祝春の祭り
私は朝からそわそわと落ち着かなかった。
シェザード様と出かける約束をした、春祝の祭の日が、とうとうやってきたからだ。
私はダイアナさんのお店で買ったワンピースを着ている。
そして、今日のためにぐるぐる、バターになるぐらいにぐるぐると学園周辺を歩いて足に慣らしておいた革靴を履いた。
春も深まり、気候がだいぶあたたかくなってきたので、ジゼルに私の薄紫色の髪を、頭の上でひとつにまとめて貰った。
それから、入用になるときのために、お金を少し持たせてもらった。
肩掛けの小さな鞄にお財布を入れて、ばっちり準備をした私は、学園の正面門へとむかった。
祝春のお祭りは、学校が週末から四日間お休みになる。
領地に帰る方々もいれば、王家の主催のパーティーに参加する方もいる。過ごし方は様々だ。
私が正面門に向かうと、シェザード様はすでに待っていてくださった。
シェザード様は前回と同じような簡素な灰色の服に、腰には短めの剣を帯剣している。
「シェザード様、お待たせしました!」
私が駆け寄ると、シェザード様は私の姿を上から下までじっと眺めた。
藍色の生地に小さな紫色の花が散っている服は、時期は早いけれど紫陽花を思い出させる柄である。
雨の日や、曇りの日、紫陽花や、竜胆。なんとなくだけれど、私はシェザード様にそんなイメージを持っている。
だから、紫陽花は好き。
「足を痛めていたから、服を選ぶどころではなかっただろう。……だが、よく似合っている」
「あ,ありがとうございます……! シェザード様も、素敵です。どんな服でも、似合ってしまいますね。さすがです」
お世辞ではなく、私は言った。
元が良い方というのは、なにを着ても似合う。
「無理をして褒める必要はない」
「本当にそう思っていますよ?」
「それよりも、ルシル。今日は大丈夫なのか。ーーもし疲れたら、言え。俺はどうにも、疎いようだからな」
「大丈夫です。今日この日のために、ばっちり準備をしてきました!」
「準備?」
「はい。お散歩です」
「あぁーー噂には、聞いた。同級の連中に、幾度か尋ねられた。ルシルが夕方、学園の周辺をずっとうろうろしている、と。俺を探しているのではないかと、言われた。あれだけ探しているのに出向いてやらないとは、可哀想だと言われた」
シェザード様は少し考えながら、そう言った。
私は驚いて、目を見開く。
「そういうつもりではなかったのです……! 純粋に、今日のために、体を鍛えていました。ただのお散歩です。シェザード様を毎日うろうろ探したりはしませんよ。だって、約束を守ってくれていますし。毎日会っていますから」
「……今のは、冗談だ」
ぽつりと、シェザード様は言う。
それから、それ以上は何も言わずに学園の外に向かって歩き出すので、私は急いでシェザード様を追いかけた。
(冗談……、冗談。シェザード様が、冗談を言ったわ。……冗談を……!)
私はしばらく、言葉の持つ暴力的な可愛さに内心身悶えをしていた。
嬉しい。
なんだかーー野良猫が、懐いてきているような、可愛さがある。
そんなふうに思ったら失礼なのは分かっているのだけれどーー
学園までの通りの街路樹は、以前歩いた時よりも青々と色づいている。
四月の終わりの柔らかい風が吹いている。
五月、六月、七月が終われば、夏季休暇がある。私はフラストリア公爵家に一度帰る予定だ。
お父様やお母様、妹とはーー随分、会っていないような気がした。
「ルシル」
シェザード様が私に手を差し出す。
隣を歩いていた私は差し出された手をまじまじと見つめた。
「手を。……俺の歩調が早い時は、手を引いてくれ。どうにも、慣れないせいか、気遣いができない」
「はい……!」
私はシェザード様の手に、自分の手を重ねた。
まるでーーそうするのが、いつも当たり前だったように、安心することができた。
祝春の祭りとは、その名の通り春の訪れをお祝いするお祭りである。
カダール王国は、冬が長い。
四月の終わりから六月にかけては暖かい日が続き、その後短い夏がやってくる。
七月から八月の終わりにかけてが夏。
九月になると気温がぐっと落ち込んで、短い秋の後に冬が訪れる。
九月の終わりから冷え込み始めて、十一月から二月にかけては雪が降る。
雪が降ってしまえば馬車での移動は難しい。
作物も育たなくなるので、人々は夏の間に保存食を作り冬に備える。
冬でも土の下で育てることができる根菜類は手に入りやすいけれど、肉や魚は高級品で、麦や米は冬の間は値段が高くなる。
雪景色は綺麗だけれど、寒さを凌ぐのは庶民の方々にとっては大変で、病も流行り、食料に困る方々も出てくる。
それが、冬。
だからこそ、王国の人々にとっては春の訪れは特別で、春から秋にかけての豊穣を祈って、春の祭りを行うのである。
フラストリア公爵領でも、祝春の祭りは行われている。
教会が中心となって施しが行われたり、商店街の人々がお店を出したり、農作物がいつもよりも安価で売られていたりするらしい。
私は実際に祭に行ったことはない。
大抵の場合、私はお父様やお母様に連れられて、妹と一緒に王家主催のパーティーへと顔を出すことになっていた。
招待状は毎年届くので、顔を出すのが公爵家としての礼儀だった。
「ルシル。お前は、城に行かなくて良いのか」
だから、私の手を引いて歩いているシェザード様がそんな疑問を持つのは、ごく自然のことだ。
「良いのです。だって、シェザード様、あまりパーティーは好きではないでしょう?」
「そうだな。家族が揃い、貴族が集まる場は、俺にとっては煩わしいことが多い」
シェザード様はあまり抑揚の無い声で、訥々と言った。
もう私の態度に疑問を持っていないのか、それとも諦めたのか、もしくは私が怪我をしたことを心苦しく思っているのか――誰の差し金で私が近づいてくるのかと、尋ねることは、二人で出かけて以来なくなっている。
「それでも、……私の婚約者になってくださってからは、いつも、エスコートをしてくださっていましたね。ありがとうございます」
私は記憶を辿りながら言った。
学園に入学する前、フラストリア公爵領で暮らしている時も――滅多に会うことはなかったし、お手紙をくれることもなかったけれど、王家の催しに参加する時は決まって、シェザード様は私の隣にいてくれた。
(お手紙は……、そもそも、私が迷惑かもしれないとか考えすぎて、出さなかったのだけれど)
隣にいるのは最初だけで、すぐにどこかに居なくなってしまうので、一人きりの私を心配してアルタイル様が傍に居てくれた。
(私が怯えた態度をとっていたから、シェザード様は気にして、離れていてくれたのよね)
考えても詮方ないことだとは分かっているけれど、もっと――話をしていたら。私が歩み寄っていたらと、どうしても考えてしまう。
「俺を……、気遣う必要はない。お前が参加したいのなら、婚約者として、俺もつきあう」
「良いのです。綺麗なドレスも、ダンスも、今の私には重要な事ではありません。ああいった場では、ゆっくりお話しできませんから。祝春の祭りで賑わう街を、シェザード様と歩きたいのです。……滅多にないことですから」
私は胸の痛みを誤魔化すようにして、笑った。
滅多にないのではない。
これが、最初で――最後。
そう思うと、一分一秒が貴重なもののように感じる。
「だが……、本当は、ドレスで着飾りたかったのではないのか?」
「このお洋服も、十分可愛いです。それに、今日のためにお散歩をし続けてきたのですから、私は祭りに対する熱意に漲っていますよ? シェザード様はお祭りに行くのは初めてですか?」
「いや。……いつも、お前と離れてから、城の中は居心地が悪く思い、出かけていた。……外の方が、息をすることが、楽だ」
「私も、今の方が楽です。スタイルを良く見せるために、きつくコルセットをしめたりしていませんし、挨拶をしてくださる方々に、にこにこしながら返事をしなくても良いですし、人の目がないというのは、楽なものなのですね」
「お前はフラストリア家の長女として、貴族たちへの対応を卒なく行っていると思っていた」
「そうでもないです。心の中ではみんな、別のことを考えているのかもしれない。そう思うと、気が滅入るときがありました。でも、今は――今日は、とても楽しいです」
今度は、ごく自然に微笑むことができた。
シェザード様の私の手を握る力が、少しだけ強くなった気がした。




