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罪と罰


 ◆◆◆◆


 ルシルの呼吸が、浅い。

 目を深く閉じて、体からはくたりと力が抜けている。

 薄く開かれた唇から、細い呼吸を繰り返している。

 上下する胸が、温かい体温が、まだルシルが生きていることを感じさせてくれる。


 白い塔の入り口は中に誘うように開かれていた。

 灯りとりの窓から、柔らかな日差しが差し込んでいる。

 石造の白い塔の中には何もない。ただ、広い空間が広がっているだけだ。

 階段をひたすら上へとあがっていく。

 紫色の蝶が、手招きするように俺とルシルの周りを何匹も飛び交っている。


「どうか……、ルシルを救ってくれ」


 ルシルはもう目を開かない。

 言葉も話せない。

 もしかしたら耳も聞こえていないのかもしれない。


 俺の腕の中から、ルシルの命の灯火が、消えようとしているのが分かる。

 祈るようにそう呟いた。


 どうして、と思う。


 何があったのかと、思う。


 これは何かの呪いなのだろうか。


 呪い以外の、なんだというのだろう。


「何故、ルシルなんだ。……何が、ルシルの命を奪っているんだ……」


 呪いを受けるべきは、罰を受けるべきは、俺だろう。

 ルシルを、傷つけた。

 守ると誓いながらもそれを果たせずに、何度も、辛い目に遭わせてしまった。


 そして、今も。


 己の無力さが、憎い。


 ルシルはいつだって俺を救ってくれていたのに、俺はルシルをーー守ることも、救うこともできない。


「俺はどうなっても良い。ルシルを、……助けてくれ。もし、女神がいるのなら、……俺の命を、ルシルに」


 ーー己の罪と向き合う覚悟はありますか。


 唐突に、女の声が頭の中に響いた。

 何もない無機質な石造の塔の風景が、星のない夜空のように黒く塗りつぶされていく。

 足元にも、頭上にも、右にも左にも、何もない。

 ただ、黒いだけだ。

 自分が目を閉じているのかも開いているのかもわからない、黒い空間に、突然放り出されたようだった。


 何も見えない。

 けれど、俺の腕は確かに、ルシルの重さと温かさを感じている。

 離さないように、しっかりと両腕に力を込めた。


「犯した罪があるというのなら、それでルシルを救えるというのなら、どうか、教えてくれ」


 ーー罪は、消えない。あなたたちの運命は、覆らない。異国の子。何も知らなければ、安寧の中に眠ることができるでしょう。それでも知りたいと願いますか。


「あぁ。知りたい。己が咎人だということを、俺はよく知っている」


 ーー良いでしょう。


 頭の中を、無理やり誰かの手でこじ開けられているような、酷い眩暈と吐き気を感じた。

 記憶の底の、底にある閉じられた部屋の扉が、開かれる。

 真っ黒だった俺の瞼の裏側に、憎らしい男の顔が映った。


「エド……、いえ、シェザード殿下。ご存知ですか?」


 俺はヴィクターの目の前に座っている。

 王都の街にある、傭兵が良く使う酒場の隅のテーブル席だ。

 ヴィクターは口元に笑みを浮かべていたが、俺が「何を」と問うと、哀れむような、悲しそうな表情を作った。


「シェザード殿下について、アルタイル殿下が良くない噂を流しているようですよ」


「……噂?」


「殿下は、グリーディアのドラグーン騎士団の騎士団長である、ギルフォード・スレイブの子供だと。王妃様が不貞を働いてできた、不義の子だという噂です。殿下の耳には入っていませんか? 社交界は、今この噂で持ちきりですよ」


 あぁ。

 そうだった。

 思い出した。


 この男は、社交界にも出入りしている。

 先頃までダルトワファミリーというろくでなしの集まりの幹部の一人だったが、足を洗ったらしい。

 今では医師として名をあげて、最近体調が思わしくない王妃ーーつまり、俺の母親の治療をするために、城に出入りまでするようになっている。

 ヴィクターという名は捨てて、ヴィクトル・レイルと今は名乗っている。

 かつては敵対していたが、城で俺の姿を見たらしい。

 王都の街で身分を隠して傭兵の真似事をしている俺を見つけて、「やはり、あなたはシェザード殿下だったのですね」と声をかけてきた。


 俺はヴィクターのことは好きではなかったが、大切な話があると言われて、酒場に連れてこられた。

 俺よりも余程城の内情や社交界について詳しいヴィクターが、わざわざ俺の元に足を運ぶほどのことだ。無下にはできなかった。


「俺が、不義の子だと」


「もちろん、そんなことを俺は信じていませんよ。ただ……、ギルフォードを見たことがある貴族たちが、口を揃えて言うのです。確かに、殿下に似ている気がすると」


「……まさか」


「他人の空似でしょう。ただの、ね。ですが、その話の出どころがアルタイル様だというと、話が変わってくる。アルタイル様は、噂を広げるようにと、何人かの手駒の貴族に命じているようですね」


「なんのために、そんなことを。アルタイルは王になる。今更俺を貶めたところで……、貶める名誉すら、俺には無いだろう」


「アルタイル様が欲しいのは王位ではありません。……あなたの、婚約者。ルシル様を、殿下から奪おうとしているのでしょう」


「……馬鹿げている」


 俺はそう吐き捨てて、椅子から立ち上がった。

 けれど、気づいていた。

 アルタイルは、ルシルに惚れている。

 何事にも平等で、どこまでも優しく冷酷な弟が、ただ一人気にかけて大切にしているのが、俺の婚約者であるルシルだ。


 ーー渡さない。


 あれは、俺のものだ。

 俺の家族になると言ってくれた。

 俺はルシルを愛している。それと同じ分だけ、俺から顔を背けて、アルタイルに微笑みかけるルシルが憎かった。

 

 ーー王位を奪い。

 ーールシルまで、欲しがるのか。


 怒りと憎しみで、臓腑が煮えるようだ。

 学園寮の自室に戻ると、俺はルシルから貰った手紙をもう一度読み返した。

 そこには美しい文字で、『シェザード様と、お話がしたいです。卒業式の後、裏庭で待っています』と書かれていた。


 手紙をもらったとき、俺は柄にもなく浮かれていた。

 ルシルは婚約者として俺を愛そうとしてくれているのだと、その文面から感じられたからだ。

 けれど、今は違う。


 別れを、告げるつもりだろうか。


 ルシルがどれほど俺を憎んでも、恨んでも、アルタイルのことを愛していたとしても。

 手放してなど、やらない。

 そう思い、俺は手紙を握り潰した。


 腰に細身の剣を忍ばせて、卒業式の後裏庭へと向かった。

 そこにはすでにルシルがいた。

 薄紫色の髪に、優しそうな桃色の瞳。


 婚約者だと紹介された日。ルシルは、俺の家族になると言ってくれた。

 けれどそれからというもの、ルシルは俺に会うといつも怯えたように視線を逸らすようになった。


 なるだけ近づかない方が良いのだろうと、思った。遠くから、ルシルの姿を追うようになった。

 ルシルは、日を追うごとに美しくなっている。


 卒業したら、俺はフラストリア家に婿入りする。

 そうすればーールシルが、手に入る。

 急く必要はない。その事実が変わることなどない。誰にも、奪われることなどない。

 そう、思い込んでいた。


 ルシルと共に、アルタイルがいる。

 春風と共に、二人の声が聞こえてくる。

 アルタイルはルシルに、俺との婚約を白紙に戻した方がルシルのためだと、説得をしているようだった。


 目の前が、赤く染まった。

 ヴィクターの話は、事実だったのだろう。


 怒りで思考が鈍る。

 殺してやると思った。

 アルタイルを殺め、王と王妃を殺め、俺がこの国の王になる。

 そうすればーールシルは、誰にも奪われたりしない。


 剣を抜いて、駆ける。


 誰かの肉を貫く感触があった。

 ーー俺の突き出した刃は、アルタイルを咄嗟に庇ったルシルの体を切り裂いていた。


「……ルシル、ルシル」


 地面に倒れたルシルを、俺は抱きしめる。

 違う。

 こんなはずじゃなかった。

 どうして、こんなことに。


 愛していた。

 愛していたのに。


「何故です、兄上。ルシルはずっと、兄上を想っていたのに……」


 アルタイルの震える声が、遠くに響いている。


「俺も……、すぐに、行く」


 俺は血塗れの剣を拾い上げると、躊躇いなく、己の喉を掻き切った。


「俺が、ルシルを殺したのか……」


 蘇った記憶に、俺は己の頭を両手で押さえた。

 暗闇の中、俺は一人きりだ。

 腕に抱いていたルシルの感触は、今はない。


「全て、俺のせいなのか」


 問わずとも、分かる。

 俺はルシルを殺した。

 そうしてーー俺は記憶のないまま、同じ時間を、もう一度過ごした。

 二度目の俺に、ルシルは優しかった。

 手を伸ばして、微笑み、愛していると言ってくれた。


「……俺は、自分に都合の良い夢を、見続けていたのか」


 長い、走馬灯だったのかもしれない。

 誰かの愛が欲しかった。

 誰かの、ではない。

 ルシルに、愛して欲しかった。

 ルシルを愛したかった。

 だから俺は、幻想を作り上げた。


「……いや、……違う。……ルシルは、……本物だった。紛い物ではない。……どうか、応えてくれ、女神。俺は、どうしたら良い」


 自嘲し諦めようとする己を、叱咤する。

 幻想などではない。

 ルシルと過ごしたおよそ一年間は、ただの幻想で片付けられるほど、軽々しいものではない。


 俺はルシルの手を振り払い、傷つけ、その感情を何度も試した。

 やがて何度でも俺に手を差し伸べてくれるルシルを、心から愛するようになった。

 守ると誓ったのにそれができず、無力な己を呪った日々も、穏やかに幸せそうに俺に微笑んでくれるルシルと、共に在ることで得られた安寧も。

 ーー女神を殺めることを決意して、ルシルを置いて旅立った記憶も。

 雪の中冷たくなったルシルを抱きしめてーー熱を分け合った記憶も。


 全て、偽りなどではない。


「己の罪を受け入れられず、絶望の淵で己を失い、逃避の快楽に溺れるーー筈でした。あなたは、戻ってきたのですね。異国の子よ」


 荘厳な女の声と共に、視界が開ける。

 そこは、黄金の神殿だった。

 目の前に、女が立っている。

 ベールで顔を隠した女だ。煌びやかな装飾品を身につけて、片手には錫杖を手にし、もう片方の手のかわりに肩から猛禽類の翼が生えている。

 床に膝をついている俺のすぐ前に、ルシルが横たわっている。

 深く目を閉じているルシルの体を、俺は抱き寄せた。

 温度が感じられない。

 体温を失い、呼吸も、もう止まっている。

 それでもルシルは、どこまでも美しかった。


「ルシル……」


 冷たい体を抱きしめる。

 裏庭でルシルを殺めた記憶が、何度も脳裏に蘇った。


「私はネフティス。あなた方が、女神と呼ぶ者。死者を導く、葬送の神。あなたを愛するルシルの強い想いに、私は温情を与えました」


「ルシルが、願ったのか」


「ええ。もう一度、やり直したい。あなたのために。それが、ルシルの願い。けれど、運命は変わりません。死者は甦らない。ルシルの命には、終わりがある。そして異国の子。あなたの命も、もうじき尽きるでしょう」


「そうか……、俺も、共に在ることができるのか」


 俺は己の喉を切った。

 死の運命が変わらないというのであれば、俺も、また。


 それなら、良い。

 どのみちルシルを救うことができなければ、俺も共に行くつもりだった。

 立場も、役割も、全てどうでも良い。

 ルシルがいなければ、徒に長く続く生など無益なだけだ。

 そんなものはいらない。


「ありがとう、女神。……良い夢だった。……これ以上ないほど、幸せな、良い夢だった」


 俺はルシルの体をきつく抱きしめる。

 今、行く。

 一人にはさせない。


 ◆◆◆◆



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