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春の予兆



 ふと、目を覚ました。

 瞼をぱちりと持ち上げると、シェザード様の整った顔が視界いっぱいに広がる。

 閉じられた瞼には長い睫毛が並んでいて、頬に影を落としている。

 銀色の髪を窓から差し込んだ光がてらし、きらきらと輝いている。


 首にはしっかりとした骨が浮き出ていて、首筋から続く鎖骨の窪みに影が落ちている。

 筋肉の隆起がはっきりとわかる腕と、胸。

 急な気恥ずかしさを感じて、私は軽く身じろいだ。


 室内は暖かい。

 暖炉には火が残っている。室内があたたかいからだろう、小さな窓は白くくもっている。


 長い睫毛が並ぶ瞼がゆっくりと持ち上がり、紫水晶のような瞳が瞼の下に覗く。

 口の端が笑みの形を作り、優しい眼差しが私を見つめた。


「ルシル、おはよう」


 うっとりしてしまうような優しい声で、シェザード様が私の名前を呼んだ。

 髪を撫でられて、額や目尻に口づけられる。

 一緒に朝を迎えるのははじめてではないけれど、これがはじめてと思ってしまうぐらいに恥ずかしい。

 顔に熱が集まるのが分かる。

 胸が痛いぐらいに、高鳴っている。

 恥ずかしくて、それと同じぐらいに、嬉しい。


「あ、あの、……おはようございます」


 何か言うべきことを探したけれど、結局挨拶ぐらいしか出てこなかった。

 こういう時、何を言えば良いのか分からない。

 もっと、何か伝えることがあると思うのに、言葉がまるで出てこなくて、何も思いつかない。


「眠れたか? 体は、痛みは?」


「大丈夫です」


「何か飲むか? 食事を準備しよう。ルシルは、寝ていて良い」


 私たちは小さな小屋の狭いベッドで身を寄せ合うようにして横になっている。

 シェザード様が起き上がろうとしたので、私はその硬い背中に腕を回して胸に頬を摺り寄せた。


「もう少しだけ、このまま……」


 シェザード様は起き上がるのをやめて、私の背中や頭を大きな手で引き寄せて抱きしめてくださった。

 抱きしめられると、気持ち良い。

 触れ合う肌があたたかくて、眠りたくなってしまう。


「吹雪がおさまったな」


 低く少し掠れた声音が、皮膚を通じて響いてくるようだった。

 私は目を伏せて、こくりと頷く。

 小屋を揺らすほどに強かった風の音も、今はしない。

 曇った窓から差し込む光は、春の暖かさを孕んでいるように感じられる。

 埃の粒子が天の川のようにきらきらと輝いている。


「もう一日、やまなければ良かったのに」


 シェザード様が少しだけ残念そうに言った。

 私は不思議に思って、その精悍な顔を見上げる。


「吹雪がおさまるのは、良いこと、ではないのですか……?」


「吹雪いていれば、ここから外に出ない言い訳になる」


「……シェザード様も、そんな風に思うのですね」


「ずっとこうしていたい。ルシルは暖かくて、柔らかい。ベッドから出ずに、一日中抱きしめていたい」


 どこか甘えるような口調で言われて、私は吃驚して目を見開いた後に微笑んだ。

 いつもどこか張り詰めたように、隙のない印象のシェザード様が、私に甘えてくださっていると思うと、嬉しい。


「私も、同じです。シェザード様の腕の中にいると、安心できます」


「あまり安心されても困るな」


「どうしてです?」


「……いや、……良いんだ。もう少しだけ眠ろうか、ルシル。まだ、日が昇ったばかりだ。急ぐ必要はない」


 私はこくんと頷いた。

 シェザード様に、もう一度会うことができた。

 最後まで一緒にいることができる。

 そう思うと、あれほど急いていた心が、凪いだ湖面のように穏やかになった。


 私は満ち足りていて、これ以上ないほどに幸せで――だから、もう十分だと、思う。


 規則正しい心音を聞きながら、私は目を閉じる。

 すぐに睡魔が襲ってきて、再び心地よい微睡の中に落ちて行った。


 長く続いていた吹雪が、最後の冬を吹き飛ばしてしまったようだ。

 陽光が雪の被った白い平野に降り注ぎ、凍った小川や、街道に積もる雪が解け始めていた。

 私は擦り切れた両足に傷薬を塗った。


 薬のおかげか、吹雪で足止めされて数日ゆっくり休むことができたからか、裂けていた皮膚は綺麗に治り始めていて、膿んだりしている様子もない。

 念のためにシェザード様が包帯を巻いてくださったけれど、痛みもほとんどなくなっていた。

 

 私を抱き上げようとするシェザード様に、歩けますと言い張った。

 足手まといになることは分かり切っていたけれど、必要以上に迷惑をかけたくはない。

 シェザード様に会えて安心したせいか、体も足も、今までの苦労が嘘のように軽くなった。


 雪ばかりで陰鬱だと思っていた景色が、シェザード様と一緒にいるととても美しいものに感じられる。

 小川の清廉な水も、泳ぐ魚も、小川の川縁から顔を出している小さな青い花も、見るものすべてが新鮮で、綺麗だった。

 もう雪も降らず、あたたかな春の日差しが降り注いでいる。

 今が何日なのかも分からない。

 もう、良いかなとも思う。


 明るいうちは街道を進み、暗くなると小屋で夜を明かした。

 私はずっと幸せだった。

 このまま女神様の元へ辿り着けず時間切れになってしまったとしても、構わない。

 そう思ってしまうほどに、幸せだった。


 北の果て。

 最果ての街アニマに辿り着いたのは、シェザード様と共に旅を始めて数日後のことだった。


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