巻き戻った時間
私はベッドの上で自分の胸を両手で押さえる。
――胸からは赤い鮮血が迸り、地面を汚している。
白い寝衣は乾いていた。手のひらを眺めてみるけれど、汚れひとつついていない。
――切なる願いに温情を与えましょう。
幾度か瞬きを繰り返した。
見慣れた学園寮の、自室の天井がある。
はあはあと、大きく空気を吸い込む。苦しくはない。痛みもない。ただ――混乱していた。
「私……、今は、いつ、なのかしら……」
体に異常はないようだ。
ベッドから上半身を起こし、ベッドの下に足を降ろす。
室内履きに素足を入れて立ち上がった。
学園寮の部屋はフラストリア公爵家にある私の自室の半分か、それ以下程度の大きさしかない。
簡素な木製のベッドに、白いシーツ。
一つだけある窓の外はまだ薄暗い。時計を見ると時刻は朝の四時半。随分早起きをしてしまったようだ。
ベッドのほかにあるのは備え付けのクローゼットと、鏡台ぐらいのものである。
「女神様に感謝をしなくては……」
ネフティス様、と呟こうとした。
けれど、喉の奥に言葉がつかえたように出てこなかった。
ネフティス様との約束を私は思い出す。
私の身に起きたこと、そしてこれから私に起こることは――誰にも言うことができない。文字を書くこともできない。
――私に残された時間はあとどれぐらいあるのだろう。
焦る気持ちを抑えながら、鏡台の前に立つ。
鏡に映っていたのは、最後の私とあまり変わらない姿の私だった。
薄紫色のやや癖のある髪に、桃色の瞳。身長は高くも低くもない。
十五歳を過ぎたあたりで身長は止まってしまった。髪の長さは腰ぐらいで、それもずっと変えていない。
だから鏡で姿を確認しただけでは、どこまで時が戻ったのかは分からなかった。
今わかるのは、ここが学園寮の部屋だと言うことと、思ったよりも時間が巻き戻っているわけではいないということだ。
てっきり、赤子の時からやり直しになるのかと思っていた。
「学園寮にいるということは、もう入学しているのかしら。すでに私はシェザード様の婚約者よね。……でも、婚約してから学園に通うようになるまで、滅多に会うことはなかったわね」
状況を確認するために、一つ一つの事実を呟いてみる。
シェザード・ガリウス様は私より二つ年上だ。
私の入学した時に、最終学年にあがっている。そして、シェザード様の卒業式の日。
シェザード様の剣からアルタイル様を庇い、私は命を落とした。
「晩餐会で、数回エスコートをして頂いたぐらいかしら。けれど、すぐにいなくなってしまったし、ご挨拶ぐらいしかできていなかったわ。シェザード様はいつも怒っているようで……、私はその理由が良く分からなかった。今は、……王家の中で冷遇されているからだとわかるけれど」
指を折りながら、私は言った。
シェザード様は第一王子だ。本来なら王位継承権はシェザード様にある。
けれど、アルタイル様が産まれたときから、王位はアルタイル様に――そう、決められていたらしい。
それはシェザード様との関係に悩んでいた私に、お父様が教えてくださったことだ。
理由は知らない。お父様も知らないのだと言っていた。嘘か本当かはわからないけれど。
「お父様には――、シェザード様を良く支えるようにと言われたのに、私にはそれができなかったわ」
今度こそ、と思う。
私は今度こそ、シェザード様の心を癒して――あんな終わりを迎えないように、しなくては。
「――っ、ジゼル、ジゼル……!」
ここは寮の部屋。
それならば、ジゼルが隣の部屋に控えている筈だ。
大きな声で私が呼んだせいか、扉の向こう側からばたばたと慌てたような足音が聞こえた。