ヴィクター/ヴィクトル・レイル
ふと目を覚ますと、薄茶色の天井が目に入った。
頭がずきずきと痛む。
一瞬――何が起こったのか、分からなかった。
目覚めると、私の手を握って眠っているシェザード様の秀麗な寝顔が目に入る日々を送っていた私は、ついいつもの癖でシェザード様を探した。
銀色の長い睫に縁取られた瞼がゆっくり持ち上がり、アメジスト色の瞳が薄らと見えて、私を見つめて――どこか安堵したように微笑むシェザード様。
「おはよう、ルシル。……お前がいると、よく眠ることができる」
「ルシルの手があたたかいからか、もっと、こうしていたいと思ってしまうな」
「眠りは浅い方だった筈だが、悪夢も、見なかった。……ルシルは、大丈夫か。……怖い夢を、見た?」
低く甘い声が密やかに言葉を紡ぎ、私の頬を撫で、髪を撫で、そっと口づけて抱きしめてくださる。
宝物みたいに、幸せな、日々だった。
「……っ、は」
陸の上で溺れる魚のように苦しさを感じ、私は喉に詰まった息を逃がした。
深く、呼吸を繰り返す。
(ここは、どこ。……ヴィクターの、屋敷?)
私は連れてこられた時の衣服のままだった。
青いドレスは乱れていて、とこどろころ破けている。
黒い繊細なレースの美しい手袋も、糸がほつれて裂けている場所がある。
体の痛みはない。どこか怪我をしている、ということはなさそうだ。
両手が動くことを確認し、そろりと足を動かしてみる。
(大丈夫、動く)
私は――まだ、生きている。
それなら、逃げなければ。
私の命はつながれている。あの少女は助かった筈だ。目的は、果たした。
それなら、私は。
(シェザード様の元へ、帰らなきゃ。……でも、帰って、どうするの。……帰って、……私は)
必ず助けると、シェザード様は言ってくれた。
きっと、私を探してくれているはず。シェザード様も、そして、案外血の気の多いお父様も、きっと。
私は、大丈夫。
まだ、絶望はしていない。
私の命が続いているのなら、まだ成すべきことがあるはずだ。
私は――ダルトワファミリーが許せない。
人の命を命と思っていないヴィクターも、それに従う方々も、そんなひとたちを野放しにしているこの国も。
シェザード様を傷つけるばかりの、この国が――許せない。
私の心の炎は、まだ消えていない。
(……ここがどこか、探りましょう。……詳しく調べて、……お父様やシェザード様にそれを、伝えることができれば)
この国を裏で牛耳っているようなおそろしい存在を、瓦解させるための何かが、得られるかもしれない。
私は無力だ。戦えるわけじゃない。
でも、それぐらいなら、私にもできるかもしれない。
私はベッドの上で上体を起こして、部屋を見渡した。
さして広くはない部屋だ。
小さな窓が一つと、白いダブルサイズのベッドが一つ。ベッドの横に小さなテーブルがある。
扉は一つだけ。
窓からは逃げられそうにない。まるで、牢獄みたいだ。
扉に視線を送ると、ゆっくりと木製の扉がぎ、ぎ、と耳障りな軋む音を立てながら、開いた。
「起きたね、ルシル」
ヴィクターが、中に入ってくる。
ヴィクターは、白いシャツの上に何故か、白い白衣を羽織っていた。
綺麗に髪を整えて、黒縁の眼鏡をかけている。
それだけで、冷たい眼差しが和らぐのか――どうにも、別人のように見えた。
「……驚いた? 結構似合うと思うんだけれどね。改めて自己紹介しようか、ルシル」
私は無言でヴィクターを睨んだ。
最低な男と話す言葉は、私にはない。
「そう怖い顔をしないで。俺の天使。そうして虚勢を張っている君も愛らしいとは思うけれどね」
私に近づいて頬に触れようとするので、その手を思い切り払う。
ぱしん、と乾いた音がした。
ふつふつと、暗い怒りが胸の底にたまっている。
今まで押さえていたものが全て、怒りの矛先を見つけたために、ヴィクターという存在に向かっているみたいに。
ヴィクターは振り払われた手を見つめて、口元に笑みを浮かべた。
「改めまして、俺はヴィクトル・レイル。ここでは、そう呼ばれている。ヴィクトル先生、とも」
「……先生?」
どういうことだろう。
話したくはないけれど、ヴィクターは私に暴力をふるう気配はない。
意図が分からず、私は尋ねた。
「おいで、ルシル。案内しよう。ここは、俺の診療所」
「……どうして、私を」
「深い理由はないよ。欲しくなったから。それだけ。でも今は、別の理由で、君に興味がある」
ヴィクターは私の手を引こうとした。
私はその手を払うと、一人でベッドから立ち上がった。
「あぁ、そうだ。先に着替えると良い。その姿では、皆に心配されてしまうからね」
ヴィクターはベッドの端をしめした。
そこには、新しい服が準備されていた。
私は自分の姿を改めて見下ろして、慌てて両手で胸を隠した。
ちぎれたドレスがずれて、肌がかなり露出していた。
「俺は外で待っているから、ゆっくり着替えて」と言って、ヴィクターは部屋から出て行った。
私は、唇を噛む。
けれど、言うとおりにする方が賢明だろう。
この姿では、逃げることもままならない。