私の役目
――眠っているのだろうか。
図書館の奥は少しだけ薄暗い。
書棚の隙間から朝の光が差し込んでいて、そこだけが明るく輝いている。
差し込む光に埃の粒子がきらきらと舞っている。
銀の骨組みに深い赤色の天鵞絨がはられた椅子に座っているシェザード様は、長い足を持て余すように組んでいる。
学園の黒い制服に身を包み、外界から自分を守るように腕を組んでいる。
俯いた顔に、銀色の髪がかかっている。
首元で切られたやや短めの銀の髪は少し硬そうに見える。
触ったことはないけれど、ふわふわしているというよりは、つんつんと尖っている、というような印象がある。
ヤマアラシに似ている。
図鑑の絵でしか見たことはないけれど、シェザード様の髪を見ていると、あの不可思議なかたちをした動物の、針のような毛皮を思い出す。
伏せられた瞼には長い睫毛がはえている。
白い肌に、高い鼻梁。薄い唇は、涼やかに雄々しく空を飛ぶ猛禽類のようだ。
不機嫌そうに眉が寄っている。
眠っていても不機嫌なのかしらと、私はそろそろと音をたてないようにシェザード様に近づいて、その顔を観察しながら考える。
髪に、触れても良いかしら。
硬いのだろうか。
手に突き刺さるほどに硬いのだろうか。
時間が戻る前の私は、自分からこうしてシェザード様に近づいたりはしなかった。
触れてみようとも思わなかった。
――怖かったから。
シェザード様のことが好きなのに、怖いというのも妙だとは思うのだけれど。
嫌われるのが、怖かった。
怒りを内包した瞳で、睨まれるのが怖かった。
傷つきたくなかった。
――シェザード様の態度に怒ってくれて、気遣ってくれる、私に優しいアルタイル様と一緒にいる方が、居心地が良かった。
それでは駄目だ。
どうして良いのかはまだわからないけれど、それではいけないということだけは分かる。
だとしたら、一度目の私とは真逆の行動を取れば良い。
シェザード様に近づき、触れて、傷ついても良いから、――好きだと伝えたい。
「――っ」
髪に触れる直前で、私の手首はシェザード様の大きな手に捕まれて、触れることを阻まれてしまった。
「……ルシル」
低い声が不機嫌そうに私を呼んだ。
紫色の瞳が薄く開いた瞼の奥で、私を睨んでいる。
「お、起こしてしまいましたか、ごめんなさい……」
名前を――呼んでくれたわ。
こんな状況なのに、私は感動していた。
掴まれた手首が痛い。私の手首をつかんでも指が余るぐらいに大きな手は、体温が低いのかひやりと冷たい。
最後に私を抱きしめて泣いていたシェザード様が、今はとてもお元気そうだ。
一年間時が戻ったせいか、一年ぶりにあったような感慨で胸がいっぱいになる。
正確には、年末の晩餐会で挨拶をしたのが最後なので、半年ぶり程度なのだけれど、時が戻る前の記憶の方が私にとっては鮮明だから、そんな気がするのだろう。
「何故、ここにいる」
シェザード様は私の手首を掴んだまま言った。
「私の名前、……憶えていてくれたんですね」
ルシルと呼ばれたのは、数えるほどしかない。
挨拶もいつも私からで、シェザード様は私の顔を一瞥するぐらいで、「ルシル、今日も綺麗だ」などと、一般的な婚約者の方が挨拶のように言う賛辞は、口にしてくれないような方だった。
思わず感動して呟いた私を見据え、シェザード様は訝し気に眉をひそめた。
シェザード様は私の手首から手を離した。
それから、腕を組み直して溜息をついた。
「……今日は、入学式だろう。ここは図書館だ。式典用のホールは、校舎の横にある」
こうして長文を話すシェザード様というのは、珍しい気がする。
私は少しだけ痛む手首をさすりながら、お辞儀をした。
「ありがとうございます。もしかして、私のことを迷子だと思っていますか?」
「あぁ。随分と迷い込んだものだな」
会話が、続いている。
名前を呼んでくれただけではなくて、会話ができている。
口調は冷たいけれど、気遣いを感じた。
どうしよう。
正直にシェザード様を探していたと言うべきか、それとも迷ったのだと嘘をつくべきなのかしら。
逡巡した末、私は口を開いた。
「……シェザード様を、探していました。……ご挨拶、したくて」
私はシェザード様に嘘をつかなくてはいけない。
私がやりなおしていること、一年後にお別れがくること。
だから、それ以外は嘘をつきたくなかった。
「……俺を、探していた?」
「は、はい……、図書館には、偶然、通りかかったのです。扉が開いていたから、もしかしたらと思って」
「なんのための嘘だ? 迷っていたというならまだ理解できるが、俺を探してこの場所に来たとは思えない。偶然など、信用できない」
シェザード様の表情が冷たく凍る。
間違えてしまったみたいだ。
私はシェザード様がここにいることを知っていた。
嘘をついていると言われたら、そうなのだろう。
「……嘘ではありません。シェザード様に、会いたかったのです」
「フラストリア公爵に、そうして俺の機嫌をとるようにとでも命じられたのか?」
「違います……っ」
「それなら、なんだ。アルタイルと逢引の約束でもしていたか? 偶然俺がいたことに気づいて、慌てて誤魔化しているのか」
「アルタイル様?」
アルタイル様の名前が、ここで出てくるとは思わなかった。
首を傾げて鸚鵡返しに尋ねると、シェザード様は皮肉気に口角を歪めた。
「お前は、アルタイルに懐いているだろう。……婚約者が俺で、さぞ残念に思っただろうな」
「そんなふうに、思っていません」
「アルタイルもお前を憎からず思っているようだ。今からでも遅くない、婚約者を変えたいとアルタイルに泣きつくと良い。……どの道、俺がいる限り無駄だろうが」
「シェザード様!」
私は大きな声でシェザード様を呼んだ。
シェザード様とまともに話してこなかったせいだ。
そんなふうに思っていることを、私は知らなかった。
アルタイル様に対する劣等感と憎しみに、私のせいで拍車がかかっている気がする。
私は。
私のやるべきことは。
「私は、シェザード様の婚約者です! シェザード様は、私を校舎まで案内してください!」
「……何故俺が、そのようなことを」
私は必死だった。
シェザード様を怖がって遠慮していた私を、変えなければいけない。
一度死んでいるのだし、一年後には死ぬのだし、それに比べたら怖いものなんてない。
「私は! シェザード様に案内して欲しいです! 今日もシェザード様がお元気そうで、私はとても嬉しいです!」
「何を言っているんだ、ルシル」
「学園ではシェザード様とずっと一緒にいられると思い、楽しみにしていました。なにせ私たちは婚約者ですから……! さぁ、シェザード様行きましょう、手を繋いでください!」
良いわ、私。
とても良い。
もう覚悟を決めたわ。
環境のせいでねじ曲がってしまったシェザード様の根性を、この一年でたたきなおす。
私の愛と包容力で、シェザード様の心を救うのよ。
覚悟をしたせいか、今まで言えなかったのが嘘みたいに、はっきりとものを言うことができた。
私はシェザード様に片手を突き出す。
シェザード様は眉間の皺を深くして、私を睨め付けた。
けれど、怒鳴ったり、手をあげたりはしなかった。