5.譲れないもの
「えーと、何で晃の部屋にいたのか。
まずは君の言い分をじっくり
聞かないとね。さっきはほら。
観衆がいて落ち着かなかったでしょ?」
蒼馬は本棚に囲まれた執務机を隔て
火鷹へと質問を投げ掛ける。
その様子は怒っているのでもなく
投げやりな訳でもなく、ただ真実を
火鷹の口から確認したいという
落ち着き払ったものであった。
(あら、いちメイドの言い分を
じっくり聞いてくれるだなんて。
さっきはどうなるかと思ったけど
結構出来た主なのね)
先程は火鷹が晃に迫った挙げ句鼻血を
出しエプロンを脱ぎ捨てたのだと結論を
下した蒼馬であったが、それはどうやら
軽口のうちらしい。表立ったことよりも
やるべき事は水面下で行う人物らしい、
と火鷹は察した。
その潔い姿勢にしばし感じ入りつつ
蒼馬の腕部分に目を止める。
ワイシャツの下に包帯が巻かれている
ことに気がついた。
(怪我……?)
視線に気付いた蒼馬がワイシャツを
引っ張り直し、にこりと笑う。
「ああ、これ。
玄関先で転んでぶつけたんだ」
(ぶつけた位で包帯を巻くのかな?
微かに薫る血の匂い……。
打傷じゃなくて切傷じゃないの?)
あまり怪しむと返ってこちらも怪しまれる。
火鷹はそうですか、と簡単に返事をすると
ますます謎を解き明かすためには
この屋敷にメイドとして居座らねばならぬと
意を決した。
(ここはしっかりビシッと決めないと!
よしここはバレない忍術で!)
忍同士の戦闘のことは省いて、単に
いちメイドが侵入者を追い払った、
と言えばそれで済む話であるのだが。
火鷹はどういう訳か
「でもぉ、だって窓が開いてたからぁ」
とくねくねしながら上目使いで説明を。
だが蒼馬は重厚な机に腰掛け、全く別の
仕事の書類に目をくれている。
(お色気の術が効かない……、だと!?
ってこっち見てないし!
見なさい! 見たら効くから多分!)
一流の忍とも言えど、その術に限っての
成功率は今の所、0に近しい数字である。
ややあって蒼馬は目を瞑り、なにやら
思案し始める。そして重そうに口を開くと
「君って、ほんとずれているというか……。
まぁ、そのドジッぷりから察するに
今回のことも悪気はないんだろうけど。
君はこれからもここで働きたいの?」
「はい! もちろんです!」
とはっきりきっぱり答える火鷹。
勿論、忍としての任務を鑑みてのことで
ある。荒れた里を救う為に、この地の
守護者である蒼馬達に何が起きているのか
探らねばならないのだから。
ふーむ、と再び考えに耽る蒼馬。
恐らく普段とても忙しいのだろう。
端正な筈の顔はどこか疲れているのか
目の回りにうっすらと隈が出来ていた。
蒼馬が閉じていた目をゆっくり開き
火鷹に向きなおった。答えが出たのだ。
火鷹はしゃん、と姿勢を正しそれを待つ。
だがその口から出た言葉は――――。
「ご主人様って呼んでくれたら、許すよ」
――――プチン。
火鷹がそれを簡単に言う筈もなく。
彼女の中で何かが途切れた音がした。
(何なの? 蒼馬様まで何なの!?
晃様と結託して私を馬鹿にしているの?)
晃の場合、その要求は結構な真剣度で
あったものの、蒼馬の場合はそうでない。
ただの軽口だった。軽口だったのだ。
だがそれは随分とタイミングの悪いもの
であり、火鷹を憤怒させるのに十分だった。
「全くあの人もこの人も! 呼びません!
そう簡単には! 呼びませんから!
こんな家、こちらから願い下げだわ!」
そう叫ぶなり火鷹は執務室を飛び出し
その勢いのまま本当に屋敷まで飛び出し。
メイドとしてのドジッぷりをその一言で
許してくれるという蒼馬の話にも関わらず
火鷹は忍としてのプライドを守る為に。
認めた相手以外は主人と呼ばない、
それだけの、だが譲れない理由の為に。
火鷹は忍として最大のドジを踏んだのだ。
要は任務放棄。どうにでもなれである。
(お世話になってる上忍様からの頼まれ事
だからちゃんとしたかったけど!
無理なものは無理! ごめんなさい!)
火鷹は夕陽に向かいひたすらに走り出す。
隣には追いかけてきたシャチもいる。
――――自分はなんて頑固者なのだろう。
本当にこれでいいのだろうか?
火鷹はそんなことを考えながらも
ざわつく胸中を落ち着かせ、きっと
大丈夫と自身に言い聞かせようとする。
そして無我夢中で道を走り続けるも。
――――ザザッ!
「いたっ!」
道にはみ出していた木の根に躓き、転んだ。
走って転ぶなど一流の忍にはまずないこと
であり、心の動揺を火鷹自身隠しきれて
いない証拠でもあった。踞る火鷹に
シャチが心配そうに寄り添う。
(子どもの頃、修行で沢山怪我をした。
大丈夫だったけど、沢山泣いた。
大丈夫だったんだけど、母や父が
忍仲間が心配してくれてようやく
本当に大丈夫になれた気がする。
そうして大きくなって私は
いつの頃か泣かなくなった。
大丈夫じゃなくても泣けなくなった)
そして今、本当に大丈夫なのかは
わからないまま火鷹はまた走り出す。
先程まで晴れ渡っていた空は
いつの間にかどんよりと曇天に。
光を隠した鉛色の重苦しい雲間からは
何かが覗くようにうごめくように
不穏な空気がその地に淀み始めた。
――――その後再び執務室にて。
「うーん。さっきの娘、どう思う?」
と蒼馬は自身の足元に目線をやる。
そこには机下の空間に隠れるように
座りこみ、そして両手でゲームを
している青年がいた。
「微かに血の匂いがした……。
服のポケットあたり」
「ふーん、やっぱりか。
忙しいところ悪いんだけど、
あの娘を調べてくれないか」
青年はゲームをぱたん、と閉じる。
「了解。あ、セーブし忘れた……」
青年は背中にひっそりと哀愁を漂わせ
のそのそと部屋を出て行くのであった。
補足説明
お色気の術は素質と相性、また場の空気等
一つまたは複数の要素が因果するものであり
その効果は時と場合により大きく異なる。
参考資料
名前:シャチ(♂)
職業:ニンニャ
お色気の術成功率:チュールの数に比例