張り巡らされた罠
抱えられた女の子のご両親と思しき男女が、人混みをかき分けて前に出てくる。
「ジュディ……!」
母親の悲壮な呼びかけに、女の子はぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
口を男の大きな手で押さえられているから、声が出ないのだろう。
(なんて、ひどいことを……)
身のうちを、怒りが支配する。
許せない。
(これだけ注目を浴びれば、フラストリア家の家名を出せば、私にもあの子が助けられるかもしれない)
力で勝てるはずはない。
けれど、――私には、フラストリア家の長女としての身分がある。
「ルシル」
シェザード様が私を庇うように前に出た。
腰に下げている剣の柄に手をかける。
騒ぎに気づいたのか、馬車から我が家の使用人も降りてくる。「お嬢様!」という焦ったような呼び声が聞こえた。
男たちはおよそ、十人ほど。
皆黒い衣服に身を包んでいる。人相の悪い顔に、ニヤニヤとした薄気味悪い笑みを浮かべている。
動く様子の無い男たちに違和感を覚えたとき――場違いな拍手が、その場に響いた。
「――やっぱり、ね。君ならそうすると思っていたよ、ルシル・フラストリア」
男たちの奥から、一際上質な黒衣を身にまとった、金の髪にアイスブルーの瞳の、人目をひくような整った顔立ちの男が現れる。
私は息を飲み、シェザード様の表情が険しくなった。
それは、あのときシェザード様と剣を合わせていた、ヴィクターという名前の男だった。
「どうしてお前が……」
「どうして。それは、君たちに会うためだよ、エド。俺は自分で言うのもなんだけれど、少々しつこい性格をしていてね。君たちのこと、調べさせて貰ったよ。ダイアナに尋ねたら、快く教えてくれた」
「ダイアナさんに、酷いことをしたのですか……」
「酷いことはしていないよ。あれは昔、俺の父の女だったんだ。父と言っても、俺には両親がいないからね、ファミリーの父のこと。アドモスに捨てられて、ファミリーから逃げた。昔なじみだったからね、穏便に、丁重に、扱わせて貰ったよ」
「――どういうつもりだ、ヴィクター」
低い声でシェザード様が尋ねる。
「ルシルという名前の商人の娘は、王都にはいない。それなりに、身分が高そうだと考えて、商人の次に貴族を調べ上げて、ね。一人だけ、いたのが、ルシル・フラストリア。フラストリア家の長女だった。エド、君のように偽名を使われると調べる手段はないけれど、本名は駄目だよ。足がついてしまう」
「私と、その子と、何の関係があるのです……、私に恨みがあるのなら、その子は関係ない。離してあげてください!」
なるだけ声が震えないように大きな声で私は言った。
ヴィクターは、優しげに微笑んだ。
優しげな笑みだけれど、底知れない怖さがある。
「恨み。恨みは、ないよ。俺は確かめたかったんだよ、ルシル。王都の学園は警備が厳重だからね、手が出せない。だから、夏の間フラストリア家に戻った君の動向を、部下に命じて見張らせていた。フラストリア家の中にいるかぎりは安全だけれど、いつかは外に出るだろうと思っていた」
でも、と、ヴィクターは首を傾げた。
「フラストリア公爵家の名義で、劇場の一等席を貸し切ってくれてありがとう。連絡が来たから、喜び勇んで準備をさせて貰ったんだ。君たちに会うための、準備を。知らなかったようだけれど、王国のこういった施設のほとんどは、俺たちの支配下にあるんだよ。この世の中で一番強いのは、なんせ金、なんだよね」
「ヴィクター、もう良い。その子を離せ。ルシルは、渡さない。これだけ目立つようなことをして、ファミリーの名を出したんだ。お前にとっても、不都合があるだろう」
「まだ話は終わっていないよ、エド。まぁ、落ち着いて。確かめたかったと言っただろう? 俺はね、――皆が見ないふりをする中で、ルシルだけは――この子を助けようとするんじゃないかなと、思ったんだよ。今時珍しい正義だ。女神の加護を受けた、女神に見捨てられたこの地獄で――他者のために、身を投げる愚かで愛しい天使の姿を、この目でもう一度見たかったんだよ」
「そんなことのために……、酷い……」
「そう思う? 人の命なんて、軽い。いくら奪おうと、どうせ産まれてくるのだから。ほら、見てごらん。俺たちが命を奪っても奪っても、こんなに大勢の人間が、優雅に暮らしている。俺たちのしていることなんて、草原の肉食獣と同じ。群れからはぐれたよわいものを、少しだけ食べている。そんなに悪いことはしていない」
「耳を貸すな、ルシル。ただの詭弁だ」
「エド、君は誰なのかな。……なんて、実はもう分かっているんだけどね。ルシル・フラストリアの婚約者。王家に見捨てられた無力な第一王子の、シェザード殿下。はじめまして。笑えるね、君の命令じゃあ、兵士は動かない」
「黙れ。兵が動かずとも、俺が動けば良いだけの話だ。俺に剣を向けるつもりか? 勝てるとでも、思うのか」
「思っていない。思っていないから、こうして、人質をとっているんだよ」
ヴィクターが視線を送ると、女の子を抱えている男がナイフを取り出した。
それを女の子の細く白い、小さな首へとぴたりと押し当てた。
私は悲鳴を上げそうになるのをこらえるために、両手を口に押し当てた。