一年ぶりの邂逅
ノックの音に返事をすると、扉が開いた。
足首まであるスカートにエプロンをつけたすっかり朝の支度を整えた、侍女のジゼルが扉から顔を出す。
ジゼルは二十代前半の女性だ。
長年フラストリア家に執事として勤めている、ヒース家の長女である。
私が産まれた時から傍付き侍女として務めてくれている。
癖のある黒い髪に赤茶色の目をした大人の女性である。
私にとっては気安い姉のような存在だ。
「ルシル様、どうされました? まだ朝日がのぼったばかりです、起きるには早い時間ですよ」
心配そうな顔をして、ジゼルが言った。
ジゼルの顔を見ると、いつもの日常に戻ったような気がした。
一瞬、私が死んだこともネフティス様との邂逅も――全て、夢だったのではないかと。
――シェザード様に刺されたことが夢で、変わらない日常が現実なのではないかと。
(違うわ。……甘えたことを、考えるものではないわ、私。時間を戻して頂いたのだから、私が為すべきことを忘れてはいけない)
自分にそう言い聞かせて、甘えた考えを戒めた。
「ジゼル、……私、こわい夢をみたせいか、混乱してしまって。今日は、……いつだったかしら」
「大丈夫ですか、ルシル様。今日から学園が始まりますから、不安でしょう。ルシル様は、フラストリア公爵家から出たことがありませんでしたから、見慣れない部屋で眠って緊張してしまったのかもしれませんね」
「今日から、学園……」
ジゼルの言葉を私は反芻する。
今日から学園だとしたら、今日は四月一日。入学式の日だ。
カダール王国にある貴族学園は、王都カダールの一画にある。
学園を作ったのがガリウス王家なので、王立ガリウス学園と呼ばれている。
王家の子供も貴族の子供も、身分に違いはあれど皆、十六歳から十九歳まで、三年間を学園寮で過ごすことになっている。
つまり、私は十六歳。
「ありがとう、ジゼル。……今日から、学園なのね」
シェザード様の卒業式は一年後。
――私に残されている時間は、一年間。
「ルシル様、……お気持ち、お察しします。学園にはシェザード様がいらっしゃいますものね。怖いのでしょう」
「……っ、違うわ、ジゼル。そういうわけではないの」
私は首を振った。
シェザード様の婚約者に選ばれたのは十五歳の時。
私の九月の誕生日を過ぎたころのことなので、およそ二年前である。
そのころから私はシェザード様に惹かれていたけれど――シェザード様には、嫌われている。
そう、思っていた。
ジゼルには何度か話をしている。
挨拶ぐらいしか会話ができないのに、結婚したあとにうまくやっていけるのだろうか。
シェザード様は私を嫌っているのではないか、と。
だから、ジゼルは私がシェザード様のことを怖がっていると思っていた。
そして、私を苦しめているシェザード様に良い印象を抱いていないようだった。
「ジゼル、シェザード様が卒業なさったら、私たちは結婚する予定だわ。シェザード様は先にフラストリア家に入って、公爵としての仕事を学ぶ予定になっているわね」
「そうですね。シェザード様はフラストリア公爵となりますから、――今は第一王子といえども、公爵としての務めを学ぶ必要があります」
「そう。……だからね、ジゼル。せめて、結婚するまでの一年で、私はシェザード様と親しくなりたいの。……どうしたら良いのか考えていたら、あまり眠れなくて。……だから、妙な夢を見たのだと思うわ」
「……ルシル様」
ジゼルは気づかわし気に、私を見つめた。
私は大丈夫だと微笑む。
――嘘は、ついていない。
黒地に金の縁取りのある制服の首に、赤いリボンが揺れている。
春とはいえまだ少し肌寒い気候なので、長袖である。
黒いタイツに、膝丈のスカート。
王立ガリウス学園の制服を着た私は、早めに寮をでてその足で図書館へと向かった。
ジゼルは私の決意を「シェザード様にはいろいろな事情があるのでしょうけれど、ルシル様ならきっとそのお心をとかすことができると思います」と言って、応援しくれた。
時間が巻き戻る前のジゼルは良く「どうしてルシル様の婚約者がシェザード様でなければならなかったのでしょう、アルタイル様ならどんなに良かったか」と嘆いていた。
ジゼルの嘆きは、私の態度に問題がある。
今ならそれが良く分かる。
灰色の壁にいくつもの窓がある女性用の寮の建物を抜けて、入り口の門を出ると道が二つにわかれている。
一つは校舎に続く道で、もう一つは校舎の手前にある図書館や礼拝堂への道だ。
道の両端に植えられている背の高い木々が、風にさわさわと揺れている。
朝の空気は冷たい。
誰もいない道を歩いていると、幾分か頭がすっきりしてくる。
「……仲良くといっても、どうしたら良いのか」
私は最後に見たシェザード様を思い出す。
シェザード様がアルタイル様を刺そうとしたのは、王になれない鬱憤をぶつけるためだろう。
けれど実際その刃が奪ったのは、私の命だった。
シェザード様は、私の名を呼びながら泣いていた。
「嫌われては、いないと思って良いわよね、多分」
でも――万が一私を好きになってくれたとしても、一年後にはお別れが待っている。
「私がやるべきなのは、好きになってもらうことではないのかもしれないわ」
シェザード様が私を好きになってくれたら、嬉しい。
嬉しいけれど、どのみち私はシェザード様を残して死ななければいけない。
「アルタイル様はご両親に愛されて育てられたけれど、シェザード様は冷遇されていた。愛されないって、つらいわよね」
図書館は円柱形のつくりの建物である。
白い柱のある、どことなく神殿を彷彿とさせる場所だ。
その横にあるのは、礼拝堂。
愛らしいつくりの礼拝堂には神父様が在住していて、生徒の悩み事を聞いたりしてくれる。
入学式の前に図書館に向かったのは、別にひとりになりたかったからでも、本が読みたかったからでもない。
扉にある取っ手へと手をかける。
夕方から朝にかけては施錠されているはずなのに、扉はあっさり開いた。
息が詰まるほどの静寂の中、本棚の合間を縫って奥へと進む。
本棚に隠れるようにして並んでいる休憩用の椅子で、制服を着たすらりとした長身の男性が目を閉じて休んでいるのをみつけた。
恐る恐る近づいていく。
――どうでもよかったから、図書館で寝ていた。
そんな言葉が脳裏によぎる。
それは、私の入学式の日に挨拶にも来なかったシェザード様を、アルタイル様がせめたときの、シェザード様の返事だった。
『兄上、ルシルはあなたの婚約者でしょう。入学を祝いに来るのが、あなたの役目なのでは?』
アルタイル様はそう言って、入学式の帰り道に偶然見かけたシェザード様に詰め寄ったんだっけ。
私はシェザード様の返事が怖くて、アルタイル様の影に隠れてびくびくしていた。
シェザード様はつまらなさそうに、私のことを『どうでも良い』と言った。
それから
『随分と、ルシルを庇うのだな、アルタイル。人のものが、欲しくて仕方ない顔だ』
と言って、アルタイル様を嘲った。
あまり良い記憶ではないけれど、シェザード様は嘘をついていなかった。
本当に、図書館にいたのだわ。
私は感心しながら、その作り物めいた綺麗な顔を見つめた。