子殿下が? あぁ、全く、馬鹿馬鹿しくて腹が立つ。富める者が、貧しい者を哀むとは、傲慢な偽善だ」


「……違う、……違う、わ。シェザード様、は、……苦しんでいたの。苦しみながら、それでも、誰かを……、助けていた。シェザード様の剣は、無力で弱い者には、むけられないわ。あなたとは、違う……!」


 荒い呼吸の狭間で、私はなんとか言葉を紡いだ。

 未だ、心の奥には炎のような怒りが灯っている。

 シェザード様を貶されるのは、許せない。

 ――何も、知らないくせに。


「まだ、そんなことが言えるんだね。凄いなぁ、ルシル。感服するよ、なかなかどうして、ご立派な精神力だ。そろそろ、俺に泣きながら縋ってくる頃合いだと思うのに。……そうだね、エデンがすっかり効くまで、退屈の慰めに俺の話をしてあげようか」


 ヴィクターが、震える私の頬をゆったりと撫でる。

 まるで、皮膚の上を小さな虫がたくさん這い回っているような不快感に、私は顔を背けた。


「王都の貧民街の――本当の孤児が、どんな扱いを受けているのか、君は知らないだろう。王都だけではない、この国の、無力で貧しい者たちが、どんな暮らしをしているのか」


「孤児院は教会が管理していて、きちんと施しを、しています……、皆が困らず、食べていけるように。お父様も、そう言っていました……」


「女神をあがめている教会だろう? 施しは、教会の肥えた豚どもが懐に入れる。残されたものは? カビの生えたパンがひとつきり。孤児院とは名ばかりの、人身売買の温床だよ。顔が綺麗なら、他の者よりは少しぐらいは大切にされる。売り物だからね」


「……そんな、そんな、はずは……」


「顔も知らない両親に赤子の時に捨てられて、ただの娼館では満たされない欲望を発散させるため、金持ちどもが訪れる場所で、生きていた。俺は、悟ったよ。無力さとは、罪だ。力が無ければ、何の価値もない。泣きじゃくり助けを求めていても、女神は現れない」


「女神様は、見ていてくれています。辛くても、苦しくても、正しくあれば、きっと……」


「どこまでも甘いね、ルシル。貴族の君が何不自由なく暮らしている裏で、何人もの子供たちが食い物にされている。食われるよりは、食う方が良いだろう? 力と金が、全てだ。孤児院から抜け出して、泥水を啜って生きていた俺を、アダモスが拾ってくれた。父さんが、力と金の使い方を、教えてくれた」


「苦しいから、辛いからといって、だれかを傷つけて良い理由には、なりません……」


「どうして泣く? 同情? 憐憫? それとも」


「……私は、無力、です。情けない……、何も、できない。……幼いあなたを、救うことが、できない。私には、誰も、救えない……」


 目尻にたまっていた涙が、はらはらと流れ落ちた。

 私はどうして泣いているのだろう。

 ヴィクターのことは、哀れだと思う。

 けれど、ヴィクターはたくさんの罪のない人たちを、傷つけている。

 それは――許されることではない。

 ――女神様にお願いして過去に戻り、幼いヴィクターを孤児院から救う?


(そんなことは、できない。……そうしたいとも、思わない。……私はシェザード様だから、……命が失われることが分かっていて、やり直しを望んだ)


「救って欲しいとは思っていないよ。父さんは死に、ファミリーのことはきっと、エドや、フラストリア公爵が潰してくれるだろう。俺は自由で、俺のことを知るものは、ここにはいない。俺は、ヴィクトル・レイル。心優しい医者の、ね」


「嘘つき……」


「全て嘘だよ。嘘も続ければ真実になる。さぁ、ルシル。そろそろ、どうかな。君は、誰と約束をした?」


「……っ」


 息が、つまる。

 喉を絞められているように、苦しい。


(シェザード様……、シェザード様に、会いたい)


 女神様は、死の運命は免れないと言った。

 けれど――春まで生きていられるとは、言っていない。


 私は――もしかしたら、ここで。


 もっと、好きだと伝えれば良かった。

 愛していると、毎日、伝えれば良かった。

 終わりを迎える最後まで、精一杯、シェザード様に気持ちを伝える。

 ――それだけが、私にできる、唯一のことだったのに。



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