診療所
私はヴィクターの用意した服に着替えた。
胸元に黒いリボンのある清楚な白いワンピースだ。ドレスと言うほどの派手さはなく、シンプルな作りになっているけれど、レースが幾重にも重ねられていて、動くとそれがひらひらと動いて華やかだった。
あの男の用意した服を着るというだけで、嫌悪感が皮膚を這い回るようだった。
私は――どちらかというと、気が弱く、大人しい性格だと思っていた。怒ったことも、数えるほどしかない。
けれどいまは、ふつふつとどうしようもない怒りが心を支配しているようだ。
まるで――今までためていたものが、全てあふれた、ような。
「着替えた? 予想通り、よく似合っているね。君の朝と夜の合間のような薄紫の髪にも、春の花のような桃色の瞳にも、白が似合う。さぁ、行こうか」
部屋から出ると、ヴィクターが薄く口元に笑みを浮かべて言った。
私は何も言わずにその顔を睨んだ。
褒められても嬉しくない。
それに、ヴィクターの口調は軽薄で、その言葉は全て偽りのように思えてならなかった。
「まるで子猫が毛を逆立てているようだね、ルシル。怒った顔も魅力的だ」
「ふざけないで」
「ふざけてなんていないよ。俺は、自分に正直だからね」
深い色合いの木製の床と、白い壁の廊下を抜けて、扉を開く。
そこには、一人用の小さなベッドがいくつか並んでいた。
ベッドには、何人かの人々が横たわっている。
その目は見開かれ、皆虚空を見つめていた。
私は両手で口をを押さえた。
――死んでいるのかと、思ったからだ。
けれど、彼らは小さなうめき声をあげていた。死んではいない。呼吸をしている。
若者から、年寄りまで様々で、皆一様に枯れ枝のように痩せている。
「ここは、廃棄置き場」
「……なんて、ことを。皆、生きています」
「死んでいるのも同然だよ。どうせもう助からない。彼らはこうなることを自分で選んだんだ」
ヴィクターは表情を変えることなく、その部屋を横切った。
ベッドの上以外にも、部屋の隅や床に転がっている者がある。
彼らは皆、焦点の合わない瞳で虚空をみつめていた。
「人間、こうなったら皆一緒だよね。富める者も、貧しい者も、皆同じ。薄汚い塵屑」
「皆、ご病気、なのでしょう? それなのに、酷い」
「病気。まぁ、病気だよね。幸せになる薬を使いすぎた、病気。幸福の代償はあまりにも高い」
「どういうことです?」
ヴィクターの言っている意味がまるで分からない。
「ルシル、彼らが哀れだと思う? 君は天使のように優しいから、薄汚れた廃人たちにも祝福のキスを与えられるのかな」
「いい加減にしてください。あなたが何をしたいのか、私には分かりません」
「何を。そうだね、君には、俺のことを知って欲しいんだよ。腐った藻ひとつ浮いていない清らかで透明な湖で泳いでいる美しい魚のような君に、この世界がどれほど汚れているかを」
「……あなたは、私を勘違いしています。私は、私の心は、綺麗なんかじゃない」
私は罪人だ。
ヴィクターと、同じ。
「君はそう思っているんだね。それは君が隠していることと、関係があるのかな」
「……なにを」
何を、言っているの。
何故、知っているの。
あのことは、誰にも言えないはずなのに。
含みのある笑みを浮かべたヴィクターは、死の香りが充満した部屋の奥にあるもう一つの扉を開いた。
さらに白い廊下が続く。
白いエプロンをつけた何人かの女性たちがすれ違いざまに、にこやかにお辞儀をした。
皆ヴィクターを怖がっていない。「ヴィクトル先生、患者様がお待ちですよ」と、怒ったように言う方もいて、ヴィクターはにこやかに「ごめんね」と答えていた。
皆私の存在を気にしているのか、ちらちらと私に視線を向けてはいたけれど、何も言わなかった。
「ごめんね、待たせたね」
「先生……」
さらに奥にある扉を開くと、ヴィクターは私を連れて机と椅子が二つ、診察台と思しきベッドの置かれた部屋に入った。
椅子には、三十台手前ぐらいのやややつれた女性が座っていた。
「調子はどう?」
ヴィクターは女性の正面にある椅子に座って尋ねる。
私は所在なく部屋の奥に立っていた。
見ていろ、ということだろう。
でも、どうして。
「おかげさまで、痛みがおさまりました。……娘の世話も、することができています」
「それは良かった。痛みが強くなければ、薬の分量は変えないようにね。一日一度だけ、朝飲んだらそれでおしまいだよ。それ以上は、体に毒だから」
「はい……」
「君の状態から考えると、……あと、半年は生きられるだろう。あまり、無理はしないで。娘さんは可愛いだろうけれど」
ヴィクターが同情するような口ぶりで言った。
『娘』と言われた途端に、女性の瞳に涙の膜が張った。
「まだ、五歳なんです。……私がいなくなることは、理解していないと思います」
「そうだね、その年ではね」
「私は、私はできるかぎり、たくさん思い出を作ってあげたい。私が娘を愛していたこと、最後まで愛していたこと、精一杯伝えたい。だから、先生、ありがとうございます。先生の薬のお陰で、元気なときと同じように、体を動かすことができています」
涙を流しながら、それでも女性は笑顔を浮かべていた。
――この方は、病なのね。
残りの命は、半年。
愛する娘さんのために、必死で生きている。
私は、ぎゅっと手を握りしめた。
私は――何をしているのだろう。
「それは、痛みをとるだけのものだよ。病気が治せるわけじゃない。無力で、すまないね」
「そんなことはありません、ありがとうございます、ヴィクトル先生」
女性は深々と頭を下げた。
私たちが入ってきた扉から、エプロンをつけた女性が紙の袋を持って中に入ってくる。
それを渡された女性は、深々と頭を下げて診察室から出て行った。




