路地裏に入ってはいけない
天灯を飛ばした私達は、「ルシルをあまり歩かせては、この間と同じことになってしまうわよ」というダイアナさんの計らいで、お店の前に並んだベンチに座って少し休ませてもらうことにした。
「ダイアナが一緒にいるから大丈夫だな」と言って、シェザード様は飲み物を買いに行った。
私が疲れていると思って、気を使ってくださっている。
心遣いが有難く、なんとはなしにふわふわとした気持ちになる。
私は新しいお客さんが来ては願い事を乗せて飛んでいく天灯を見上げて、考える。
――何故、国王陛下と王妃様はシェザード様に冷たいのかしら。
一度目の私も、それについてはずっと気に病んでいた。
まさかシェザード様本人に尋ねるわけにはいかず、口に出せない話題があるということがシェザード様への遠慮に拍車をかけて、まるで腫れ物に触れるようになってしまっていたせいで、私たちの距離は縮まることはなかった。
王位はシェザード様ではなく、アルタイル様にある。
今はそれは誰もが知っている事実だ。
そして願い事を見せてくださったということは、シェザード様は別に隠したいと思っているわけでも、触れてほしくないと思っているわけでもないような気がする。
分からないけれど、――そうだと、思いたい。
触れられない事実があるということは、どうにも喉に小骨がひっかかった感じがしてしまう。
それはシェザード様にとって、一番大切なこと。
だとしたら、私に時間があるうちに――解決策を模索したい。
その理由を知ることができれば、シェザード様の苦しみが終わるのかしら。
そんな単純なものでもないのかもしれないけれど。
「……ルシル、大丈夫? エドに遠慮して、疲れているのを隠しているんじゃないの?」
お客さんがはけたようで、手が空いたらしいダイアナさんが私のもとにやってきた。
深刻な顔をして考え込んでいる姿を見られてしまったのかもしれない。
私は慌てて、笑顔を浮かべた。
「大丈夫です! ……エドが書いていた願い事について、考えていました」
「あぁ、……あれね。……エドは、まだ気にしているのね。年齢よりも大人びて見えるから、もう割り切っているものかと思っていたのだけれど」
ダイアナさんは腕を組むと、悩まし気な溜息をついた。
「私もあまり詳しいわけではないのよ。数年前にエドが店に服を買いに来たときに、知り合っただけだし。本人の話では、親の顔も知らない孤児なのですってね。貧民街のスラムで育ったそうよ。それで、今は傭兵の真似事をして、糊口をしのいでいるって」
「エドには、ご両親がいないのですよね。……それはとても、辛いことだと思います」
「……そうね。王都には、そういう子供たちも少なくはないのだけれど……、少なくないからといって、辛くないわけではないわよね。エドは、貧民街のスラム出身にしては、随分と言葉遣いや仕草が洗練されている気がしたから、もしかしたら何かほかに事情があるんじゃないかしらとは、思っていたのだけど」
「確かに、エドは……その、なんと言えば良いのか……、優しいです」
「ルシルにはまた、違う顔を見せているのかもしれないわね。……エドは、本当は両親の顔を知っているのかもしれないわ。……ある程度は、きちんと育てて貰ったのかもしれない。それでも、きっと捨てられてしまったのよね。……もし両親が生きているとしたら、事情を知りたいと思うのが普通よね」
「事情を知れば、解決できるのでしょうか」
「知らないままでいることは、苦しいわ。だって、色々考えてしまうでしょう? 捨てられてしまえば……、自分に価値はないのか、とか。自分の何が悪かったのか、とか。まるで、……その辺に転がる石ころと同じように、自分自身が無価値だと、思えてしまうものね」
ダイアナさんはそう言って、寂しそうに笑った。
何かーーあるのかもしれない。
その言葉には妙に実感がこもっていて、朗らかで明るく綺麗なダイアナさんが、急に儚く消えてしまうような錯覚を覚える。
「でも、ルシル。エドはもう大丈夫だと思うわ。だって、ルシルがいるのだもの。……ルシルが愛してくれている。それがどれほど、エドにとって心強いか……、だから、大変なことはあると思うけれど、頑張ってね」
ダイアナさんは寂し気な表情を明るい笑顔に変えて、私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
それから「ごめんね、お客さんが来たわ」と言って、接客に戻っていった。
新しいお客さんが次々とやってきて、ダイアナさんは忙しそうだ。
私はシェザード様の帰りを待ちながら、しばらく通りを歩く人々を眺めていた。
ふと――暗がりに目を向ける。
明るい大通りに比べて、角を曲がって細い道に入るだけで随分と薄暗い。
そこだけ闇が溜まっているように見える。
私は――良く知らないのだけれど、ダイアナさんは孤児は珍しくないのだと言っていた。
裕福で何一つ不自由のない私の生活の裏側で、両親のいない子供たちが沢山いるのだと思うと、胸が痛む。
フラストリア公爵領で、お父様に連れられて孤児院の視察をしたことはあったのだけれど――
でも、そんなものは形式上にしか過ぎない。
街の人々の暮らしを、実際に肌で触れ感じたことは一度としてなかった。
こうして人混みに紛れていると、まるでおおきな熱量に包まれているようだ。
街の喧騒や活気は、果てしない生命力のように感じられた。
シェザード様は、自分を孤児だと偽っている。
それは、――城の中でのシェザード様が、両親からの愛情を受けることができずに、本当に孤児のように感じているからではないのかしら。
路地を見つめながら取り留めのないことを考えていると、ふと通りを歩く人々とは違う雰囲気を纏った集団が目に入る。
男性が数人、一人の女性を取り囲むようにしている。
男性たちは若いけれど、私よりは随分と大人に見えた。
女性は私と同い年か少し年下程度だろうか。
助けを求めるように、せわしなく視線を彷徨わせている。
けれどすれ違う人々は誰も彼女に気づいていないのか、それとも気づいていて手を差し伸べることをしないのか、ただ通り過ぎるばかりで、女性は狭い路地へと連れ込まれようとしていた。
――路地に、入ってはいけない。
シェザード様の言葉が思い出されて私は、はっとして目をを見開いた。
女性と目が合う。『助けて』と言われているような気がした。
考えるよりも先に足が動いていた。
私は立ち上がり、駆け出した。
(良く分からないけれど、悪いことが起こる予感がする。放っておけない……!)
私の命は女神様から与えられた、仮の命。
だとしたら――女神様の温情に応えなければ。
困っている方がいるのに気付いていて見過ごすなど、恥ずべき行いだ。
助けなきゃ。
他の誰でもなく、私ができるのなら、私が――
考えるよりも先にその気持ちでいっぱいになった。
自分に何ができる――そんな自問自答をしている暇はない。
暗い路地の奥に連れていかれる女性を、人混みをぬって追いかける。
途中見知らぬひとにぶつかりながら、何とか波のように人の行きかう通りを渡りきる。
ダイアナさんの「ルシル!」と呼ぶ声が聞こえたような気がしたけれど、振り向いてはいられなかった。
「……は、離しなさい、嫌がっているでしょう!」
暗い路地の奥に連れていかれる女性に追いついた私は、なるだけ大きな声を張り上げる。
走った経験に乏しいため、息が切れていた。
視線を走らせて、男の数を数える。
五人、いる。路地の奥で待ち構えていたのか、通りを歩いている時よりも人数が増えているような気がした。
「どうした、お嬢ちゃん。声が震えているじゃねぇか」
いやらしく口角を吊り上げて、男の一人が言う。
年齢も体格もばらばらだけれど、どう考えても心優しい良い方々には見えなかった。
「その女性は、嫌がっているように見えます……、離してあげてください……!」
「……可哀想に、そんなに怖いのなら助けになど来なければ良いのに。今時珍しい、正義感の強いお嬢さんだね。街の連中など、見てみないふりをしているというのに」
男たちの中でも特に身なりの良く見える、長身の冷たい目をした男が言う。
集団にも序列があるのか、男が話し出すと他の連中は一歩引いたようだった。
「それに、中々品が良く、美しい。良いよ、お嬢さんと交換というのなら、この女は離してあげよう」
そう男は言った。
男たちによって腕を掴まれて逃げることができない女性が、泣き出しそうな瞳を私にむける。
――私と、交換。
そうすれば、女性は逃げることができる。
私は、私は――なんとか、なるわよ。
怖いけれど、きっと、大丈夫。
(だって、一度死んだ私には、もう怖いものなんて何もないもの)
「構いません、だからその方を助けてあげてください」
私が言うと、男たちはいっせいに笑い出した。
「どういうことだ? こいつはお前の知り合いなのか?」
女性は腕を拘束している男に顔を覗き込まれて、首を振った。
更に男たちの笑い声が大きくなる。
「知り合いでもないのに、身代わりに? あぁ、面白い。良いよ、お前たち、その女性を離してあげなさい。その代わり、そこの正義感の強いお嬢さんを連れて行こうか」
身なりの良い男が言った。
命じられて、男の一人が私の腕を掴む。
嫌悪感に肌がぞわりと粟立った。
私の腕を掴んでも指のあまる大きな手は、分厚く硬く、かさついている。
用済みだとばかりに、拘束されていた女性が突き飛ばされる。
私は路地の更に奥へと引きずられていく。
腕を引っ張っても暴れても、びくともしない。
あぁ、――路地に入ってはいけないと、言われていたのに。
でも、これで良かったのだわ。
私にも、人を助けることができたのだから。
恐ろしさと、ほんの少しの安堵が綯交ぜになって、じわりと目尻に涙が滲む。掴まれた腕が、触れる皮膚の生温さが、気持ちが悪い。
「……ルシルを離せ」
低く怒りに満ちた声が、聞こえた。
それと同時に、男たちは呻き声をあげながら、ばたばたと路地に倒れ始める。
私は息を飲んだ。
シェザード様が、狭い路地の壁を蹴り、浮き上がる。
ひらりと宙に浮いた体を反転させて、身軽な動作でけれども容赦なく、男の胸を踏み抜くようにして蹴りつける。
体勢を崩した男の首を、鞘に入ったままの短めの剣で的確に打った。




