3.どうでもいいこと
髪は無造作に伸ばしっぱなし。
顔は洗いっぱなし、化粧っ気もない。
それらは女子の火鷹と男子の晃、どちらにも
共通している点であるのだが。
(もし私が花飾りとか頭に着けたら皆、
引くだろうな。晃様は男子なのに
それがこうも似合って可愛いとは)
とシャチをあやす晃にぼんやりと目を向け
目の前の問題から目を背ける火鷹。
だが眼前の黒薙はそれを許すはずがない。
「私はシーツにアイロンをかけて、と言った
はずよ、火鷹さん。それが晃様と部屋で
二人きりになるなんて、何のつもり?」
と黒薙。腕組みし、しかめっ面な様子は
鬼先輩と呼ぶに相応しそうな反面
火鷹のメイドっぷりだけを見ると
この怒り様は仕方なしと言うべきか。
「す、すみません。でも窓が開いてたから
閉めないと、と思って……」
「窓を閉めるだけで、どうしてこんなに
部屋がぐちゃぐちゃになるの?
しかも、窓はまだ開いてるじゃない!」
と指さす方はカーテンが風でゆらめく窓辺。
件の敵忍が逃走する際に開けていったのだ。
火鷹はあちゃーと顔を歪めるも弁解を試みる。
「侵入者がいたから、コーヒーをかけたんです!
その後窓から逃げて行ったんです!」
(お!? 勢いで言ってみたもののなんて
完璧な言い訳! しかも大体ほんとの事だし)
その説明にふん、と鼻息を荒くする黒薙。
だが集まったギャラリーが黙っていない。
「侵入者がいて逃げたって……。
無理がないか? ここは地上三階だぞ」
「なんでエプロン脱いでるの?」
「それよりあの血は何? 鼻血?」
集まった使用人達は皆、思い思いに
自らの推理をぶつぶつ話している。
黒薙はその声に耳を傾け、しばし考えると
「侵入者はずばり、貴方でしょうね」
とズバリと火鷹を指した。
「うっ! そんな、違います!」
(確かに私も侵入っちゃー侵入だけど!
結果的には寝ていた晃様を守っただけで。
ああー、なんでこんな面倒なことに)
と、火鷹が頭を抱えたそのとき。
ギャラリーの話し声がすっと消え
それら人の壁がすっと二つに割れた。
その奥からゆらりと現れる、一人の影。
「皆、どうしたの?」
静かだが良く通る声であった。
音月家の当主、音月 蒼馬である。
黒薙や使用人達は皆、彼に向かって一礼する。
火鷹もそれに倣い、ぺこりと頭を下げた。
ただしメイドらしく振舞いつつも、目の奥は
忍としての鋭さを光らせながら。
(音月家の主、蒼馬……。
一度挨拶で会って以来、屋敷を不在がち。
滅多にその姿を見ない人物……)
端正なルックスに優しげな物言いが
使用人達に人気の齢29、独身。
洞察力の深さと冷静さが評判な
若き企業経営者でもあった。
そんな人物が室内を見渡し一言。
「ふむ……、これは」
ごくり。皆が固唾を飲む中。
「晃の寝顔に悶々とした火鷹さんが鼻血を出し
エプロンを脱ぎ捨てた。そういうことだね?」
「!? ち、違いますよッ!」
音月 蒼馬、29歳。洞察力が鋭い男である。
そして火鷹の上げた抗議の声も虚しく
その耳に届くのはギャラリーの声。
「コーヒーは!? 蒼馬様、絨毯に広がる
コーヒーの染みはどう説明を!?」
「ああ、火鷹さんのいつものドジでしょ」
ははは、と蒼馬は爽やかに笑い飛ばす。
対して必死に否定したい火鷹であったが
ドジったことには変わりないと妙な納得を
している間にも、蒼馬の推論に周囲の
議論も固まりつつあった。
(はっ! どうしよう。
私の立場は一体!?)
火鷹が我に返るもその時にはすでに黒薙が
「蒼馬様、私達が着いたとき扉には鍵が
かかっており、晃様は寝ておられました。
火鷹さんは部屋に勝手に入ったようです。
その点についてはいかがいたしますか」
と蒼馬に伺いを立てていた。それは火鷹の
今後の処分を考えるという意味合いを
含んでのものだろう。確かにいちメイドが
部屋に勝手に入った事実は事実であり
大問題でもあるのだから。
蒼馬はうーむと顎に手をやり部屋を見渡すが。
「ふーむ。とりあえず解散。
ここの片づけは黒薙さんや数名に任せて
火鷹さんは後で私の執務室に来なさい。
晃は風呂にでも入っておいで」
と言い残し、立ち去っていった。
そんな二人のやり取りを目にした
ギャラリーはひそひそと
「あの子クビになるんじゃない?」
「いくら何でもやらかしすぎだものなあ」
「晃様に迫るとはいい度胸だなあ」
と口々に話している。そして部屋の主で
あるはずの晃に至っては、議論の間一言も
口を挟まず仕舞いであった。
(正体を怪しまれるよりマシかもしれない。
だけどこんな理由でクビって……、ない)
火鷹は脱ぎ捨てたエプロンを手にとぼとぼと
廊下を歩き、蒼馬の部屋へと向かおうとしていた。
すると後ろから
「火鷹さん、大丈夫だよ」
とふいに軽やかな声が耳に届く。振り向くと
そこには火鷹を追ってきた晃がいた。
その頭上にはなぜかシャチが乗っかっている。
「わかってるからさ、部屋に入った事情」
「……え?」
その言葉に火鷹は緊張を走らせる。
(まさか見られていたの?)
だが晃は頭上のシャチを指差し
柔らかい口調のまま話を続けた。。
「この猫、君のでしょ?
この猫が僕の部屋に来たから
追いかけてきたんでしょ?」
晃はシャチを頭からおろすと、ふふっと笑う。
その言葉と笑顔に火鷹はほっと安堵する。
晃はあのとき寝ていて何も見ていないのだと。
「ごめんなさい。
だけど別に飼ってるわけじゃ……」
(メイドがペットっていうのも変だし
シャチはただの相棒だからなあ)
と誤魔化しながらもシャチを受け取る火鷹。
「いいよ、内緒で飼ってるんでしょ?
君が中庭をぐるぐる走ってるときに
この猫も一緒にいるのをよく見かけたから」
「あはは、走ってるとこ見られてましたか。
私、ドジなものでよく失敗するんです。
反省にと思って走るとシャキッとするんです」
(晃様って、結構優しい人なんだな。
使用人間ではやる気ゼロお坊ちゃまとの
評判だけど実際は少し違うのかも。
でも今はそれどころじゃないよね)
と少しだけ愛想笑いをしてみたものの、
火鷹の目はすぐに真剣なものと変わる。
「……侵入者がいた、ってこと。
本当に私の戯言だと思ってますか?」
晃は黒薙達の様にあれやこれやと議論する訳でも
なく、自室で起きたことなのに結論は蒼馬任せ。
例え火鷹が猫を追って自分の部屋に入ったのだと
しても自室に侵入者がいた、との発言に何も
思わないのだろうか? それが本当で危険を排除
しなければならない可能性を考えないのだろうか?
火鷹は含みを持たせ問いかける。
だが晃はあっけらかんと
「さあ……、そうかもしれないし違うかも。
僕にとってはどうでもいいことだよ」
と答えきるのだった。
「え、どうでもいいことって……」
(命を狙われていたかもしれないのに?)
訝る火鷹。淡々と答える晃。
「興味を持たれるのも、期待されるのも
守られるのも。どうでもいいんだよ、僕は」
「……」
「ついでに言うと、秘密のペットのことも
どうでもいい。だから誰にも言わない。
そこに君が恩を感じることはないよ」
晃は無気力で無欲な少年――――。
調べた情報で浮き出てきた晃への周囲の評価。
それが随分と印象的に感じたことを今、
火鷹は思い起こしていた。
(貴方の為に、沢山の人が心配していたのに?
それに敵が晃様に近づいていったとき。
私の頭に忍の任務とは違う使命感が体に
走った。この人を守らなきゃって。
だけどそっか、どうでも良かったのか)
火鷹は感情的になりかける心を落ち着かせる。
そう、今はそんなことどうでもいいのだから。
そして彼もそうなら、とくるりと晃に向き直る。
「じゃあどうでもいいついでに、一つだけ
お願いがあります。猫を追いかけて部屋まで
来てしまったこと、蒼馬様に一緒に話して
くれませんか? このままじゃ私、本当に
メイドをクビになってしまうので……」
お願いします、晃様、と丁寧にぺこりと
お辞儀をしてみせる。晃はその光景を
どういうわけかじっと凝視している。
――――火鷹は丁寧にお辞儀をしているだけ。
それだけだ。だがそこから醸し出される
何かが晃の動かない感情を、新しい風が
吹き込むように揺さぶり始めていた。
(僕は何をじっと見ているんだろう?
こんなの普段よく見る光景じゃないか。
だけど何か足りないこの感覚……。
何だろう……。間違いない。
この場には絶対に足りないものがある)
そしてしばらく考えた後に
「火鷹さん、エプロンをちゃんとつけて?」
「え? は、はい」
(そっか、蒼馬様の所に行く前にきちんと
身だしなみを整えた方がいいものね。
刺された箇所は後でこっそり縫っておこう)
と火鷹はエプロンをきゅっと締める。
「これでいいですか?」
「うん。うーん。えーと。
ほんとに、僕の説明でいいのかな?」
「はい! お願いします!」
もう一度火鷹はぺこりと頭を下げる。
しかし晃はその様子を未だじっと眺めている。
どうやら何かに納得がいっていないらしい。
(何か物足りない、こんな感情はいつぶりだろう。
僕は一体何がしたいんだ。一体何が欲しいんだ?
あ、……そうだ!)
晃は何かをひらめいたらしく、ぱっと表情が
明るくなる。だがそのすぐ後、少しはにかんだ
表情で火鷹から目線をそらすと
「あ、あの。
お願いします、じゃなくって、えーと。
お願いします、ご主人様って言ってみて!」
と、実は忍なメイドにとんでもないことを
要求し始めた。おまけに顔を赤らめている。
その光景は、可愛らしい顔をした少年の
何でもないようなお願い事。
感情や欲求を滅多に表に出さない少年の
絞り出したようなお願い事。
対する火鷹の表情は口をへの字に歪ませ
燃えるような情熱の火を宿した目は今、
闇のような漆黒に染まる。そこからは
それ、絶対に言いたくないから、という
想いが溢れんばかりに伝わってきた。