ひとときの幸福
ノア様に言い返したくて、私は自分の気持ちをシェザード様に伝えてしまった。
本当はーー言わないままに、しようと思っていたのに。
見物に来ている生徒の方々の前で、私は。
その上、シェザード様に抱きしめられているなんて。
罪悪感と羞恥心でどうして良いか分からず、私はシェザード様の胸に顔を埋めていた。
それにシェザード様の私を抱き寄せる力は強くて、多分抵抗しても、離してくれそうにない。
そんなことを言い訳にして、私は周囲のざわめきが落ち着くまでずっと顔を伏せていた。
ノア様が去っていき、セリカとユーリさんもシェザード様に挨拶をしていなくなった。
どことなく浮き足立った空気が流れていた訓練場は、ユーリさんに促されて皆がそれぞれ帰路についたために、しんと静かになった。
私の耳には、シェザード様の鼓動の音が聞こえている。
すっぽり包まれるようにして抱きしめられていた私は、そっと髪を撫でられてくすぐったさに体を震わせた。
「……ルシル。……本当は、離さなければいけないのだろうが、離したくない」
「……っ、はい」
耳元で囁く言葉が、切なげで、甘くて、私は言葉に詰まる。
私も、私もーー
本当は、離さないでいてほしい。
ずっと、触れていてほしい。
だって長い間、私はシェザード様を想い続けていて、やっと気持ちを伝えることができたのだから。
一つ前の私の分も、そして、今の私の分も、全部合わせて私はーーシェザード様が、好き。
ずっと、好きだった。
今も、そして未来も、私が失われてしまったとしても、私はシェザード様が好き。
それだけは、嘘じゃない。
恋というのがこんなに自分勝手なものとは知らなかった。
まるで、自分が自分ではないみたいだ。
燃えるように熱くて、ずしりと思いそれは、あまりにも自己中心的すぎて愛とは呼べない。
それでも私はシェザード様の婚約者に選ばれた日からずっと、シェザード様に焦がれ続けている。
「はじめて、言ってくれたな。……ルシルは今まで、俺との関係を婚約者としか言わなかった。だが、それも仕方ない。俺はお前を長い間傷つけていたから、お前の気持ちが俺に向かないことは、俺に与えられた罰のようなものだと思っていた」
「……シェザード様、私は」
「ありがとう、ルシル。ノアに嘲られた俺の名誉を守るためだったのだろう。だが、……嬉しかった」
「違います……!」
少しだけ寂しそうにシェザード様が言うので、私は顔を上げた。
未来を思えば、傷つけてしまう結果になることは分かっている。
けれどーーだからといって、今私が嘘をつくことでシェザード様を傷つけて良い理由にはならない。
(これも、言い訳だわ……、ごめんなさい。私は、私は……)
ノア様に言い返したかった。
皆から受けていた誤解をときたかった。
それも、もちろんある。
けれどそれだけじゃない。
私が、私の意思でーーシェザード様に、伝えたかった。気持ちをおさえることが、できなかった。
全部、私の我儘だ。
そして、今も。
「嘘では、ありません。私はずっと……、婚約者に選ばれた日からずっと、シェザード様が好きでした。シェザード様は寂しそうで、苦しそうで、そして、苛立っているように見えて……、それでも弱音を吐かず誰かに頼ることもなく、凛としている姿が、とても、美しく見えたのです」
「……美しい? 怖いの、間違いだろう」
「怖くなかったといえば、嘘になります。触れたら、私の手が切れてしまいそうだと、思いました。私は勇気がなくて、あなたの手を掴むことができなかったのです。……でも、それでも、いつかは……、フラストリア家に来てくださって、シェザード様のお心に安寧が訪れたら良いと、願っていました」
それから、と私は続けた。
「その傍に、私は居ることができたら良いと、思っていました。……好きでした。今も、……昔も」
一度目の失われた私は、ずっとそう考えていた。
いつかは、きっと。
そのいつかは、結局訪れなかった。
失われた一度目の私の分まで、気持ちを伝える。
臆病で何もできなかったルシル・フラストリアはもういない。
私は、少しだけ変わることができたのだろう。
女神様の力で、命に期限をつけられることによって。
そうまでしないと私は変わることができなかった。
情けないと思う。
「ルシル。……俺も、ルシルを想っていた。お前が俺の家族になると言ってくれた時から、俺の心にはお前がいた。……だから、……アルタイルに奪われたと思い、余計に苛立った。……子供みたいに拗ねていた。すまなかった」
シェザード様は悔恨するように目を伏せた。
その姿が、アルタイル様に剣を向けていたシェザード様と重なる。
瞼が開き、アメジストのような紫色の瞳が真っ直ぐに私を見る。
その瞳には、私が映っている。
恋に堕落し、自分勝手に気持ちを伝えた残酷な私が。
「……ルシル、愛している」
喜びに胸が震えた。
新しい涙が瞳からこぼれ落ちる。
ーー愛していると、言ってくれた。
嬉しい。
私は、ーー幸せ。
幸せで、悲しくて、辛くて、苦しい。
「私も……」
その先の言葉を奪うようにして、唇が重なる。
それはただ触れるだけではなくて、もっと深く激しいものだった。




