レグルス・フリューゲル
レグルス先生は、はじめて気づいたような表情を浮かべて、腕の中のフランセスから両手を離した。
口を塞がれていて苦しかったのだろう、フランセスははぁはぁと肩で息をした。
時折むせ込んでいるその小柄な背中を、ノアが軽くさする。
そんなフランセスの様子を気にすることなく、レグルス先生は感情のあまりこもらない声音で言葉を続ける。
「今の話、気になることが一つ。差し出がましいようだが、口を挟んでも良いだろうか」
「勿論です。先生は、ヴィクターを知っているのですか?」
今は、少しでも情報が欲しい。
俺が尋ねると、レグルス先生は少し考えるようにして沈黙した後に頷いた。
「あぁ。少し前の話だ。王都にエデンという薬物が出回り始めたとき、知的好奇心からその出所を探った。毒にも薬にもなる珍しいものだと聞いて、気になってな。人を廃人に変えることもあれば、病人を苦しみから救うこともある。代償は、大きいが……」
「レグルス先生は、お若い頃は医師をしていたと聞いたことがあります」
ユーリの言葉に、先生は軽く頷く。
「今も十分若いが、もっと若い頃は医師をしていた。己の無力さに嫌気がさして、挫折し、今は、教師をしているのだけれどね。……そんなこともあって、一体誰がそのような薬をつくったのか、と。薬が多く出回っている貧民街へと向かい、買い付けた」
「そんな、危険なことをしていましたの……?」
呼吸が落ち着いたらしいフランセスが、とても心配そうな表情を浮かべる。
レグルス先生はフランセスをちらりと見ると「あぁ、君たちからすると危険だろうが、医師として時折、貧民街に出向くこともあるから、特に危険や怖さは感じない」と言った。
「そこで、買い付けるついでの世間話で、ヴィクターの名前を聞いた。エデンの出所は、グリーディア王国。買い付けをしているのはヴィクターで、独自のルートがあるのだと言う。エデンを管理しているのはグリーディアの騎士団で、グリーディアでは民にまでは広まっていないらしい。あちらでは危険だと、理解しているのだろう」
「グリーディアですか……」
アルタイルが腕を組んで、ぽつりと呟いた。
「面白おかしく吹聴してくれたよ。アダモスファミリーも一枚岩ではないのだろうね。危険な薬を危険だと分かっていて誰にでも売るヴィクターは悪魔だと言っていた。医者の真似事をしはじめたのかと思ったら、悪魔になって帰ってきた、と」
「医者の真似事?」
薬を売るから、という意味だろうか。
「あぁ。アダモス・ダルトワは病気で、ヴィクターはそれを治すために王国で一番腕の良い医者の元へ、医学を学びに行ったのだという。ファミリーの連中にとっては、アダモスが病死すれば後釜を狙える。ヴィクターのことを愚かだと言って嘲っていた。全く、口が軽いことだ。……部屋に焚かれていたエデンのせいも、あるのだろうけれどね」
「先生も、その、エデンを……」
ノアが恐る恐る尋ねると、レグルス先生は深く頷いた。
「あぁ、買い付けたものは使っていないよ。成分を調べはしたけれど。部屋に焚かれていたものは、吸った。強い酒を飲んだ感覚に似ているだろうか、現実の認識が曖昧になり、感覚が鈍磨する。けれど、頭の中は冴え冴えとしている、妙な感覚だった。依存性があるというのも頷ける」
「そんな……、先生、大丈夫なのですか……?」
「夏期休暇の間随分共に過ごしたが、私に妙なところがあっただろうか、フランセス」
「ありませんでしたけれど……」
何があったかは知らないが、フランセスとレグルス先生は随分親しくなったようだ。
それにしても、ヴィクターが医者の真似事、とは。
アダモス・ダルトワは病に伏せっている。
そんな中で、ヴィクターに連れて行かれたルシル。
なんだか妙な胸騒ぎがする。
「すまない、話が長くなってしまった。……ヴィクターとは、そんなに単純な男なのかと、思って。ルシルを攫ったのは……、これは、あくまでも想像でしかないから、なんとも言えないが。だが、……王国で一番腕の良い医者、というところに引っかかる」
「それなら、エアリー公爵領のレイル先生に決まっておりますわ。不治の病の苦しみを楽にしてくれる薬も開発されて、王国中から患者が訪れていると評判で……、あら……?」
フランセスが胸を張って自慢げに言ったあとに、その言葉の持つ意味に気づいたらしく、両手で口を押さえて青ざめて、がたがたと震えだした。
その様子に見かねたのか、静かに成り行きを見守っていたセリカがフランセスの体を支える。
「……アルタイル、どうするべきだと思う?」
まずはアダモスファミリーを潰し、ヴィクターの居場所を探るのが順当だろう。
けれど、ヴィクターとルシルはもしかしたら、もうファミリーの息のかかった場所には居ないかもしれない。
今の話が本当ならば、エアリー公爵領にいる可能性も、考えられる。
「フラストリア公爵もいらっしゃっているのですよね。二手に分かれましょう、兄上。……本当ならば、兄上を旗印にして、ダルトワファミリーと真正面から戦いたかった。本当の王は兄上であると、民に示したかった。ですが」
「俺はそれを求めていない。王になるのはお前だ、アルタイル」
「……分かりました。僕はフラストリア公爵と兄上の後ろ盾を得て、兵を挙げた、ということに。兄上は、レイル医師の元へ。レイル医師こそ、ヴィクターなのかもしれません」
「ーーすぐに戻る。フランセス、レイルの診療所はどこにある」
「それなら、私が案内しましょう。なるだけ、足手まといにはならないようにします」
「シェザード様、俺も共に連れて行ってください。ルシル様を助けても、ヴィクターに逃げられては面倒でしょう。夏の間、ノア様に鍛えて貰いましたので、役に立ちますよ、きっと」
レグルス先生とユーリの申し出に、俺は頷いた。
可能性があるとするのなら、調べておく価値はあるだろう。
アルタイルは「こちらのことは僕たちに任せてください」と、ノアと共に俺たちを送り出してくれた。