その一
時はさらに流れ、私は2歳になった。
これでも一応前世の記憶?がある分身体的な部分以外の成長は早いようで、拙いながらも会話となんと読み書きも出来るようになっていた。
正直、我ながらこんな異常に早熟な2歳児は怖いと思うが、両親は大いに喜んでいる。
「イリー、お母様にいってらっしゃいのキスをしてくれる?」
「はい。おかあさま、きょうもおつとめ、がんばってください」
そう言って、屈んだ麗人の頰にふにっと口付けると、とろけるような笑みを浮かべ、颯爽と出かけて行った。
さて…。
「かれん、れいのものは、よういできてますか?」
後ろに控えていたカレンに問いかけると、彼女はいつも変わらない表情を少しだけ曇らせた。
「お嬢様、使用人に敬語は必要ありませんと何度申し上げれば…いえ、ご用意は抜かりなく、出来ております。
後ほどお部屋の方にお持ちしましょう」
「ありがとうございます」
苦言を言いかけ、途中でカレンは諦めたように首を振った。
私はそれに気づかないフリでスルーする。
いや、だって…前世では生まれてこの方、使用人なんて家にいなかった上、物心ついた時から目上の人間には礼儀をもって接しなさいと教えられてきた身としては、この家のほぼ全てを取り仕切るトップにタメ口なんてきけるはずもない。
これだけはと半ば懇願される形で、名前は呼び捨てにしてるが。
そうこうしているうちに、自室にたどり着いた。
中に入ると私付きのメイド、カイが私が何か言う前にクローゼットから目的の服を持ってきて、着替えを手伝ってくれる。
「お嬢様…本当に、今日から始められるおつもりですか?
失礼を承知で申し上げますが、お嬢様にはまだ早いかと…」
「そんなことないですよ。
こういうことは、はやいうちからやって、からだにおぼえこませないと…それに、おかあさまはだいさんせいしてくれましたから」
そう言って、最後に腰紐の端を自分で腰元に押し込む。
今私が着ているのは、なんと剣道着…に似たものだ。
袴はほぼそのままなのだが、上衣は重ねるタイプではなく、スタンドカラーのつめ襟で、Pコートのように前面2列にボタンが並ぶ、少しおしゃれなデザインになっている。
もちろんコートのように分厚いことはなく、綿麻のような薄手の布を2枚重ねて1枚布にしたもので作られている。
そしてこの『闘着』、この国での正式な戦闘時の衣服なのだそうだ。
これを知った時の違和感と懐かしさが同居した不思議な感情は今も覚えている。いったいどんな世界観なんだ。
和洋折衷か?
話は戻るが、私が今これを着ているのは、剣の稽古をしようと思い立ったからだ。
私の母、ローゼは先の隣国との戦争を無事生き抜いただけでなく、なんと敵の主力部隊の隊長を撃破。
結果、見事国一番の功績を挙げ、戦後処理がようやく終わった先日老年だった前任に代わり騎士団長に任命された。
その得物は剣。
さすがに日本刀ではなく両刃の直剣だが、剣の名手なのだ。
聞けば、アイシア家は代々剣の名手を輩出してきた武闘派で、例に漏れず現アイシア家当主の長女で次期当主であるローゼも、剣の腕は確かである。
ここまで知って、私は焦った。
なぜかって?順当に行くと、私は間違いなくアイシア家の当主になる運命にあるからだ。
この国は王政で、王族、貴族、平民が存在する。
貴族階級に関してはまだ教わっていないので詳しくは知らないが、どうもアイシア家はまあまあ上の方であるらしい。
そして国の方針として、跡目を継ぐのは基本的に現当主の長子とされている。
例外は生まれつき体が弱いとか、事故で身体的な障害を負ったとか、そういうやむを得ない場合のみだ。
それすら王城から専門の者が派遣され、本当に不可能かどうか精査されるという念のいれよう。
無駄な争いを無くすためって話だが、これはこれで色々と問題がありそうな…素人なのでよくわからないが。
なお、これらの知識は以前カイに聞いた。
そんなこんなで、平和な現代日本で剣道をしていただけの私はとてつもなく焦った。
この身体のポテンシャルは不明だが、そんな武闘派貴族のお家の当主?
荷が重いにもほどがある。
だが何ひとつ異常ない健康的な身である以上、きっとこの運命からは抗えない…そう理解してからすぐ、私は自主的に剣を学びたいと両親に申し出た。
根っからの武人である母は大喜びしたが、たおやかでおしとやかな母…ではなく父は少し渋った。
結果2歳になってから、それも子供用の木刀なら、ということで許可を得た。
そして今日2歳の誕生日を迎え、晴れて稽古を開始するのだ。
チリン、とドアベルが鳴った。
「どうぞ」
「失礼いたします。こちらをお持ちいたしましたが…本当にこれでよろしいのですか?
噂を聞くに、かなり扱いが難しいそうですが…」
入ってきたのは、子供用の木刀を持ったカレンだった。
カイに渡しながら、これを頼んだ時と同じように眉を顰めている。
でも、この形が私にとっては扱い慣れている。
カイから受け取った木刀は片刃で、軽く弓なりに反っている。
正しく、日本刀と同じ形である。
とはいえ全くのオリジナルというわけではなく、どうやら遠い島国ではこの形の剣がよく使われており、名前は『三日月剣』という。
持ち手や鍔の材質や作りは日本刀とは異なるものの、とりあえず優美でかっこいい名前が気に入った。
ちなみにこれを知ったのは、母の私室にあった『世界剣全書』という本だ。
さて、場所を移動し、鍛錬場に出た。
「うーん…。
せっかくぼくとう、よういしてもらったけど、まずはすりあしからだな」
道場によるだろうが、剣道初心者はまず基本の基本、すり足からだ。
厳密には初心者ではないとはいえ、転生して剣道をするのは初めてなのでとりあえず初心に返ってやってみよう。
貴族の跡取なら、専門の教師がつくものではないのか?という疑問もあるだろうが、両親は若干遊びだと思っている節があるので、見守り兼護衛としてカイが付けられている以外は完全に放置である。
それにしても、この世界での戦闘は見たことがないが、果たしてこれが役に立つのか…。
やり始めておいてなんだが、個人的な意見として、現代における剣道は全く実践向きではないと思う。
妹に借りた小説では、現代日本で剣道を嗜んでいた人間が転生後剣で無双する…というようなシチュエーションがあったが、全くもって現実的ではない。
そもそも剣道の試合は様々なルールに則って行われるものであり、その時点で命のやり取りをする実際の戦いとはかけ離れている。
中でも1番の難関は得物の重さだ。
試合で使う竹刀は年齢や性別によって違いはあるものの、女子高生のもので例えるなら長さは37…3尺7寸(114㎝)以下、重さは400g程度。
対して一般的な日本刀の重さは1.5㎏、つまり3倍以上であるわけだ。
厳密には軽く感じられるように手元に重心が置かれたり、逆にあえて剣先に重心を置いたりすることで体感としての重さは変わるが、それでも竹刀より重いことは明白だろう。
日々鍛えている一流のプロ野球選手が真剣を振るったら筋肉痛になった…という話も聞いたことがあるから、一介の剣道選手はもちろん、全国制覇していたとしても実践で戦えるかは怪しいところだ。
悲しいかな、前世での私の実力はインターハイベスト8止まり…お話にならない。
つまるところ、色々と御託を並べてみたが両親の考えもあながち的外れでもないということだ。
前世で慣れ親しんだ形の剣があることを知り、懐かしさと好奇心、あとは日本刀に似ているなら扱い方も似ているのではないかという極めて安易な理由だ。
「よし、すりあしはこんなものか。
つぎはかまえをかくにんして、すぶりを…」
「アイリス」
優しく呼ぶ声に振り返ると、そこには大きくなったお腹を抱えた父がいた。
…もうなんでもありだな、と思っただろう。
私もだ。
「…おとうさま、おからだはだいじょうぶなのですか」
「ありがとう、アイリス。
僕も、お腹の子もとても元気だよ。特に今日は調子がいいんだ…アイリスは、お稽古はどうかな?
珍しい剣だから、なかなか先生が見つからなくてすまないね」
「そうですか…。
いいえ、わたしはだいじょうぶです。おとうさまは、いまはおなかのこのことだけをかんがえてください」
笑みを浮かべて言うと、父は苦笑して頭を軽く撫で、怪我には気をつけてとだけ言い残し屋敷に戻って行った。
男が妊娠…現代でも理論上は可能だとか男は出産の痛みに耐えられなくて死ぬだとか、都市伝説じみた話はたくさんあったが…。
なんとこの世界では、男女ともに妊娠可能だとか。
一体どういう原理なんだろうか。身体の作りからして違いそうだ。
それはさておき、稽古の続きをしよう。
「お嬢様。
そろそろお昼寝のお時間です」
「…まだそんなにたってないでしょう」
少しむっとしつつカイを振り返ると、彼がこちらに向けた懐中時計は稽古を始めてから2時間の経過を知らせていた。
三日月剣で自己流の稽古を毎日欠かさずするようになってからしばらく。
我が家に新しい命が誕生した。
「あうあー」
部屋にそっと入ると、私の気配を感じ取ったのか赤ん坊が機嫌よく笑う。
なかなか聡い子だな、将来有望だ。
「あら、お姉様が来てご機嫌ね?カメリア」
生まれた子は女の子だった。
カメリアと名付けられ母に抱かれているその子は、ピンクゴールドの髪に青みががった銀色の瞳で、大きくなったらかなりの美少女になるだろう。
幼いながらも姉の私に懐いてくれているようで、前世でも妹がいた身としては嬉しい限りである。
「きょうもかわいいね…、かめりあ。
まるでにわにさくはな…いや、それよりもかわいい。
ですよね?おかあさま!さすがはおかあさまとおとうさまのこです」
おっと、思わず心の声がだだ漏れになってしまった。
「…そうね。
お母様は、妹の事も褒めつつさり気なく両親も褒め称えるアイリスの将来が楽しみで仕方がないわ。
かわいいお婿さんを捕まえて来るのよ!」
「?
はい、がんばります」
2歳ちょっとの娘に何を言っているんだこの人。
そもそも、まだまともにここの敷地から出た事もないんだぞわたしは。
それより、ここに来たのは違う用件があるからだ。
「あの…、もしかしておとうさまはたいちょうがわるいのですか?
かめりあがうまれてから、おすがたをみていません」
そう、これを聞くためだった。
カメリアが生まれて早2週間。
出産以後、父はなぜかずっと自室に籠もっているようなのだ。
私の言葉に、母は少し目を伏せた。
いつも自信ありげに笑っている母にしては珍しい表情に、不安がよぎる。
「…あなたは本当に賢い子だから、ここでごまかしてもきっと、納得しないでしょうね?」
「はい、しません。もうしわけありません」
当たり前だ。
これでも聞くのをかなり我慢した。
2週間会わずにいてようやく気付いたが、私は今世での父のことを、きちんと親として認識できていたようだ。
それまではほぼ毎日会っていたのに、会えない。
心配で、寂しくて、夜に一人で眠る時泣きそうになる。
転生してからずっと、自分はこんなに愛して育ててくれる人たちのことをきちんと親と思えているのかが不安だった。
この身体は、自分が“アイリス”という子から奪ってしまったのではないか。
でも、しっかりとは言い表せないがこの感情は、親愛の情に他ならないと思う。
後者の問いの答えにはなっていないが、それはまた後々考えよう。
「そうだと思ったわ。
そうね…少し難しい話になるけれど、ちゃんと聞けるかしら?」
「きかせてください!」
真っ直ぐに“お母様”の目を見て言うと、いつもの明るい笑顔で答えてくれた。
「じゃあ、少し場所を変えましょう。
カメリアはここでジルに見てもらって…」
「うぎゃあああ!」
カメリア付きのメイド、ジルに渡そうとした途端、先程まで大人しかったカメリアは火がついたように泣き始めた。
「あら…嫌なの?
うーん…」
「さきほどまでおとなしくしていましたし、きっとだいじょうぶなのではないですか?
きっとかめりあも、おとうさまがしんぱいなのです」
実際、今の今まで静かだったわけだし。
お母様はカメリアをあやしながら少し考え、まあいっかと言わんばかりの顔でそうしましょう、と言った。
私はその瞬間、カメリアが赤ん坊らしからぬ仕草で、両腕でガッツポーズしたのを見た。
それは…いや、さすがに考えすぎか。
今はそれより、お父様の事が先決だ。