フラストリア家への帰郷
暗くなってからの移動は危険なので、夕暮れになる前にたどり着いた、王都とフラストリア領の中間にある街で一泊した。
既にアンリさんが手配をしてくれていたようで、王都よりは小さいけれど、中心地に近く栄えている街の質の良い宿で体を休めた。
流石に、シェザード様とは同室ではなかった。
私の世話をしてくれるジゼルに「同室の方がよかったですか、お嬢様」と揶揄うように言われて、私は顔を赤くした。
「来年には正式な夫婦になるのですから、それを思えば同室でも問題はないのかもしれませんね。お嬢様も、もう十六歳。九月には、十七歳になりますし」と、ジゼルはしみじみと言っていた。
王国の貴族女性が婚姻を結ぶ年齢はおおよそ十六歳から、十八歳程度。
貴族女性の役割は血を繋ぐことなので、体が女性として十分発育していることが求められる。
王国の法律では結婚できる年齢は十六歳から。
だから、私はもう適齢に達していて、今すぐシェザード様と婚姻を結んでも特に問題はない。
それが来年とされたのは、シェザード様が学園を卒業される年で、丁度区切りが良いからである。
私はーー例えば、在学中に子供をもうけたとしても、特に問題はないとされている。
むしろそれは、良いことだとお祝いをされるだろう。
学園は退学することになるけれど、基礎的な教育やマナーは入学前に終わっているので、特に問題視はされない。
子供を授かったことが理由だとしたら、喜ばしいことなので、卒業証書はきちんと貰えることになっている。
ーー口付けは、したけれど。
それ以上、と思うと、何も考えられなくなってしまう。
それにーー私がもし、子供を授かったとしたら。
一体どうなるのだろう。
私が失われてしまえば、きっと、同じように、お腹の子供もーー
それがわかっていて、無責任な行動は、取れない。
もちろんーー私が、ずっとシェザード様のそばにいられるのなら、生きていられるのなら、子供がたくさんいる幸せな家族になりたい。
それは叶わない夢だ。
宿から出立して、昼過ぎにはフラストリア領に到着した。
フラストリア公爵領は、王都よりも森や草原が多い。平野が続いている場所で、起伏が少ない分水害が起こりやすいのだとお父様が言っていた。とはいえ、大水が出ることは滅多にないし、山もないので雪崩も起きない。
冬には雪深くなるけれど、安定した気候の土地である。
「フラストリア公爵領の名産は、赤葡萄だったな」
馬車に揺られながら、シェザード様が口を開いた。
アルタイル様とのやりとりについては、何を言っても憶測にしかならないので、触れていない。
シェザード様の不遇の理由を探るべきなのかどうか、今の私にはよくわからなかったからだ。
シェザード様の言う通り、フラストリア姓になってしまえば気にすることでもないのかもしれない。
それでも、真実をつきとめるべきなのか、ただの邪推でしかなくて、真実なんてものはどこにもないのか、わからない。
ただーー何か、よくない予感もしている。
まるで触れてはいけない何かが、そこにはあるような、不安で落ち着かない感覚だ。
「はい。赤葡萄でできたジュースは美味しいです。お父様は葡萄酒を好んでいますね。シェザード様も、お酒に強そうですね」
私は不安を払拭するように、明るい声で答えた。
もうすぐフラストリア家についてしまう。
私はーーシェザード様と、クラリスの仲を取り持たなくてはいけない。
頭ではわかっているのに、感情がまだついていかなかった。
「あぁ、そうだな。弱くはないと、思う」
カダール王国では、十八歳が成人とされている。
十八になれば飲酒や、水煙草を吸うことを許される。
学園では基本的に禁止されているけれど、パーティなどではお酒も振る舞われて、嗜む方も多い。
「お父様がきっと喜びます。お酒の相手、誰もしてくれないと言ってよく嘆いていますから」
「ルシルの母君……、いや、俺にとっても母か。……シルフィール母上は、フラストリア公爵の相手はしないのか?」
「母は、父がお酒を飲みはじめると、逃げてしまうのですよ。しつこいし、絡まれるのが、嫌だと言って」
「そういうものなのか……」
「はい。お母様とお父様は仲が良いのですけれど、お母様は狩猟は嫌いだし、お酒も嫌いみたいです」
「ルシルは?」
「私、ですか」
「酒を飲んで暴れるようなことはしないが、お前が飲酒を嫌うのなら、飲まない。狩猟も、残酷なことが嫌いなら、控える」
「私に気を使わなくても大丈夫ですよ。でも、ありがとうございます。私は、シェザード様が楽しそうにしてくださっていたら、それが一番幸せなので、嫌なことは何もありませんよ。お酒、私は飲めませんけれど、一緒にいて、お話をすることはできます。狩も、ご一緒はできませんけれど、捕まえた獲物で作った料理を、ありがたく食べさせて頂きますね」
「……ルシル」
私の正面に座っていたシェザード様が、私の横へと移動した。
そっと抱き寄せられて、私は緊張に身を竦ませる。
触れていただけるのは嬉しい。
けれど、恥ずかしくて、心臓の鼓動が勝手に早まってしまう。
慣れることはできそうにない。
「口付けても、良いだろうか」
何度かそうされたことはあるけれど、尋ねられたのは初めてだ。
私は吃驚して、シェザード様の顔をまじまじと見つめた。
「あ、あの、ええと……」
みるみるうちに、頬が熱くなるのがわかる。
美しい紫色の瞳に熱心に見つめられただけで、落ち着かない気持ちになるのに。
「もうすぐ、フラストリア家につくだろう。フラストリア公爵や、母君の手前、二人きりになる時間は少ないだろうと思う。だから、……今、触れておきたい」
「……っ、……はい……」
真っ直ぐな感情に、胸が震えた。
頷いて、ぎゅっと目を閉じると、優しく唇が触れる。
触れるだけではなくて、ーーそれは、もっと深く激しいものだ。
私はシェザード様の服を力の入らない指先で掴んで、それを受け入れた。
泣きたくなるぐらいに幸せで、恥ずかしくて、苦しかった。
いつでも私は身勝手で、何一つ上手にできない。
今も、何度も頭の中で繰り返した決心が、揺らぎそうになっているのだから。