最後の我儘
私は、ただ、見ていた。
私には体と呼べるものはなく、私の体は私の視線の先にある。
シェザード様が私の亡骸を抱きしめるようにして、床に倒れる。
その表情は穏やかで満ち足りていて、――とても、幸せそうに見えた。
倒れた私たちの周りを、色とりどりの蝶が舞っている。
まるで祝福でもするように、黄金の宮殿の床が、美しい花々が咲き乱れる草原に変わっていく。
(嫌……、……嫌……っ!)
私は叫び声をあげた。
けれど私には口もなければ声帯もない。
言葉は音にならない。
(どうして、どうして……! シェザード様まで、こんな……、どうして……)
こんな終わりになるなんて、女神様は教えて下さらなかった。
シェザード様は幸せになる――
そう、信じていたのに。
「ルシル。異国の子は、あなたと過ごし、幸福な最後を迎えました。これはあなたが望んだこと。あなたは望みをかなえました」
ネフティス様の声が響く。
ネフティス様は実態のない私に、粛々と事実を告げている。
その声音には、何の感情も籠っていない。
「嘆く必要はありません。あなたたちの愛が永遠になるよう、共に死者の国へと連れて行きましょう」
(永遠に……、一緒に……)
「ええ。嘆く必要も、苦しむ必要もありません。そこは全てが変わらない。穏やかで、満ち足りた場所」
(ずっと、一緒に……)
苦しくも、辛くもない。
療養所で過ごした、まるで箱庭の中にいる日々のように、シェザード様とずっと一緒にいることができる。
――でも、それで良いの?
シェザード様は二人で一緒に帰ろうと言った。
子供が欲しい。家族が沢山欲しい。
一緒に釣りをしたり、狩りをしたり、それから、一緒に海を見る約束もした。
私たちの周りには、お父様やお母様、クラリスや、ジゼルや、皆がいる。
セリカやフランセス、それに、アルタイル様。
皆が、私たちをきっと、待っていてくれている。
それなのに。
「嫌……、嫌です……! 私は、永遠なんていらない……!」
私の姿が、取り戻される。
叫び声と共に、私はシェザード様の腕の中から起き上がっていた。
目を閉じているシェザード様の頭を、必死に抱えあげる。
胸に抱きしめたその体は、とても冷たい。
「私は……いつかお別れがくるとしても、でも、それでも……!」
私の首には、黒い茨の楔がぐるりと纏わりついていた。
声を上げるごとに、茨に罅が入る。
「ネフティス様……、どうか、お願いです。こんな終わりは嫌……」
今まで、言いたくても言えなかった言葉だ。
喉の奥に押し込められていた言葉を、私は叫んだ。
「私は死にたくない! もっと、生きたい。シェザード様と、一緒に!」
硝子が砕けるような音を立てて、私の首の戒めが崩れ落ちた。
ぼろぼろと、涙が零れる。
抑えつけていた感情が、あとからあとから溢れてくる。
(もう良いなんて、嘘。十分だったなんて、嘘)
「――生は苦しみ。死は安寧。――それでもあなたは、続けることを望むのですか?」
ネフティス様は、静かな声音で問う。
生は苦しみ。
死は、安寧。
ネフティス様にとってはそうかもしれない。
世界から逃げるために、死を選んだ人もいた。
それは間違ってはいないのかもしれない。
死が救いになる。
それはきっと、嘘ではない。
けれど、私は受け入れたくない。
「望みます。どんなに苦しくても辛くても、シェザード様を愛している。それだけで私は、幸せだと思えるのです」
「異国の子は、己の罪を知っています。生きる限り、あなたと共にいる限り、罪の記憶に苛まれることでしょう。あなたはその苦しみを、愛する者に背負わせるのですか」
「私が、支えます。私が手を繋いで、抱きしめて、その罪も全て含めてシェザード様を愛していると、何度でも伝えます」
「愛を伝えれば伝えるほどに、罪の意識が肥大して、苦しむことになるとしても」
「私は残酷で、我儘ですから」
私は残酷で、我儘で自分勝手だ。
それでも私は、シェザード様を愛している。
それだけが、私の姿を形作っている。
「……ルシル。……カダールに産まれた、私の子。私たちの子。……あなたの答え、受け入れましょう」
ネフティス様の唇に、慈愛に満ちた微笑みが浮かんだ。
黒いベールが二つに割れて、白いベールへと変わっていく。
それは長く白い髪のように伸びて広がった。
ベールの中から現れたのは、慈愛に満ちた美しい女性の顔だった。
「姉から随分と、意地悪をされましたね、ルシル」
ネフティス様よりも少しだけ高い声で、女性は言葉を紡いだ。
生命力に満ちた神々しい輝きを放つその姿を、私はシェザード様を抱きしめながら、見上げている。
「生は苦しみ。確かにそうでしょう。けれど、そこには確かに、輝きがある。あなたたちは、暗く深い奈落の底にあったカダールを、私たちの国を、光へと導きました。そしてこれからも。あなたたちを必要としている人々が、沢山います」
女神は私たちに錫杖を伸ばした。
私たちを取り囲んでいた蝶が一斉に、女神様の方へと飛んでいく。
「苦しく辛い道になるでしょう。それでも生きることを選んだあなたたちに、今度は私が祝福を与えましょう」
「……あなたは」
「私はイシス。豊穣の神。生と死は、表裏一体。私たちは、あなたたちを見守っています」
草原に、春風が吹く。
色とりどりの花弁が一斉に舞い上がり、視界が遮られた。
私はいつまでも、降り注ぐ花弁の中で、シェザード様を抱きしめていた。




