怒ったように泣いて、笑って 3
誰かを殺めることに、今更躊躇いなどなかった。
初めて殺した彼はレコードが好きで、毎朝のコーヒーが好きで、若いブロンドの髪の女が好きで、愛犬の名前はフレディで、週に二回近所の池の周りを走って帰りにはプレッツェルを買って食べていた、オムレットを焼くのが得意だといっていたが、ときどき生地を焦がしては残念そうに振舞っていた。ブラウンの丸メガネは大き過ぎたのかテンプルがぐにゃりと曲がっていて、でも彼はそれを気に入っていて……
生きているとも言えないあたしが命を奪うのならば、せめて奪ったものの全てを理解するのがせめてもの道理だと。なまじ心を持って生まれたせいで、どうしようもない自己満足なんだと分かっていて。
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平凡な幸せだった。
同じような日々を繰り返した。
みんなで囲む食卓は笑い声で溢れていた。
寝る前に読み聞かせてもらった絵本の話はいつも途中で寝てしまって最後まで聞けなかった。
簡単な読み書きを覚えてから、読み聞かせを、するのは自分の役割になっていた。
それが誇らしかった。
ほんの少しの違和感だった。
この前までと違う日々を送り始めた。
はじめて叩かれた頬がとても熱くて、怖くて布団を頭から被って震えが治るまで寝付けなかった。
違和感はいつか日常になっていた。
今まで味わったことのなかった熱がいつまでも引かなかった。
痛みはしばらく消えないで、隣で泣く君が寝静まるまで、大丈夫と言い聞かせた。
何があろうとも。
その日、君と約束を交わした。
そしてしばらくはうつ伏せになって眠った。
最初の頃の幸せはそこにはもうなかった。
気づけば外にも居場所はなくなっていた。
投げられた石よりも、掛けられる言葉の方が痛くて何度も独りで泣いた。
それでもまだ居場所を求めた。
それでもまだ新しい幸せの形を作ろうとした。
はたから見れば不幸であっただろうか。
それでも、今ある限りの幸せを噛み締めていた。
僅かに残る幸せをゆっくりと育てていくんだと思っていた。
いつかの日常が今度は違和感となって表れた。
嫌な予感がした。
ずっと蝕んでいた。
もう誰も彼も壊れていた。
目を逸らしていただけで、あのとき、全ては取り 返しのつかない状態にあったのだ。
無我夢中だった。
約束だけが、生きる意味だった。
最後に縋った細い糸を掴んでいたかった。
約束は自分の手で破られた。
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あの天使が翔に近づいてからどれくらいたったのか。
何か囁いたと思えば突然黙ったまま2人ともピクリとも動かない。
私は今も囚われたままで指の一本すら動かせず、ただ、彼の無事を願うことしかできない。
あの部屋から出なければこんな事にはならなかったのに。
そもそも私が逃げ出さなければ私は幸せな夢を見たまま終われたはずだったのに……私の我儘で、せっかく掴んだ幸せと、希望を再び失う事なんてなかったのに。
自責と後悔が渦を巻いて、視界がぼやける。
それでもまだ諦めたくないと身を揺すろうと力を込めていた。
すると、先程まで微動だにしなかった天使が突然悲鳴をあげてうずくまりながら泣き出したのだ。
嗚咽混じりに何かをボヤきながら時折、嘔吐きながらのたうち回る。
顔をあげ、それから私を見つめる。
その表情は悲痛に歪んでいて、瞳は何故だろうか、慈愛に満ちていたように思えた。
悲哀。逡巡。しばしの沈黙。そして号哭。
『なんで……なんで!なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでぇぇぇ!!!!!!!!!』
『あたしは、あなたの為に……!あたしがいればそれだけで……あたしは……』
何を言っているのか理解出来なかった。
彼女の感情に言葉に、その涙に何の意味があるのか、私の為にと言う言葉が私には分からない。彼女が誰なのかさえ、断片的な記憶を辿ろうとしても、靄がかかったように、見つけられないでいた。
『それでも……それでも……』
涙を拭い、生唾を飲み込み、毅然とした表情で、
『あたしが、必ずあなたを……カルネを守るから……』
私の知らないこの人は、私の名を呼んで、あの人と同じ言葉をかけるのだった。
『たとえ、どんな手を使っても……』
そう言い残し、空へと飛び立った。
彼女が立ち去ると共に、束縛していた蛇は突如、木片へと変わり、倒れこむ翔の元へ駆け寄る。
呼び掛けには答えない。心臓は動いていないが、何かをぼやき続けている。
魘されているのだろうか。
ひとまずは翔が無事であった事に安堵し、そのまま抱えて、山を後にした。
家に着いた後も、彼女の残した言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
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目を開くと、すぐ目の前にカルネの顔があった。手のひらに温度を感じ、見ればカルネが握りしめている。
何やら只ならぬ不安を浮かべる表情に戸惑いながら身を起こし、掠れた声でどうしたのかと尋ねると。
「ずっと魘されていたから、私、どうすればいいか分からなくて。呼んでも返事がないし、さっきの人に何かされたの?」
魘されていた?悪い夢でも見たのだろうか。
ちっとも思い出せない。 あの女が近づいてきて、それから……思い返そうとしても、その記憶の断片すらない。
「そういえば、あいつは!?」
辺りを見渡して今、自分の部屋にいる事に驚いた。
僕らはたしかに山にいたはずだった。
ポケットに入れた紅葉の葉が何よりの証拠だ。
もしかしてと、カルネが追い払ったのかと尋ねてたが、それは否定された。
「良く、分からないけれど、翔に近づいて暫く経ってから突然苦しみ出して……そのまま帰って行ったの……ホントだよ!?」
カルネを疑う訳ではないが、あいつが見逃す理由はなんだ?この前のレイノルは間違いなく殺意を持ってカルネを狙っていた。
よく考えればカルネを拘束したところであのまま締め潰してしまえば、目的は達成されていたはずなのに。
もし、目的がそうでないとした……?
相手の思惑が理解出来ず思考を巡らせていると、カルネが少し上ずった声で、あの!っと切り出した。
「あの人と一体何を話してたの?」
少し俯きがちに尋ねる彼女を不思議に思ったが、僕に関する下らない質問をされてそれを答えていただけだと、説明した。
「そう……だったらいいんだけど」
落ち込んでいるのだろうか?だが、その表情の真意は汲み取れない。
本当に世間話にも満たない下らない事ばかりだったのだ。好物とか、趣味とか……そういえば……あいつの言ってた、僕の嘘ってなんなんだ?
僕は確かにあの日の火災で両親を失っている。学費も仕送りも、その2人の保険金から支払われている。
考えれば考えるほど謎は深まるばかりだ。
時刻は14:30。沈黙が続き、車の排気音や鳥の囀りに賑わう街の喧騒が、四畳半を埋め尽くす静寂を一層に際立てる。
そんな中、我関せずと窓際で毛繕いをしていたミータが、艶やかに揃えた毛を逆立て、冷蔵庫の上へと一目散に駆け上がった。
異変を感じとった僕らも外へ目を向けると、窓枠に窮屈そうに腰をかけたあいつが、昨日のあの女がそこにいた。
『さぁ、昨日のお話の続きをしましょう。』
そう言って、彼女は不敵に微笑んだ。