春の終わり、夏の始まり
シェザード様が、愛しげにこちらを見つめている。
私の頬に触れて、そっと口づけてくださる。
私の心は喜びにあふれ、世界は色鮮やかに輝いている。
夏の気配をはらんだ春の終わりの空気が、しっとりと庭園には満ちていた。
私たちが立っているのは、――私のよく見知った場所。
フラストリア公爵家の中庭。
よく手入れをされた中庭には、百合の花が大輪の花を咲かせている。
背の高い百合の花が花壇には何本も植えられていて、ラッパのような形に開いた花は、白や黄色や薄桃色で、独特の香りがする。
夏の花は、百合も向日葵も、茎が長くて花が大きい。
一本の茎に咲くおおぶりな花の姿は、どうにも――その姿が、植物ではなくて動物かなにかのように感じられて、少しこわい。
夏の庭は苦手。
生命力に満ちた自己主張の激しさに、気後れしてしまう。
秋や、冬の方が、私は好きだ。
シェザード様は、夏の庭の中でも雪の降る寒い冬の日を連想させる姿で、夏の庭は好きではないのに、シェザード様と一緒にいるというだけで、違った景色に見える。
揺れる百合も、暑い日差しも、ぬるい風も、シェザード様と一緒なら心地よいものだと思うことができる。
ふと、景色が変わった。
庭の花々が、咲き誇る百合が茶色く変えて、コスモスが咲き乱れはじめる。
それから庭には雪が覆い被さり、瞬く間に――春が訪れた。
東の国から植樹されてその後増えていった桜の木が、薄い白からピンク色の花を満開に咲かせている。
風が吹くと、一斉に花びらが舞い散る。
それはまるで、紙吹雪のようだ。
庭園には、白い蝶々がひらひらと飛んでいる。
シェザード様と共に、薄紫色の真っ直ぐな髪を軽くリボンでとめて、降ろしている少女が立っている。
私に、少し似ている。
髪質が違うけれど、瞳の色も私と同じ薄桃色で、意志の強そうな瞳がシェザード様を見上げている。
「……クラリス」
シェザード様が、少女を呼んだ。
私の妹の名前だ。
妹は、――クラリスは、悲しそうに微笑んだ。
「……お姉様が逝ってしまわれるなんて……、思いませんでした」
「あぁ。……ルシルは、……俺に何も言わなかった。……体を、病んでいること。死期が迫っていることも」
シェザード様の声音には、苛立ちが混じっている。
あぁ、――私は。
二度目の春が来たら、もう、いない。
「お姉様、おかわいそう……、お姉様は、シェザード様を」
「……クラリス。……お前が、俺の家族になってくれ」
はらはらとクラリスの瞳から涙がこぼれる。
シェザード様はそれを拭うと、苦しげにそう言った。
――そう、よね。
私がいなくなって、クラリスがシェザード様の家族になる。
これは、仕方ないこと。
私に何かあったときのために、クラリスにはまだ婚約者がいない。
シェザード様がフラストリア家に婿入りすることは決まっていて、フラストリア家の血を守るために、もし私になにかあったらクラリスがシェザード様の子を成すことになっている。
それは、お父様から説明を受けていた。
クラリスも一緒に聞いていて、「残酷です、酷いと思います。でも、お姉様になにかあるわけがありませんし、きっと大丈夫です。だから、私のためにも早く結婚して跡継ぎを産んでくださいね」と苦笑交じりに言っていた。
そのときは――何も考えずに「努力するわ」と答えることができていた。
でも、もう、そんな未来は望めない。
仕方ない。
仕方ないのよ。
私はクラリスを抱き寄せるシェザード様の姿を見つめている。
私が、いた筈の場所。
クラリスは悪くない。
こうなってしまったのは、全部私のせい。
でも――
「いや……、いや……っ」
私は、私は――
シェザード様と、一緒にいたい。
愛していると、言ってくれたのに。
抱きしめて、口づけてくださった。やっと、ようやく、――気持ちを伝えることができた。
「嫌……、嫌なの……、私、私……■■■■ない……っ」
無意識に叫んだ言葉は、声にならなかった。
見開いた瞳に、薄暗い自室の天井がうつっている。
はあはあと、乱れた呼吸を繰り返す。
瞳から、ぼろぼろと涙が零れていた。
「夢……」
でも、ただの夢――じゃない。
多分これは、女神様が私に罰を与えているのだ。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
約束を違えることはできない。
私は、覚悟を決めていたのに――それが揺らいでいることに、きっと女神様は気づいて、怒っていらっしゃる。
私はベッドにうずくまって、声を出さずに泣いた。
それでも私は――死にたく、ない。
シェザード様が愛しいと思うほどに、そう思ってしまう。
私の声はきっと、誰にも届いたりしない。
私は朝が来るまで自分を哀れんでいた。
情けないことは分かっている。けれど、涙と共に感情が流れ落ちて、少しだけ楽になる気がした。