恋人のふり
――恋人、恋人、こいびと。
頭の中にその単語がぐるぐる回った。
シェザード様にそんな風に言ってもらえるだなんて。
浮かれている場合ではないのだけれど、私は染まる頬にシェザード様と繋いでいない方の手をあてた。
「ずいぶんとまぁ、上流階級のお嬢さんを捕まえたものね。良かったじゃない、エド」
にこやかに、女性が言った。
シェザード様がシェザード・ガリウス様だと疑う素振りもない。
私のことも、本当に恋人だと思ってくれたらしい。
「ルシルは商人の娘なんだ。病弱で、あまり外に出たことがなかった」
「そうなのね。一体どうやって知り合ったの?」
「……体を慣らすために外に出る必要があった。俺は護衛を頼まれた」
「あぁ、なるほど。エドは腕がたつものね」
シェザード様が適当な嘘をついている間、私は二人の会話をぼんやり聞いていた。
重ねられた大きな手のひらが、熱い。
「ルシル、よろしくね。私はダイアナ。服屋を開いているわ。といっても、自分で作っているわけではないのだけど」
「はじめまして、ダイアナさん」
私はもう一度挨拶をした。
髪の短いダイアナさんは、両耳がむき出しになっている。耳には大きな金の輪の耳飾りが揺れていた。
黒い髪に飾り気のない黒い服なのに地味な印象にならないのは、大きな耳飾りと、お化粧のせいなのかもしれない。
ダイアナさんは目の端を赤く塗っている。まるで、舞台女優さんのようだ。
あまり見たことのない塗り方だけれど、良く似合っていた。
猫のような印象をうけるのは、吊り上がり気味の大きな瞳のせいなのかもしれない。
「今日は、デート?」
「今月は、祝春の祭りがあるだろう。ルシルははじめて参加する。だから、服を買いに来た」
「恋人として」
「まぁな」
「良いわねぇ。でも、商人の娘さんの服をうちみたいな庶民の店で選んで良いの?」
「俺の金ではそんなに高いものは買えないからな」
「そのうち出世するわよ、エド。神様はあなたを見ているわ。きっと」
「そうだと良い」
ダイアナさんの言葉に、心臓がどくりと跳ねる。
浮かれていた私を、ネフティス様に咎められているような気がした。
「どんな服が良いのかしら。祝春の祭りの日には、大抵の場合花模様の服を着るわ。あなたの青い薔薇のワンピースも素敵ね。でも、お祭りだと桃色とか、赤とか、橙色とか、あとは紫の花が好まれるわね。何色が好きかしら、ルシル」
「紫が、好きです」
「ルシルの髪は綺麗な薄紫だものね。あぁ、ごめんなさい。無粋だったわね。エドの瞳の色を選んだのね」
「……は、はい」
「何着か持ってくるわね。試着をしてみましょう。こっちにいらっしゃい。……ルシルを借りても良いかしら。手を繋いでいたいのは分かるけれど、少しだけ離れて待っていられる?」
ダイアナさんは悪戯っぽくシェザード様に聞いた。
シェザード様は揶揄われたことに動揺する素振りも見せず、私からそっと手を離した。
私だけ意識をしてしまっているようで、情けない。
これは、身分を隠すための演技なのに。
シェザード様と私はただの婚約者だ。恋人ではないわよね。
婚約者と恋人は違う。勿論、愛しあっている婚約者の方が世間にはずっと多いのだろうけれど、シェザード様と私は少しだけ仲良くなり始めたばかりなのだし。
――少しだけ、仲良くなれたわよね。
分からないわ。
(でも、仲良くなれているかどうかなんて、重要じゃない)
大切なのは――未来を変えることなのだから。
「その辺の椅子に座って待っていて良いわ。女の着替えは時間がかかるもの」
「わかった」
軽く頷くシェザード様を残して、私はダイアナさんと共に店の奥へと向かった。
私はダイアナさんに手を引かれて、分厚いカーテンで仕切りのされた試着室へと入る。
ダイアナさんに促され、試着室の背もたれの無い椅子に座って、一息つく。
公爵家の庭を散策することはあったけれど、こんなに長い時間歩き続けた経験がないせいで、足の裏や踵が針を刺されたようにちくちく痛んでいた。
シェザード様には、隠せていると良いのだけれど。
せっかく二人で出かけることができたのに、体の不調を訴えて、台無しにしたくない。
ダイアナさんが私を残して服を選びに行ってくれている間、少しでも足を休めようと思い靴を脱ぐ。
靴下にじわりと血が滲んでいる。
擦れて、切れてしまったみたいだ。
「情けないわね」
歩くことすら満足にできないなんて。
私は小さく溜息をついた。