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嘘と信頼と罪を重ねる



 体に感じるシェザード様の体温が、重さが、体がばらばらになってしまうぐらいに切なく愛しい。

 このまま――時間が止まってしまえば良いのに。


 私の日常とはかけ離れたこの部屋で、日常にずっと戻らずに、このまま一緒に居られたらどれほど良いだろう。


 何を考えているの、と叱責する自分と、シェザード様がずっと好きだった――そして、もっと好きになっている自分、二人いるみたいだ。


 理性的な私は、別離を知っていながらその心を手に入れたいと願うなんて、罪深いことだと嘆いている。


 感情的な私は、それでも好きなのだと、今この瞬間を喜んでしまうのは仕方ないことだと、言い張っている。


「……ルシル、俺は、……お前が俺の婚約者に選ばれた時、フラストリア公爵家に婿入りすることが決まったとき、純粋に喜ぶことができなかった」


 罪を告白するように、シェザード様が小さく少し掠れた声で言う。

 鼓膜を揺らす低い声に、その言葉の意味に、私は哀しくなって目を伏せた。


 ――私が嫌いなのだわ。


 そう、一度目の私なら思っていただろう。

 けれどそれは違うと今なら分かる。シェザード様の抱えているものの途方もない苦しさが、布越しに触れ合う肌から伝わってくるようだ。


「婿入りは、体の良い厄介払いをされたように、感じられた。父と母は、……理由は分からないが、昔からずっと俺を嫌っていた。使用人が俺の面倒を見ていたから不自由こそなかったが、……両親に気に入られたくて、勉強も、剣術も、馬術も、なにもかもが完璧にできるように必死に努力をしても、両親は俺を顧みることは一度もなかった」


「……っ」


 シェザード様がはじめて口にした幼いころの話は、痛みに満ちている。

 私は泣き出してしまうのを堪えるために、唇を噛んだ。

 広くて硬く、骨と筋肉の感触のある背中に手を回す。


 シェザード様の体つきは大人の男性のそれで、もう子供じゃない。

 けれど私には、幼い子供を抱きしめているように感じられた。


「やがて、アルタイルが産まれると、両親はアルタイルだけが自分の子供であるように振舞った。……よく、分からなかった。うまく理解することができなくて……もしかしたら、俺は本当は存在していなくて、彼らには俺の姿が見えていないのではないかと、混乱したことを覚えている」


「エド……、シェザード様……」


 辛かったでしょう。苦しかったでしょう。

 どんな言葉をかけても陳腐に聞こえてしまう気がして、名前を呼ぶことしかできない。


 シェザード様は、川で溺れている方が水に浮かんだ流木に縋るように、私をきつく抱きしめた。


「混乱は、そのうち……どうしようもない、怒りに変わった。何に対して怒れば良いのか分からなかった。だから、人や物に八つ当たりをしてしまいそうになり、……それで、街に。街に出て、傭兵の真似事をすれば、多少の荒事と関わることができる。膨らみ過ぎて弾けてしまいそうな暴力への欲求を、昇華することができた。全て、というわけじゃないが」


「それでも、エドが行っていたのは人助けです。理由は別にあっても、人助けをしていたことに変わりありません」


 今までの行いを全て後悔しているとでもいうような、口ぶりだった。

 私は、今までのシェザード様の全てを否定して欲しくない。


(だってシェザード様は、苦しいのに――耐えていたのだわ。誰にも嘆かず、頼らず、自分の感情を抑えるためにどうするべきかを、考えて)


 上手くいかないことを嘆いて、手を差し伸べてくれたアルタイル様に縋った私とは大違い。

 恥ずべきなのは、私。

 エレインさんにシェザード様を奪われたような気になって、嫉妬をする資格なんて、私にはない。


「ルシル。……お前は、優しい。そんなことは、ずっと分かっていたのに……、疑ってすまなかった」


「私……、私……」


 なにも、言えない。

 言葉の代りに涙があふれてきて、視界を潤ませた。

 

 私は優しくなんてない。

 今も、ひとつまえの私も――どちらも、残酷で、酷いことしている。


「婚約者となって、はじめて挨拶をした日。お前は、俺に怯えていた。それでも、必死に笑顔を浮かべようとしてくれた。お前が俺に何と言ったか覚えているか、ルシル?」


「……緊張、していて。……私、何か言ってしまったでしょうか……」


 はじめてご挨拶をした日。

 私が覚えているのは、シェザード様の、触れたら私の手が切れてしまいそうな怜悧で圧倒的な美しさだけだった。

 

 こんな、美しい方と私が結婚をする。


 光栄であり、申し訳なくもあり、それでも――嬉しかった。

 お父様からシェザード様の立場については少しだけ聞いていたから、フラストリア公爵家で、心穏やかな生活を手に入れて下されば良いと、思っていた。


 私は自分に自信がなくて、私自身がシェザード様を幸せにしようなんて烏滸がましいことは、考えなかったけれど。


「俺の家族になると。……お前は、小さな声で、俺に言ってくれた」


『ルシル・フラストリアは、シェザード様の家族に、なります。……よろしくお願いします』


 あぁ、思い出した。

 婚約者も、恋人も、妻、も。

 どの言葉も恥ずかしくて、私には勿体ない気がして、――それで、家族と、言ったのだわ。


「……家族。……その言葉に、長い間俺を支配し続けていた、怒りが、鎮まっていくのを感じた。……だが、その後お前は俺の顔を見ると哀れなほど怯えるようになった。アルタイルの傍らであれば安心したように、あれに笑顔を向けていただろう。……だから、アルタイルの方が、お前には相応しいのだろうなと、思っていた」


「ごめんなさい、シェザード様……っ、違うんです、私……」


 私は、シェザード様に嫌われているのだと勝手に、思い込んでいた。


「俺の態度が悪かった。……だが、俺は自分を顧みることもせず、卑屈になり、お前やアルタイルに苛立つようになっていった。……情けないな」


 シェザード様は自嘲するように笑って、私からそっと体を離した。

 腕で半身を支えて上体を起こすと、私の顔を覗き込んで、目尻に溜まった涙を指で拭ってくださる。


「ルシル。……だから、俺に近づいてくるお前を、ずっと疑っていた。誰かに命じられているのだろう、俺に好意を示してくれるのは、お前の意志ではないのだと。最初はずっと疑って、……途中から、信じたい、と思っていた」


「私が、私が悪いのです。だって、今まで私は……エドを、避けるような態度を……」


「先にお前を避けたのは、俺だ。……それなのに、お前が学園に入学してから、毎日俺の傍にいるようになって……。怒り以外の感情が、湧いてくることに、戸惑った。……お前の態度は演技ではない。分かってはいたのに、それでも疑うことをやめられず、こんな場所に連れ込んでお前に乱暴をしようとしたらどうするか、その反応を見てやろうと、心のどこかで思っていた」


 すまない、ともう一度シェザード様は言った。

 私は、首を振る。

 真摯な感情が、信頼が、――痛い。


 ずきりと、心が痛んだ。


 私はシェザード様に抱きしめられるようにして、少しだけ眠った。

 色々なことが目まぐるしく起こって感情が高ぶっていた。同じベッドに横になって抱き寄せられているなんて状況に緊張もあって、眠ることができる気はしなかったけれど――

 

 触れ合う体温に、皮膚を通して響いてくるような鼓動の音に、まるで幼いころお母様に抱きしめて頂いて眠ったときのように安心してしまい、いつの間にかうとうとしていた。


 午睡の微睡の中で、私は黄金の宮殿の幻を見た。

 ネフティス様が哀れむような、それでいて私の罪を糾弾するような視線を、私に向けていた。


 ――ごめんなさい。


 上手にできなくて、ごめんなさい。


 私は、シェザード様が好き。

 好きだから、幸せになって頂きたい。私のせいで――不幸になってしまう運命を、変えたい。

 それだけで良かった。

 そう思っていた筈だ。


 それなのに、貪欲に、もっと多くを求めそうになってしまう。


『ルシル、……あなたの命には、限りがあります。それは、変えることができない』


 ネフティス様が静かな声で、諭すように私に囁く。


 ――大丈夫、分かっています。


 私は、私が失われてしまう覚悟はとっくにできている。

 けれど――真実を告げることができず、嘘をつき続けていることが、こんなにも痛い。


 まるで、真綿で首を絞められているようだ。

 幸せを感じるほどに、その苦しさは強くなっている。


 私は、自分勝手で。

 シェザード様の気持ちを考えることをしないで、アルタイル様に縋るような真似をしてシェザード様を傷つけてしまった。


 そして今も、シェザード様に信頼して頂くことができたのに、その信頼を裏切り続けている。


「……ん」


 しめられたカーテンの隙間から、西日が差し込んでいる。

 涙のあとが残る目尻をごしごしと擦り、私はベッドの上から体を起こした。

 少しだけ、頭が痛い。

 気付かないうちに、泣いていたせいだろう。


「エド……」


 隣にあった温もりは今はない。

 起き上がってカーテンを薄く開いて、外の景色を眺める。

 あたりはすっかり夕方で、夕闇が空を橙色と群青色に分けていた。


 ぎい、と扉が開く。


「ルシル、起きたか。今、宿の店主と話をしてきた。……上階の、一等室が空いている。倍額払うと言って、夕食や着替えの準備をさせた。……大丈夫か、ルシル。少しは、休めただろうか」


「は、はい……」


 シェザード様が室内に入ってきて、窓辺に立つ私の無事を確認するように、髪や頬に触れた。


(泣いていたこと、気付かれていないわよね……、それより、寝ぐせで髪がぐちゃぐちゃだわ……)


 私の薄紫色の髪は、髪質が細いせいか少し癖がある。

 一人の時に、もう少し整えておけばよかった。

 こんな姿を見られてしまうなんて、淑女として隙がありすぎるのではないかしら、私。

 公爵令嬢としての教育はしっかり受けてきたはずなのに。


「明日、朝になったら学園に戻ろう。学園内は警備も厳重だ。それに、お前がルシル・フラストリアだと気づかれる可能性は少ない。……そう、思いたい。……今日はこのまま、外に出ない方が良い。せめて、不自由はないようにと思ったんだが……」


 シェザード様は眉をよせて、困惑したような表情を浮かべた。


「先日、お前に怪我をさせてしまったように、……俺は、あまり女性への配慮が得意ではない。だから、何かあれば言ってくれ。気づかないことの方が多いだろうから」


「……ありがとうございます、エド。私、この部屋でも構いませんよ」


「花火が、見たいと言っていただろう。ここからでは見えないが、最上階なら、他の建物よりも高い場所にある。バルコニーに出れば見ることができると、店主に確認をとってきた。ルシル、歩けるか? こういう時は、……抱き上げたほうが良いのだろうな」


「あ、歩けます、歩けますので……」


「俺がそうしたい。大人しくしていろ」


 私の体はシェザード様にあっという間に抱き上げられてしまった。


(胸、痛かったけれど……、これでは、別の意味で心臓が……!)


 シェザード様は優しい方だ。

 分かっていたけれど、こうして甘やかされてしまうと、――駄目だわ。


 心臓が口からまろび出そうなぐらいに高鳴っている。

 真っ赤に染まる顔を俯いて隠すぐらいしか、私にはできなかった。





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