2.可愛いですね
研ぎ澄まされる火鷹の神経。
屋敷内の音が聞こえてくる。
階下の部屋を誰かが掃除する音。
別フロアの物置を整理する音、
キッチンで皿同士が重なる音。
相変わらず晃はベッドですやすやと
その傍らで忍猫シャチはふがふがと寝入る。
それを目の端で確認し火鷹は
侵入者である忍に尋ねた。
「どうして、晃様が欲しいの?」
「その男にはお前の知らない価値がある」
火鷹の素朴な疑問に忍は静かに応える。
しかし顔をマスクの様に覆っている
布地の下には不敵な笑みが感じられた。
火鷹は表情を変えないまま思案した。
(それを知ることが出来れば里に
有益な情報をもたらすことが
出来るかもしれない。ここは
この忍を捕まえて聞き出すとしよう)
火鷹は自身の出した結論に期待を
抱きつつも何気ない素振りを見せ
「へえ、それ私も知りたいな。
お茶でもゆっくりどうかしら?」
と火鷹は傍のテーブルに置いてあった
ポットの中身を忍めがけてぶちまけた。
狙い通り怯む忍。何故なら中身は熱い熱い湯。
のはずが。目の前に舞い散るものは
焦げ茶色の液体と、芳しい焙煎の香り。
(中身はコーヒーだって!?
しかも床は白地のカーペット!
真っ白白のカーペット!)
火鷹は激しく後悔した。
(後で掃除しなきゃじゃん!)
だがすぐさま冷静さを取り戻し
追撃を仕掛けに行く。
「! くそっ!」
敵はというと火鷹の焦りなどいざ知らず。
すんでの所でコーヒーをかわしたものの
火鷹の攻撃の真意に気づいたときには
ときすでに遅しであった。
背後に気配を感じ振り返る敵忍。
そこには回り込んだ火鷹が
短刀で斬りかかろうとしていたのだ。
「武器を持ってるだと!
ますます何者だ!」
「果物ナイフだよ!」
実際、先程ポットを取ったテーブルに
置いてあった果物ナイフであった。
敵も腰に差した刀を抜き、応戦する。
キン、カキン! と刀同士がぶつかり合う。
その音に、内心火鷹はヒヤリとする。
(晃様が起きたら、この場面を見られたら)
壁を登り、窓から部屋に入っておいて今更
であるが潜入の事実を知られてはならない。
(さっさとケリをつけないと!)
「シャチ! 手伝って」
「むにうー」
「寝てるし……!」
「ふん! 余所見してる場合か!?」
呆気にとられていた火鷹に
敵から渾身の突きが繰り出される。
火鷹の丸い瞳に刀の先端がぎらりと写る。
直後それは火鷹の白いエプロンの上から
腹部にぐさりと突き刺さった。
「急所は外した。だがこれで
しばらくは動けまい……」
――――だが。
バサリ。
突如何かがはためく音が空を裂いた。
敵が見上げたその先には火鷹が身に
着けていたエプロンが宙に広がっていく。
そしてそれを纏っていた彼女の姿が
どこにもない。敵忍は周りを見渡すと
今起こっていることを理解しながらも
やがて驚愕の声をあげた。
「エプロンを瞬時に脱ぎ捨てたのか!?
やはりただ者ではないな!
こそこそ姿を隠さずに出てこい!」
「最初から隠れてた貴方に
言われたくないわ」
敵の右耳に響く声。すぐさまそちらへ
切りかかるもそこはもぬけの空。
ふわりと窓辺のカーテンが動いた気がして
そこに向かって切りかかるも先と同じく
やはりもぬけの空を切るのみ。
この忍が現れる際に姿を消していたのと
同様に、火鷹は自らの気配を消し去り
また同時に分散させていた。
目眩まし、または手品。そう呼ぶこともある。
火鷹達、忍の間では幻術と呼ばれている術。
だがそのスキルは先程気配が漏れ出ていた
この敵忍よりも火鷹の方が格段上であった。
敵は唯一顔部分で露出している目を
憎らしげに歪めると舌打ちをする。
「まったく小癪な。
暴れメイドめ……
どこだ出てこい!」
――――そう叫んだ瞬間。
ドカッと胸元にぶつかる衝撃とともに
窓辺の壁に押し付けられる敵忍の体。
その眼前には鋭い眼差しで自身を
睨みつけるメイドがいた――――。
敵の首もとには火鷹の鋭い刃先が
向けられている。赤みを帯びた瞳は
さらに赤く燃え上がり、されど声色は
氷のような冷たさを帯びていた。
「さぁ……、この部屋は地上数メートル。
後ろは窓。暑いから少し開けようか?
それとも知ってること教えてくれる?」
戦いの決着がついたのは明白であったが
それでも敵忍は抗おうとする。
「しかしここで退くわけには……。
せめて!」
(いやいや)
忍は火鷹の腕から抜け出そうと
体を捻る。その際に火鷹のナイフの
刃に触れた肌から血が垂れていく。
「動かないで……!」
(血が床に垂れたら
誰が掃除すると思ってんの!?)
既に床はコーヒーまみれである。
「そんなわけにいかない!
うおお!」
敵忍の気迫に今度は火鷹が驚いていた。
首もとをナイフで掠めながらも火鷹を
突き飛ばし、晃のベッドへ駆け込む。
その残像を追いかけるように鮮血が
ポタポタと床に落ちていく。
もはや掃除の心配どころではない。
「晃様が危ない!」
(しまった、甘かった―――)
敵忍がベッドにいる晃の腕を
掴み上げようとしたそのとき。
バチン! ボヨン! ボコン!
何かが弾ける凄まじい音がしたかと
思うと次の瞬間、敵忍は顔を抑えながら
よろめき、倒れ、呻いていた。
「肉球パンチとは……
恐るべし……」
その側では火鷹の忍猫シャチが自身の
肉球にふっと息を吹き掛け、やれやれと
いった表情で佇んでいる。
「ナイス、シャチ!」
火鷹が晃のもとに駆け寄り再度
忍を捕まえようとしたそのとき。
――――コンコン。
「晃様、先程から何やら物音が。
どうなさいましたか?」
ノックする音。
心配そうな声。
――――コンコン。コンコン。
「晃様、大丈夫ですか?
お返事をなさってください」
増していく問いかけ。
動揺する火鷹。
(どっ……、どうしよう?
しかもこの声、厳しい黒薙さんだ!
……居留守使っちゃう?)
―――ガチャガチャ!
鍵のかかったドアノブを回す音。
ますます心配そうな黒薙の声。
「晃様?
開けてください!」
外では合鍵を持ってきました、と
誰かが声高に叫んでいる。
火鷹はとっさにナイフを仕舞い
敵忍を置いて窓から去ろうと試みるも。
(やば、エプロン回収しないと)
と部屋内に折り返したそのとき。
――――ガチャ!
ドアが開くとともに、顔色を変えた
先輩メイドが部屋に駆け混んでくる。
「晃様、大丈夫ですか!?
……って、えええっ!?」
黒薙が見たもの。それは。
床に転がったポット。中身は空。
中身であったコーヒーはまるで
ゲレンデの初雪を楽しむかのように
純白の絨毯に広々と染みを作り。
また別の場所では点々とする鮮血。
なぜか放り投げられたエプロン、と
それを脱ぎ捨てた新人メイド火鷹。
そしてベッドで寝息を立てる晃と猫。
黒薙は何から事情を聞けばいいのやらと
頭を抱え、ようやく言葉を絞り出した。
「……一体これはどういうこと?
火鷹さん、あなた、何やってるの?」
「あの……、その」
(こうなったらもう、仕方ない。
ここは侵入者を捕まえた体でいこう!
でも、ただのメイドが何故そんなこと
出来るか聞かれたら……? うーむ。
……よし、空手とか習ってることにしよ!)
火鷹は浅い結論に至り自信満々に、どうぞ
あちらをご覧ください、とベッド横で
伸びている忍を指し事情を話そうとするが。
「って、あれ!?」
先程まで部屋にいたはずの忍は忽然と消え
代わりに窓が大きく開け放たれていた。
(逃げたか。まぁ、余計な面倒にならずに
済んだかもだけど。……。さ、さてと)
「えっと、そのですね」
火鷹がこの状況をどう説明しようかと
再び考え始めたそのとき。
「ううーん、あれ?
僕いつの間にか寝ちゃって……。
皆さんどうしたんですか?」
とベッドに寝転んでいた晃が起き上がる。
一斉に晃に移る人々の視線。
それは火鷹も同様であった。
そして初めて間近で見る晃の顔立ちに
火鷹は目をぱちくりとさせた。
スラッとした体格とふわふわの栗色の髪。
ゆるいニットのセーターは萌え袖仕様。
(寝てたからわからなかったけど
この人、なんか目がぱっちりしてて
睫毛も長くて、髪の花もよく似合う。
お肌もつやつやでこれは間違いなく)
「男の方だと聞いていましたが
女の方……、だったんですね」
と一言。
「!!」
その言葉に黒薙はきっと顔をしかめ
首を横に振る。言っちゃだめ!と
いう意味らしい。火鷹はその合図に
気付きつつも、意図が通じずにいた。
おまけに傍らのシャチも晃をぱちくりと
見ると、花瓶の花を咥えて晃の髪に挿し
「にゃーい」
と嬉しそうに鳴いた。
(シャチ、何てことを……。
いやでも気持ちはわかる、わかるよ!)
「とっても可愛いですね」
と二言。
「!!」
黒薙の表情が般若に近づいていく。
「晃様は立派な男性です!」
「へっ!?」
「へっ!? じゃない!」
そのやり取りにしばし呆気に取られつつ
晃はやがて、まぁまぁと手を上げ
申し訳なさそうに笑顔を浮かべる。
「あははは。いーですよぉ、
僕の見た目なんてどうでも。
それよりこの騒ぎ、何です?」
ギャラリーはいつの間にか増えており
火鷹と晃の周りには幾人ものメイドを
始め料理人達が集まっていた。
火鷹は気まずくなり一刻もこの場から
こっそり立ち去ろうと気配を消さんとする。
――――だが。
「どこに行くの?」
とあっけなく黒薙に呼び止められる。
「あ、あの私、反省に走ってきますね……」
「まずはこの状況を説明なさい!」
あたふたする火鷹をピシャリと一括し
仁王立ちする先輩メイド、黒薙 富美。
後ろにまとめたアップ髪が魅力の28歳。
彼女の前で忍び足は通用しないのであった。