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うわのそら



 シェザード様を観劇に誘うと、すぐに了承してくださった。

 夏は日が長いので、劇が始まるのは夕方の四時。休憩を挟んで三時間程度なので、午後七時には幕が閉じる。

 この季節の午後七時はまだ薄明るいけれど、公爵家と近郊にある一番大きな街は少し離れているので、帰ってくる頃には真っ暗になってしまう。


 夜道は危険だ。

 フラストリア公爵領の治安は王都よりは悪い。夜道を灯りを灯して走る馬車は、野盗の格好の餌食である。

 観劇のために服装を整えて出かける私たちに、お父様もお母様も「危険だから、別宅に泊まってきなさい」と何度も言っていた。

 クラリスも、私とのやりとりなんて何もなかったような笑顔で「気をつけて行ってきてくださいね」と見送ってくれた。


 春や秋の間は、もっと演劇の公演時間が早いのだけれど、今回はーーどうにも、人気の劇団ということもあり、劇団員の方々の我儘を聞いているらしいと、お母様が教えてくれた。

 劇の内容が、夕暮れの光が差し込む中で行った方が映えるから、なのだという。


「街に、公爵家の別邸があるのか?」


 公爵家から出発した馬車に揺られながら、シェザード様が尋ねる。

 黒のタキシードがよく似合っている。首元の赤いタイと、銀色のタイピンが、シェザード様の雪原のような銀の髪と相まってよく映えている。

 私は青いドレスに身を包んでいた。黒いレースの手袋と、大きく肩を出したデザインのドレスは、王国の最近の流行りだ。

 女性はあまり肌を見せてはいけないし、足を出すことは裸を見せるぐらいにはしたないと言われている。

 けれど首や肩はこのところ、王妃様が隣国のドレスを取り入れたデザインのドレスを着るようになったために、露出をした方がお洒落であるという認識が貴族女性の間では広がっていた。

 もちろんこれは、ドレスに限ってのことだ。

 日常着る服装については、そう大きな変わりはない。


「フラストリア公爵領にあるいくつかの大きな街には、別邸があります。お父様が視察に行かれたときに泊まったり、お母様とご旅行をされることもあります。劇場のある街はフラストリア家から馬車で一時間程度ですけれど、夜道は危険ですから……」


「そうだな。わざわざ危険を冒す必要はない。父上と母上の好意に甘えて、泊まるべきだろうな」


「はい……」


 シェザード様は、このおよそ一ヶ月の間でフラストリア家に随分と馴染んでくださったようだ。

 お父様ともお母様とも気兼ねなくお話するようになって、笑顔も増えてきたように思う。

 カイザルさんや、アンリさんとも親しくなり、クラリスのことも実の妹のようにーーとまではいかないけれど、大切にしてくれている。

 これならーー大丈夫よね。


 私がいなくても、シェザード様は、大丈夫。


 そう思うと、私の残りの生は、無益なもののように感じられた。


 無意味、無益、いらない、無駄、蛇足。


 私が、今いなくなってもきっと、シェザード様はーー


「ルシル、手を」


 ぼんやりしていると、いつの間にか劇場の前についていた。

 何台かの馬車がとまり、華やかに着飾った方々が中に入っていく。

 馬車から降りるために手を差し伸べてくださるシェザード様の手のひらに、自分のそれを重ねた。

 馬車の中で何か話していた気がするけれど、考え事をしたせいか、驚くほど何も思い出せなかった。


 御者をしてくれたフラストリア家の従者の方が、演劇が終わった頃に迎えに来ますと言って馬車と共に去って行った。

 私はシェザード様に手を引かれて、白い大きな柱に天使の彫刻が施された劇場の入り口を潜る。

 赤い絨毯がひかれた劇場の入り口は二つあり、貴族用のものと庶民用のもので分けられている。

 シェザード様がチケットを見せると、身なりを整えた案内係の男性が、私たちを劇場の奥へと連れていってくれた。


 お母様が言っていた通り、ホールに並んだひしめくような座席から離れた上階にある一等室は、貸切になっていた。

 元々、一等室には多くのお客様を入れないことになっている。

 広い部屋に座席は十席もない。

 高い場所から壇上を見下ろすような作りになっていて、演者の顔がよく見えるようにだろう、オペラグラスが用意されていた。

 案内係の方が静かに扉を閉じると、シェザード様と二人きりだ。

 シェザード様は室内の様子を興味深そうに眺めていた。


「このような場所には初めて来た。随分と、賑わっているな」


 ホールを見渡せる高台のバルコニー状になっている場所に立って、シェザード様は手すりに手をかけて眼下を眺めた。

 ホールの中は、着飾った方々でいっぱいだ。

 手前の低い席が庶民の方々ーー庶民といっても、お金のある方々なのだけれど。

 奥の高い場所が、貴族の方々だ。

 それぞれ、めいいっぱい着飾って、楽しそうに笑顔を浮かべている。

 期待と喜びの熱気で、ホールは満ちているようだった。


「私も、久しぶりです。いつもは、お母様とお父様に連れてきてもらって……、劇の途中で眠くなって、寝てしまったこともありました」


「ルシルが? お前はもっと……、なんというか、劇の最後まで姿勢を伸ばして、きちんと見ているような性格をしていると思っていたが」


「シェザード様は、私をとても真面目、だと思っています? どちらかというと私は、なんて言えば良いのか、……ぼんやりしているとか、のんびりしていると、お母様にはよく言われました。今はもう、寝てしまうことはありませんけれど、何せ子供の時でしたから」


「寝ても良い。抱き上げて、連れて帰る」


「そんな恥ずかしいこと、できません……」


 私は恐縮しながら言った。

 それから、ふとため息をつく。


「シェザード様が、退屈なさらなければ良いのですけれど……、劇の題名は「愛に散る花」、どうやら悲恋のお話みたいです」


「劇が退屈なようなら、ルシルを見ているから良い。お前と共にいて、退屈をすることなどないからな」


 座席に座っている私の隣の席に、シェザード様が座る。

 それから頬に触れて、そっと覆い被さるように口付けてくださる。

 同室で眠るようになってからーー口付けは、時折してくださるようになった。

 何度しても慣れない。嬉しいのに、恥ずかしい。そしてーー今日は、苦しい。

 頬を染めて俯く私を、シェザード様は愛しそうに見つめる。

 やがて、ざわめいていた会場が水を打ったように静まりかえり、役者の方のよく通る声がホールに響き渡った。



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