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アダモス・ダルトワ



 白い服を着た女性が、患者さんたちが帰って行った扉から顔を覗かせる。そして「先生、今日はこれでもう閉めますね」と言った。

 ヴィクターは「今日もお疲れ様、あとは頼んだよ」と言って、私を連れて診察室から奥に戻った。

 死の香りの充満したあの部屋に戻るのかと思ったけれど、診療所の奥の廊下をあの部屋とは反対方向に向けて足を進める。

 私の腕はヴィクターに捕まれていた。半ば引きずられるようにして、私はヴィクターに従った。


 布や桶に入った水を持って忙しなく働いている女性たちに「何かあったら声をかけて」とヴィクターは言った。

 女性たちはどことなく浮ついた表情を浮かべて「分かりました」と返事をした。

 すれ違いざま、私に何か言いたげな視線を向けている方も少なくなかった。


「……っ、たす、けて……、この男は、先生なんかじゃない……!」


 耐えきれず、私は女性のひとりに助けを求める。

 女性は驚いたように目を見開いた。


「先生、こちらの方は……」


「あぁ……、この子は、少々気を病んでいてね。ご両親から、どうにもできないと泣きつかれて。俺がみていないと、何をするか分からないから、こうして傍に置いているんだ」


「大変ですね……」


「違っ、私は……!」


「ほら、行くよ。少し休憩しよう。ずっと何も食べていないだろう? 食事を取らないと、もっと弱ってしまう」


 私の話は――ここでは、信じて貰えない。

 女性は同情するような視線を私に向けた。「お食事、いつものように二階に準備しておきました」と言った。

 ヴィクターは優しげな笑みを浮かべて私の手を握ると、廊下を抜けて階段を上がった。

 二階は居住空間になっているようで、ダイニングのテーブルに水差しと葡萄酒とグラス、ティーポットと、カップ。ローストされた鳥肉や野菜が挟まっているパンが置かれている。

 ヴィクターは私を椅子に座らせた。それからポットからカップに紅茶を入れて、私の前に置いた。


「飲んで、ルシル。素直に従った方が良い。君は俺の元から逃げるつもりだろう? 飲まず食わずで弱ってしまえば、逃げることもままならない」


「……そう、……そうですね」


 ヴィクターは私の正面に座って、グラスに入った葡萄酒に口をつける。

 葡萄酒は珍しい薄桃色をしている。

 フラストリア公爵領で出回っている物はもっと色が濃い。

 確か――フランセス様の、エアリー公爵領で盛んに栽培されている、新しい品種で、白葡萄酒と赤葡萄酒の中間ぐらいの味わいのものだ。フランセス様がいつかのパーティーで自慢気に話をしていたことを覚えている。

 ここは、王都ではないのかしら。

 私は紅茶に口をつけた。

 紅茶はまるで味がしなかったけれど、喉のひりつきが少し癒えた。


「……あなたは、残酷なことをしているのに……、どうしてあの女性たちは、あの光景を見ておきながらあなたを信じているのですか」


「あぁ、世話人の女たちのことだね。彼女たちは金で雇っている。善意の労働者たちだよ。廃棄置き場の連中は、本来なら路地裏にでも転がって死を待つだけの者たちだ。動くこのできない木偶人形にベッドを与えて清潔にして、世話をさせている。そうすると――俺は、なんて優しい医者なのだろうと思われる訳だ」


「それは、優しさからの行動ではないのに」


「そこにどんな感情があろうが、関係ないんだよ、ルシル。薄汚い塵だと思っていても、哀れみの表情を浮かべて、可哀想にと一言言えば、それが真実になる」


「……どういうつもりで、医師をしているのです」


「父が病気だと言っただろう。……父というのは、アダモス・ダルトワ。俺を、地獄のような場所から拾ってくれた父。本当の両親はいない。貧民街の孤児院で育ち、物心ついたとき、そこから逃げた。貧民街を這いずるように生きていた俺に手を差し伸べたのが、アダモス・ダルトワだった」


「アダモスさんは、ご病気、なのですか」


「あぁ。体に、病気が巣くっている。治すことのできない病だ。まるで別の何かに侵食されているようにして、体の中に病気が広がっていく。最初に異変に気づいたのは俺だった。だから俺は――レイル先生の元に。アダモスは誰にも体を見せようとしない。医師としてある程度のことを学び、俺が、その病気を治す。そう思っていた」


 ヴィクターは切れ味の良さそうな光るナイフで、パンを切った。


「やがて父は、ただ生きているだけでも、体がひどく痛むようになった。俺は隣国に渡り、薬――エデンを、を買い付けた。だが、父に飲ませる前に、試す必要があった。だから先に、同じような症状を訴えている患者たちに与えた。実験だよ」


「……患者さんたちを、実験体だと思っているのですね」


「それ以外に何がある? 痛みが取れて、彼らは喜んでいる。俺も、試すことができて嬉しい。お互いに利がある」


「皆、あなたを信じているのに」


「俺を信じるのは、自由だよ。同時に、俺を疑うのも自由だ」


 ヴィクターは細かく切り刻んだパンを口に運んだ。

 私は――妙に、口が軽くなっているのを感じる。

 話もしたくないと思っていたのに。

 私の唇から、勝手にヴィクターに対する疑問が紡がれていく。


「ファミリーには、俺の他にも幹部がいてね。やがて、エデンについて聞きつけてきた他の連中が、それをほしがった。俺は連中に高価な値段でそれを売り、連中はさらに高価な値段でそれを売りさばいた。俺が命じたわけじゃない」


「でも、あなたが売らなければ……」


「どうかな。どのみち誰かが、グリーディアから手に入れてきただろう。エデンは便利でね、分量を少し変えるだけで、いうことを聞かない娼婦を大人しくさせたり、現実が認識できなくなるぐらいに、気持ち良くなることができる。……ひとを、正直にさせることも、ね」


「……あなた、まさか」


 私は紅茶のカップを見下ろした。

 半分ほど飲み終えた琥珀色の液体が、カップの中で不気味に揺れていた。




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